7日目

そうは言っても完全に尾ヒレが無くなり、足に戻ったのは次の日の夕方、日も沈もうとしている時だった。

「戻ったー!」

人間に戻れると聞いて、昨日は空気を読んで帰ってこなかったグリムも駆けつけてくれた。もちろん、ジェイドを始めとしたオクタヴィネル寮生や、学園長、クルーウェルも見届けるために同席している。

「よかったねぇ、小エビちゃん。これからはァ、飲み物には気をつけるんだよ。」
「気をつけるのは僕達の方です、フロイド。こんな不祥事、2度目はありませんからね。」

アズールは少しうんざりしたようにため息を吐く。今回の件で色々と苦労したようだった。最高責任者というのも楽じゃない。

「まったくだ、次同じことが起きようものなら営業停止も視野に入れるぞ。」

クルーウェルは教鞭をピシリと自分の手のひらに当てる。そうは言っても聞く連中だとは思ってはいないが、その連中を飼いならすのが教師の務めでもある。

「いやいや、それにしても良かったですねぇ、私も安心しましたよ。ささ、私が特別に魔法で乾かしてあげますので早くバスダブから出てください。私は本当に優しいので。」

学園長が本当に優しいかはさておき、確かにいつまでもバスダブにいる理由はない。人魚の時はあんなに心地良かった水の中が、今では違和感を感じ、濡れたシュミーズが少し居心地悪い。もう自分は人魚ではないということを実感する。人間と人魚では住む世界が違うのだ。彼女は立ち上がろうと両の足に力を入れた。

「いっ!?!?!」
「大丈夫ですか!?」

彼女の悲鳴に真っ先に駆けつけたのはもちろんジェイドだった。彼女の肩を持ち身を案じる姿は、まるで彼女が初めて人魚になった時と重なるようだ。

「あ、足が…。」

何度見ても彼女の足は人間の足だった。しかし彼女は自分の足を信じられないものを見るような目で見ている。

「触っても?」

ジェイドがそう聞くと彼女はコクリと頷いた。ジェイドはまた、水の中に手を突っ込むと、昨日とは変わって鱗一つない、なだらかな人間の足を触る。彼女はジェイドに足を触れられても、先ほどのような声は上げなかった。

「特に変わったところはなさそうですが…。押されると痛いところとかありますか?」

彼女はふるふると首を横に振った。

「このままだと痛くないんですけど…、立とうとすると両足が焼けるように痛いんです。」
「それは…。」

まるで人魚姫のようじゃないか!

ジェイドはそう言おうとして口を閉ざした。彼女にはあまりにも酷な話である。

「…随分と人魚の尾が体に馴染んでいたようだな。安心しろ、体に馴染めば痛みも直に引く。」

クルーウェルは頭を抱えた。どうしてこう、彼女には平穏が訪れないのだろうか。彼女が不憫で仕方がない。

しかし彼女は人魚の尾が体に馴染んだことの心当たりがあった。ジェイドをそっと見ると、パチリと目が合う。彼も心当たりがあるようだった。

「…今度は、歩き方を教えてくれますか?」

彼女がこっそりとジェイドに耳打ちをした。彼は少し擽ったそうに笑うと頷く。

「僕がリードしましょう。歩き方は土が教えてくれるはずですよ。」

あの時の水槽の中のようにジェイドは微笑み手を差し出した。彼女は陸に上がるためにその手をとる。人魚になる前は秋の最中であったのに、今ではどこか冬の匂いがする。冬が一番過ごしやすいと言っていた彼の手は、水中とは違って温かかった。



「おや、王子様のお出ましですね。」
「からかうのはやめてください、アズール。」

アズールのからかうような口調に、ジェイドは満更でもない顔で笑った。彼女の王子様になれたことは大変光栄なことだ。その王子が正しく善良でクリーンな王子であるかは別の話だからである。

「珊瑚の海に連れて行くの?」
「その答えを出すのはまだ早いでしょう。僕たちは学生なのですから。」

ジェイドらしからぬ答えにフロイドとアズールは目を丸くした。欲しいものはどんな手を使っても奪うような男だというのに随分と…。

「可愛らしいことを言うんですね。」
「ふふ、僕も人の子ということですよ。彼女に嫌われたくないんです。」
「お優しいことだ。」

白々しいジェイドの微笑みに白々しく答える。どうせ今はこう言っているが、時間の問題だろう。

「アズール、自分の手の内にいる限りはって付け足してよ。」

フロイドは面白そうに笑いながら付け足した。ジェイドは否定せず微笑んでいる。それが答えだった。

「ああ失礼。ですが、海の男なんてそんなものでしょう。」
「違いないや。」

欲しいものは策を巡らせ必ずモノにする。それが人魚達が深海の商人と揶揄される所以である。陸よりも物資が限られている海は、商売の能力こそが全てだ。

「それに彼女の鏡はまだ割れていません。」

彼女が通ってきたという鏡。ジェイドの次の目標はあの鏡を彼女に自発的に割らせることである。あの鏡は彼には、彼女以外は決して割ることのできない鏡なのだ。

「なんだ、ジェイドぜ〜んぜんダメじゃん。ゲンメツ。」

ジェイドの言葉にフロイドは見るからに落胆した。鏡が割れていないということは、彼女はジェイドを選んでもなお、彼女の元の世界に執着しているというこだ。まったく、せっかく両思いになったというのに。しかし、自分の片割れが甲斐性のない男であることをフロイドは十二分に分かっているため、想定の範囲内ではある。

「こらフロイド、あんまりなことを言うな。何かを選ぶ、というのは容易なことじゃない。それは我々もよくわかっているでしょう。」

アズールはにやにやと当てつけのようにジェイドを庇った。彼もフロイドと同じ気持ちだ。ジェイドの人魚性の話はさておき、彼女の気持ちも彼らは完全に分からないわけではないのだ。海を捨てられない彼らが、彼女に何かを捨てろと迫るのはあまりにフェアじゃないことを彼らは知っている。

「ふふ、僕は優しい友人を持って幸せ者ですね。」

しかし、アンフェアは彼らの領分でもある。ジェイドはうっそりと笑う。フェアのように見せかけて、自分の思い描いた利を奪い取る。これこそがビジネスの基本だ。

「そういえばぁ、小エビちゃんが飲んじゃったクスリ、結局誰が盛ったのかなぁ。」
「おやフロイド、あなた知らないんですか。」

ジェイドは意外そうにフロイドを見た。その仕草はなんとも白々しく、アズールは思わず笑ってしまった。

「もう誰も知りませんよ。泡になってしまったのですから。」

そう言ってアズールは手慣れたように手元から一枚の契約書を取り出すと、書面を確認することもなく、中型のアクアリウムの中に入れる。契約書はみるみると泡になって溶けていく。署名欄はもう誰の名前が書いているかはわからなかった。

「え〜残念。」

フロイドは契約書が溶かされたアクアリウムをじっと見つめたが、その中には何も残っていなかった。ただ物言わぬ泡だけが水面に上がっていた。

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