6日目

彼女の頭の中はあの日からずっと、ジェイドのことでいっぱいだった。一昨日のモストロ・ラウンジでのキス。あの日から自分の中でのジェイドの存在が変わりつつある。あのときのキスは嫌ではなかった。むしろ、嬉しく感じたのだ。決して雰囲気に流されただけではないと言い切れる。

しかし彼女は今でこそ人魚であるが、元々は異世界人である。いつかは自分の元の世界に帰りたい。そう思っていたはずなのに。いつからジェイドは自分の中でこんなに大きな存在になってしまったのだろうか。モストロ・ラウンジでの出来事はきっかけでしかないというのは彼女もわかっていた。しかし彼女は嬉しく感じたキスだったが、ジェイドはどう思っているのだろうか。彼はどうしてキスをしたのだろうか。その答えを聞きたいのに、聞くのが怖い。その理由はもちろんジェイドにある。元々良くも悪くもマイペースな所はあったので、予想外のことをされることは多かったが、あのモストロ・ラウンジでの出来事から特に不思議な行動が増えた気がするのだ。妙に親しい気がするが、明確な話はしてくれない。彼女はジェイドに確かめたいことがあるというのに。話は昨日に遡る。

「ジェイド先輩。」
「すー…すー…。」
「…………。」

モストロ・ラウンジに招待された次の日。ジェイドは昼過ぎに突然やってきた。そしてガン!と大きな音を立てて倒れこむように座り込み、バスダブに背を預けた。少し水気の残ったタイルの上に寮服が濡れるのも気にせず長い足を放り出し、ちらと彼女を見る。

「手を。」

すいと右手を差し出される。よくわからず、言われるがままに彼女は左手をジェイドの右手に乗せた。ジェイドはきゅっと彼女の手を包み込むと、信じられないことにそのまま静かに寝息を立てて寝てしまったのである。

「え、えーーー。」

来て2分も経たないうちの出来事である。彼女は思わず非難めいた声を上げた。もちろん起きる気配はない。しかし握られた手は決して離すまいと固く握られている。彼女は抵抗を諦めた。こういう時は諦めたほうが早いというのは、短くない時間を彼と過ごした時に得た教訓だ。

バスダブから身を乗り出して、ジェイドの顔を盗み見る。普段の不敵な笑みは鳴りを潜め、あどけない顔である。こうしてみると双子のフロイドと顔がよく似ている。いや、彼らは表情の作りが違うだけで、元々顔の作りは瓜二つではあるのだが。すうすうと寝入っている姿は少し幼く可愛らしい気さえした。

むかつく。彼女は思わず反対の手でぶみっとジェイドの頰をついた。ゔ…と小さく唸ると眉を顰めている。少し気が晴れた。そのまま視線を下ろすとジェイドの薄い唇が目に入る。

どうしてあの時キスをしたの?

昨日からこの質問が彼女の身の内でぐるぐると渦巻いている。モストロ・ラウンジの水槽に一緒に入ったあの日。最初はエラ呼吸を教えてくれるためだと思ったが、その後のキスはどう考えても、そういうキスではなかった。いいや、人魚は気軽にするのかもしれない。そんなまさか、あんなキスをしておいて。あの出来事の後の記憶は朧げであったが、口数が異様に少なかったことは覚えている。紳士的に水槽から上げてくれ、すっかり住みかとなったオクタヴィネル寮の部屋まで連れて行ってくれた。終始沈黙であったが、決して気まずくはなかった。心地よい疲労感も相まって、この沈黙も心地よい。しかしそのせいで聞きそびれてしまったのだ。

そして今日、彼と会ったら様子を伺いつつ聞いてみようと思っていたらこの調子である。なんというか、彼は酷く疲れているようだった。昨日から寝ていないのだろうか。昨日の夜ではそんな感じはしなかったはずだが。

「すー…。」

今、自分の手を求めた意味も知りたい。何もかも知らないことばかりだ。そして、それを自分も嫌に思わない理由も。何か教えてくれれば、きっとこの気持ちもわかる気がするのに。

しかしそれはずるい話だろう。彼女はただ、この身の内に湧き出た感情に名前をつけたくないだけだ。つけたくないと思っている時点で認めているようなものだが。あの時ジェイドの手を取ったのも、キスを受け入れたのも、それ以上のことも。決して強要されていない、自分で選んだ。自分の意思で落ちて行ったのだ。

彼女はがっかりしてしまった。ここまで覚悟を持って選んだというのに、最後の最後で踏み切れない自分の優柔不断さに、嫌気が差す。この感情をジェイドが名付けてくれるなら、それ以上のことはないというのに。

「…陸に上がりたい。」

この尾ヒレでは彼の手を握ることしか出来ない。そして彼から逃げ出すこともできないのだ。嫌でもこの感情に向き合わさせられる。逃げ出してしまいたい、早くここから。もしも、今ジェイドが起きて、いつも通りだったら。ただの好奇心だったら。早く起きてほしい、起きないでずっとこのままでいたい。ぐるぐると思考がループしていく。

「っ!」

彼女がため息を吐いた瞬間、ジェイドはガッと目を見開き飛び起きた。彼女は驚き飛びあがる。そんな彼女に背を向けて何かから守るように、バスルームの扉を注視する。そこから現れたのは、アズールだった。ジェイドは緊張をふと緩める。

「アズールでしたか。驚かせないでください。」
「それはこっちのセリフですよ。神経質になるお気持ちはわかりますが、これから彼女に近づこうとするたびに殺気を振りまかれては僕も困ります。」

アズールはうんざりしたようにため息を吐いた。よく見ると彼もどことなく疲れているように見える。

「何かあったんですか?」

彼女も不思議に思い、ジェイドの背から顔を出すようにしてアズールに声をかける。

「おやおや、あなたまで僕を邪魔者扱いですか。こんなに心血を注いで協力して差し上げたというのに…。」
「アズール。これ以上は怒りますよ。」
「…あなたたちの邪魔をしたかったわけじゃありませんよ。ジェイド、学園長が呼んでいます。今すぐに来るようにと。」

ジェイドは少し嫌そうにため息をついた。そしてしぶしぶといったように彼女に振り返る。

「すいません、少し出ます。必ず戻りますので、いい子で待っていてくださいね。」
「あっ、はい。」

彼女はすっと彼の手を離そうとしたが、ジェイドが彼女の手を離そうとしなかった。何か言いたそうにじっと彼女を見つめている。

「…ジェイド。」

それに我慢ならなくなったのはアズールだった。少し焦れたように彼の名前を呼ぶ。ジェイドはそれに素直に従った。

「…行ってきます。」

最後に一度、彼女の手をキュッと握るとそのままゆっくり離していった。彼女の力を入れていなかった手がぽとりと下に落ちていく。それを見届けるとジェイドはすれ違いざまにアズールにちらと目線を送りながら、バスルームから出て行った。

「ジェイドがすいません。」

ジェイドが出ていくと、アズールはさっきの少しピリピリとした空気をすっかりしまって朗らかに話しかけてきた。バスルーム内にある少し高めの小さなスツールをバスダブのすぐ近くに移動させ腰掛けた。これもバスルームに来る来客者のためにジェイドが用意していったものだ。

「学園長に呼び出しって、何かあったんですか?」

この体について何かわかったのだろうか。それとも全くの別件か。

「あなたが心配することじゃありませんよ。少しおイタがばれてしまって。」
「おイタ?」
「あなたは気になりませんでしたか?ここに来てから初日以降、先生の見回りを除いて僕ら3人以外の人に会わないことに。」
「あ…。」

思い返してみればそうだった。初日以降、朝夕の先生の見回りとジェイド、フロイド、アズールそして一緒にここに来たグリム以外に会っていない。普段よく一緒にいるエースやデュースとかは一回くらい来てくれてもいいはずなのに。

「フロイドに協力してもらって、人払いの魔法をかけていたんですよ。僕ら以外はあなたの部屋がわからないようにね。先生がいらっしゃる時間だけジェイドが魔法を解いていたんですが、学園長が抜き打ちでいらっしゃった時にばれてしまいましてねぇ。夜遅い時間だったのにあなたはいませんでしたし、それも相まって呼び出されてしまったんです。きっと今頃お説教でしょうね。」
「それって結構やばくないですか…?」

元はといえば彼女がここから出て気分転換をしたいと言ったのが、ことの始まりだ。自分は関係ないとはさすがに言えない。

「いえ、別にやましいことをしていたわけではないでしょうし…、もし、昨晩やましいことをしても言わないでしょうし。きっとちゃんと報告しなさいと注意を受けるくらいでしょう。あなたの体調管理を万全にできるのは僕たちしかいないので、学園側も強くは言ってこないでしょう。」

アズールはなんてことないとでも言いたげに肩を竦めた。本当にオクタヴィネルは学園長を困らせることが上手だ。

「というか、なんで人払いを…?」

せめて一言言ってくれても良かったと思う。決してこの五日間暇で退屈だったというわけではないが、この三人以外自分の居場所がわからなくなるのは、結構リスキーではないだろうか。鍵もかけているわけなので、セキュリティの面でも問題はないはずである。

「驚いた、あなた、まだご自分がどんなお立場かわかっていないんですね。これではジェイドが報われない。」

アズールは心底驚愕したようだった。一度ついと眼鏡を上げると彼女にグッと顔を近づけた。深海の冷たい水のようなつるりとした美貌に彼女は少し慄く。美しい男の真顔には妙な迫力があるのだ。

「どうしてジェイドが甲斐甲斐しくあなたの元に通っていると思いますか。」
「そ、れは、あの、責任があるって…。」
「ふふ、責任。ジェイドが責任を感じて動くような男であるものか。責任感では人払いの魔法などかけないでしょう。」

アズールはゆっくりと手の甲に顎を乗せた。その様子は不利な契約を押し付けるためにじわじわと追い込んでいる時によく似ている。彼女はなんとなく、嫌な予感がした。この先を聞いてしまったら、とんでもないことになってしまいそうな気がするのだ。

「あの、やっぱいいで」

アズールは彼女の言葉を気にも留めず話し続ける。

「僕たち海に生きる者はね、大切な物は仕舞ってしまうんですよ。そのままにしていたら、水流に流されてしまうかもしれない。もしくは誰かに奪われてしまうかも…。」

そういえばアズールも金の契約書は金庫で管理していたはずだ。しかしそれが今回の件と何か関係するだろうか。そのままの意味で取れば、まるで自分はジェイドの大切な物のように捉えてしまう。

「…本当に、そうでしょうか。」
「は?」

アズールは脱力した。ジェイドが聞いたら怒りそうな大ヒントを出したというのに、彼女はそれをあっさりと否定したのだ。先ほどのジェイドとのやりとりといい、二人の関係は特別であるように見えたのに。

「人魚の人は、何も言ってくれないんですか。」
「ま、待ってください、どういうことですか。」
「私、ジェイド先輩に何も言われてないんです。」

ただ無言で抱き合って、ただ無言でキスをした。彼女にとっては特別だったが、彼にとってこれはどういう意味を持っているのだろうか。目頭がツンと熱くなる。それを何度も瞬きをしてごまかした。

「な、なにも、というと…。」
「今日だって、突然来て寝てたし、なんで、なんで昨日、あんな、キス、を…。」
「言わなくていいです!僕が浅慮でした!」

あんの意気地なし!アズールは心の中でジェイドを罵った。あいつ、きっちり手を出したにも関わらず、彼女にはなにも言っていないと見た。どうりで話が噛み合わないわけだ。

「ジェイド先輩のことがわからないんです。」

彼女は目を伏せると、顔に長い睫毛が影を落とした。尾ヒレを抱えるようにぎゅっと折りたたむと、そこに顔を埋める。人間で言う所の体育座りというものだ。彼女はさすがに尾ヒレの扱いにも慣れては来ているが、当然でもあるが、どうしても人間の足のように扱うことが多かった。

彼女の消沈した姿に、アズールは気の毒に思ってしまった。親元から一人引き離され異世界に飛ばされ、ジェイドを筆頭とした自分たちに目をつけられ、挙句なぜか人魚になり、恋に苦しんでいる。彼女は頑なに恋を認めないだろうが。アズールとしても彼女のことを大切に思っている。せめて幸せになって欲しいと思うくらいには。そのため、今回のジェイドには思う所が多々ある。キスだけしてその後になにも言わなかったら不安に思う心は男や女、種族関係なくある感情だろうに。妙に聡いくせにこういう時ばかり鈍感だ。

「やはり僕はあなたにお詫びをしなくてはいけませんね。」

彼女は小さく顔を上げた。

「…人魚になったことの話なら…。」
「いいえ、今回のジェイドの件です。」
「それはアズール先輩が謝ることじゃ…。」
「寮生の粗相はオクタヴィネルの監督生たる僕の責任でもあります。今回の出来事を、解決して差し上げましょう。」

解決など大きな口を叩いているが、アズールはただきっかけを与えてやるだけだ。この感情は二人が処理していかねばならないものなのだから。

「ジェイドと話をするといい。それだけであなたの疑問は全て解決します。」
「でも、ジェイド先輩忙しそうですし…。それに今日だって…。」

アズールは再びついをメガネを上げた。だからお詫びをすると言っているのだ。

「ええ、ジェイドは多忙です。ですから、僕に願うといい。」

明日1日ジェイドと話がしたい、と。



そして今日に至るということだ。今は全ての準備が整い、ジェイドを待っている。人魚姫のように王子に会いに行って狩るのもいいが、王子を待って罠を張るというのも悪くないでしょう、と言ってアズールが色々手を回してくれたのでだ。と言っても、別に悪いことをするわけでも、ジェイドを危険な目に合わせるわけでもないので、そんなに難しい魔法を使ったわけではないようだ。この魔法のために、今日はグリムにはハーツラビュル寮に行ってもらうことにしている。

ジェイドが来ると言っていた時間まで後少し。今日は必ず捕まえて白黒付けたいのだ。自分の気持ちにも、ジェイドの気持ちにも。遊びならそれでもいい。そもそも自分だってジェイドのことを本当に好きなのかわからないのだ。

「…失礼しても?」

言葉と同時にノックが響いた。ジェイドだ。彼女は飛び上がると震える声で返事をした。

「ど、どうぞ!」

彼女の返事を聞いてジェイドはバスルームに入ってくる。しかし何か異変を感じるのか、ほんの少しだけ不審そうだ。

「…アズールかフロイドが何かしていきましたか?」

ジェイドはそう言いながらドアを閉める。パタン、と完全に締めた瞬間、かちゃりを音を立てて鍵が閉まった。彼女も急いでアズールに言われた通り、初日オクタヴィネル寮生にもらったエレクトリカルに光るアヒルちゃんのスイッチを押して叫んだ。

「かかりましたねジェイド先輩!」
「!?」

エレクトリカルなアヒルちゃんのスイッチが入った瞬間、バスルームのドアに魔法印が浮かび上がる。アズールがかけてくれたのは“鍵のかかった部屋”という魔法だった。文字通りの魔法である。

「…なんのつもりですか?こんなことをしなくても僕は逃げませんよ。」
「嘘です。昨日だってすぐにいなくなっちゃったじゃないですか。」

結局あの日も戻ると言ってから、戻ることはなかった。この人魚騒動で忙しいのだろう。でも今日はそうはさせるまいと、エレクトリカルなアヒルちゃんが光っている間だけ魔法で施錠出来るようにしてもらったのだ。彼女は話し合いたいのだ。

「新しい遊びですか?」

しかしジェイドは閉じ込められたというのに飄々としていた。いや、少なくとも彼女にはそう見えていた。実際のところは誰にもわからない。フロイドなら多少は何かを感じたかもしれないが。

「…そ、そうです。」

その一切変わらない態度に彼女は傷ついた。やはりあの時のことはこの人にとってはなんともないことなのだ。その事実が悲しい。やはり自分はあの時から彼のことを好きになっていたのだ。

「あの、えっと…。」

思わず顔を俯かせる。恋に気づいたのにもう失恋だなんて。鼻の奥がツンと痛み、目頭が熱くなる。まるで溺れているようだ。

「な、どうして泣くんです!?」

ジェイドはぎょっとして彼女に近づき、制服が濡れるのを気にせず膝をついて、目線を合わせようと顔を覗き込む。彼女はすいと顔を背けた。ジェイドはそれが気に食わなかったが態度には出さず、勤めて優しい声で諭すように声を掛ける。

「ほら、お顔を見せてください。何か悲しいことがあったんですか。」

彼女の頬を両手で包むようにして無理矢理顔を向かせようとする。彼女はバチャバチャと両手と尾ヒレをばたつかせて抵抗した。自分が触れようとした時にこんなに抵抗されたのは初めてのことだった。

「さ、触らないでください!」
「っ!?」

ジェイドは驚いて手を引っ込めた。彼女直接的に拒まれたことに衝撃を覚えたのだ。彼女は本格的にポロポロと涙を流し始めた。こんな時だというのに、ジェイドはそれを勿体無いと思った。その涙は自分が拭いたいのに。

「すいません、ジェイド先輩は悪くないんです。私が勝手に勘違いして、それで…。」
「どういうことですか。」

ジェイドは手を伸ばしたいのをグッと我慢した。なんとなく嫌な予感がする。

「あ、あの日のキス…。」

あの日というのは水槽でのデートのことを言っているのだろう。ジェイドもその日は自分にとって特別な日だと思っている。何か気にかかるようなことを…。いや、した記憶はある。しかし、彼女も受け入れていてくれたはずだ。

「わ、私、舞い上がっちゃって…。ジェイド先輩が、私のこと好きなんじゃないかって。」
「は?」

結局、つらつらと言い訳を重ねてきたがそういうことだった。彼女はジェイドに好意を寄せられているんじゃないかと思ったら嬉しかったのだ。自分の問題を後回しにできるくらいには。そして彼女は彼に恋をした。ただそれだけのことだった。

「すいません、本当に。自意識過剰で…。なので、その…。」
「好きですよ。」
「え?」
「あなたのことが好きです。」

ジェイドの頭の中は異様に冷静だった。自分の恋心が彼女に届いていなかったということに多少の驚きはあるが、それ以上に、ここで誤解を解かねば次はないことがわかるくらいには頭の中が澄んでいる。

「あの時、言っていませんでしたか。」
「…わからないです。」
「言ったと思っていたのですが…。」

彼女は言ったと言われてみれば、言われていたような気がしてきた。ジェイドとしても、言っていたような気がしていたのだ。しかし、彼もあの日色々と記憶がおぼろげだったため、確信が持てない。

「好きじゃない人にこんなに通いませんよ。身の回りのお世話だって。」
「でも、あの後何も言ってくれなかったですし、突然寝るし…。」
「ああ、すいません。あのデートの後色々立て込んでしまいまして。本当はもっとお話ししたかったんです…本当ですよ?」

触っても?ジェイドは彼女に声を掛ける。今度は拒否されず、彼女は小さく頷いた。

「僕は隠し事が多い。」
「そ、そうですね。」

彼女もそれはわかっていた。そして、今回の件もおそらく彼が何かしら関わっていることも。

「ですが、あなたには誠実でありたいと思っています。」

その誠実さが彼女の望んだ形の誠実さかはわからない。しかし、そうありたいと思ってくれているだけで十分だった。

「あなたのお返事は?」
「えっ」
「僕からの好意には気づいていたんですよね。あなたのお気持ちを聞いていません。」

彼女の涙はもう先ほどの驚きで止まっている。しかしジェイドは拭えなかった分を取り返すかのように、優しく目尻を拭った。彼女は今度は顔を真っ赤にして俯く。今度は無理矢理目線を合わせようとしても拒否はされなかった。

「…わ、わたし……。」

彼女は何かを考えるかのように言葉を詰まらせた。どう言えば誤解なく伝えられるのだろうか。

「いつか、元の世界に帰りたいと思っているんです。」

それは彼に対する裏切りであることを彼女はわかっていた。それでも、彼に嘘をつきたくなかった。

「知っていますよ。」

ジェイドはまだ優しく目元を拭っている。もう涙は出ていないのに。

「いいんですか?わたしは元の世界に帰れるとわかった時、絶対に揺らぎます。」
「いい訳ないじゃないですか。…ですが、僕よりも年下の女性に故郷を捨てろと迫るほど、僕も悪魔ではありません。その時になって僕を選んで貰えるように頑張りたいと思います。」

目元をこすられすぎて少し痛くなってきた。それでも頬を撫でる感覚は心地よい。ジェイドもまた、手のひらに伝わるひんやりとした人魚の体温が、人間の体には心地よかった。

「あなたが今、何を選ぶかです。後々のことは後から一緒に考えてもいいと思いませんか?」

それは悪魔の誘惑だ。この問題は後に回していい問題ではない。それでも彼女は彼の差し出された手を拒むことはできなかった。

「わた、しは…。」
「はい。」

そろりと視線を上げる。蕩けるような金色と鈍色のオッドアイが彼女の両目を捉えた。

「ジェイド先輩のことが、好きで…ん!?」

彼女の渾身の告白は最後まで言うことができなかった。ジェイドが最後まで待たずに唇を自分のそれで塞いだからだ。

「ああ…ああ!嬉しいです、あなたと両想いになれたなんて!」

ジェイドはバスダブ越しに彼女をぎゅうと抱きしめた。彼女もそろそろと彼の背中に手を回す。

「わたしも、嬉しいです。」

さっきまで失恋したと思っていたくらいだ。嬉しくないわけがない。

「きっと僕はあなたにたくさん隠し事をします。でもできるだけお教えしますから、あなたもできるだけ隠し事をしないでくださいね。」

できるだけ。その逃げ道が嬉しいと思った。これはきっと彼なりの気遣いである。そして彼自身の逃げ道でも。

「…?なんか、尾ヒレが…。」

彼女はふと尾ヒレに違和感を感じ、視線を落とした。よくよく見ると、細かい泡が彼女の尾ヒレから腰ヒレにかけて覆っていた。しゅわしゅわと気泡が水面に上がっていく。

「じ、ジェイド先輩!」

怖くなって思わず彼にしがみつく。ばちゃんと水がはね、彼の制服を濡らした。

「落ちついてください。薬の効果が切れ始めているんです。」
「え!?!?」

こんな前触れもなく起きるものなのだろうか。まるでこんな、泡になって消えていくような…。

「こんな突然なんですか!?」

ジェイドは珍しく口ごもった。非常に言いづらそうである。しかし、再び涙目になった彼女を見て、意を決したように口を開く。

「…王子様と真実のキスをしたでしょう。」
「は?」

彼女はぽかんと口を開けて彼を見た。ジェイドは気まずそうに彼女の口を手のひらで覆う。

「…僕も正直言いづらいので何もコメントしないでください。この薬は、王子様と真実のキスをすると溶ける薬だったんです。」

ジェイドは、本当はモストロ・ラウンジの水槽に招待した時、彼女にキスをして人間に戻してあげようと思っていた。まさかあれでは解けないことに驚いたのだ。それを置いておいても夢中になって、後半は何も考えていなかったが。

しかし、自分は王子なんてものではない。薬の効能を知った時に彼は頭を抱えたものだ。しかし、他の男に譲るなどもっての他だった。

「あなた、クマノミが珊瑚にぶつかったような顔をしていますが、あなたにとっても恥ずかしい話ですからね。この薬は飲んだ人が相手を王子だと思わなければ、真実のキスをしても解けませんから。」
「なっ…!?」

なんてこっぱずかしいものなのだ。ジェイドが黙っていたのも頷ける。しかし、彼女の顔がみるみる赤くなっていく様を見たら楽しくなってきたようだった。彼はそういう男だ。

「わ、忘れてください!」
「こんな光栄なこと、忘れられませんね。」
「もう今日は帰ってください。」
「つれないですねぇ…。あなたの王子である僕としては、ご希望に沿いたいのですが…。あなたが鍵をかけてしまったので、僕では開けることができません。」

彼女は思い出したようにエレクトリカルに光るアヒルちゃんを取り出した。未だ呑気に光っている。魔法が作動している証拠だ。

「こ、ここを押せば…。」
「おっと失礼、手が滑ってしまいました。」

ジェイドはひょいとアヒルちゃんと取り上げると、バズルームの隅にぶん投げた。

「せっかくアズールにもらった時間です。有効活用いたしましょう。」

ジェイドは語尾にハートが付くくらい甘ったるく囁くと、彼女の耳にキスをした。これにアズールが一枚噛んでいることも知っているらしい。早くも彼女は、彼を選んだことを後悔していた。

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