子守唄

まるで海の中にいるみたい。ジェイドのベッドの中で彼女はありきたりな感想を思った。オクタヴィネル寮こそ、海の中にある不思議な寮だが、入ってしまうと一転、陸と変わらない形をしている。宙に魚が泳ぐこともなければ、髪が水中の海草のように揺らぐこともない。しかしその昔初めて案内されたジェイドの部屋はラウンジなどの雰囲気とは一変して、深い青に統一された海の底のような部屋だった。山を愛でる会に所属し、土と植物に深く興味を抱いている彼なら、部屋もてっきりそうであると思っていたのに。

「そう感じるように作りましたから。」

ジェイドは寝転がる彼女に巻きつくように抱きしめると、乱れていたシーツを引っ張り、彼女にかけてあげた。素肌とシーツが擦れる感覚は、海中にいるときに似ていてジェイドは気に入っていた。そして彼女と深く愛しあった後にぴっとりとくっついて眠るのは陸に上がってから初めての感覚だったが、もう既に慣れるほど肌を重ね、ジェイドのお気に入りの一つになってる。

彼女はどこもかしこも柔らかく、どこかいい匂いがした。隣で自分のなすがままに身を預けているこの女は、彼が惚れ込み、あの手この手で手と頭と新たに得た足を回し、時に脅し時に甘言を吐き、己の手の中に落とした女だ。

この女はいつまで自分の巣穴にいてくれるだろうか。彼女の心の一欠片を齧りとることに成功したが、それだけは到底腹は満たされない。恋というのは1つの精神疾患で、彼が今まで積み上げてきた人格をあっさりと豹変させてしまう。それでいて欲の深さだけでは変わらないのだから厄介なことこの上ない。いつの時代も生き物というのは恋をすると愚かになる。さらにこの病気は相手に報われないと治らないのだから手に負えない。自分一人で完結しない感情はこれだから困る。だからといってジェイドは叶わぬ相手に恋をしている自分に酔うこともなかったので、知略と狂気と執着をもって好いた女を我が物にした。次は一欠片だけでなく全てを。二度と離れぬように。

そんなジェイドの企みも何処吹く風か、女は意外にもこの巣穴を気に入っている。もちろんこの気難しい男が自室に上げてくれているという優越感もある。しかし、初めて彼氏が出来て浮かれきったティーンのような発想で心底業腹な話ではあるが、この海の中のような部屋はどこか懐かしく彼女の心を安心させた。生まれ育った環境とまったく違う文化や言語の中で暮らしている彼女にとって等身大にくつろげる場所というのは多くない。この男自身は非常に安心できない男ではあるが、彼女が安心できる環境を提供する能力に長けていた。これこそが彼の罠だとわかっていても、その魅力に抗える人間は多くないだろう。もちろん、この物腰柔らかさに反して存外爆弾のような男自身に惹かれなければその魅力も泡となるが。例え脅されようと、手足をもがれようと、嫌いな男に膝を付くくらいなら死を選ぶくらいの気概は、多少弱っていたとしてもこの女にも備わっている。

恋という病気は伝染する。彼のひねくれてるように見えてその実、純粋でまっすぐな狂気に触れて、この女も狂ってしまったのだ。彼と一緒にいると安心する、と思ってしまう程度には。これだから恋というのは恐ろしい。一番恐ろしいのは病にかかっている本人すら、自分たちの理性、左脳がまったく機能せず、右脳がオーバーヒートしていることが痛いほどわかっているのに、一切止められないということだろう。

「…声に出てた?」

「ええ。」

彼女は思っていたことが口に出てたとは知らず、ジェイドからの返答が来たことに少し驚いた。そして巻きつくように抱きついてきた彼の足に自分の足を絡める。この海の底のような部屋に入ると、彼に自分と同じ足が付いているというのが不思議な気持ちになり、本当に足があるのか確認したくなったのだ。行儀悪くも足先で彼のふくらはぎを撫でてみる。ジェイドは突然の刺激に一瞬ぴくりと体を震わすと、まるでいたずらを咎めるように彼の足が女の両足をきゅっと挟んできて、身動きが取れなくされてしまった。

「悪戯な足ですね。」

ジェイドは楽しそうにくすくすと笑い、彼女もつられて静かに笑った。鼻先が触れそうなほどに接近していたため、笑った振動でジェイドの高い鼻が彼女の頬に触れる。彼の高い鼻がほんの少しだけ気に食わず、きゅっと摘んでやった。それでも彼は嬉しそうに笑っており、鼻を摘んだせいか少しこもった声になっていた。

「高いお鼻、いいな。」

「あなたの鼻も小さくて可愛いですよ。」

東洋人独特の柔らかい鼻は、ジェイドにとって未知のものであり、初めて触れた時その柔らかさに驚いた。兄弟のフロイドや、彼女と同じく陸に住んでいるリドルたちとは全然違う。陸の人間は民族が違うと顔の形状も変わってくるとそこで初めて知ったのだった。

「海の中の方が安心するの?」

「16年は海で生活していましたからね。陸は面白くて好きですが、海の中が嫌いだったわけでもありませんし。」

陸への好奇心はいつからかは思い出せないが、漠然とずっとあり、それはきっと兄弟のフロイドも同じであった。しかし、決して海の生活が疎ましいと思っていたわけではない。隣の海草は青く見えるということだ。陸に上がってから得た足も、肌を撫でる風も、草の香りも、全てが彼にとって新鮮だったが、純粋に楽しかったのは最初だけだ。いつだってふとした瞬間に思い出すのは、兄弟の美しい尾ビレ、頬を優しく滑る水流、淡く降り注ぐ光、生まれ育った海の中の生活だった。嵐にも似た懐かしさがフラッシュバックし、彼に強烈な郷愁を味あわせる。そうしてできたのがこの部屋だった。

「あなただって、生活するなら生まれ育った陸の方がいいでしょう?」

ジェイドの左手の親指が女のちょうど首の真ん中、男のように出ていない喉仏に触れる。ずるい男だ。こんなにも生物が持つ故郷への懐かしさ、回帰願望を理解しているのに、この女にはその感情の一切を許してはいない。彼女が故郷恋しいとさめざめ泣こうものなら、自分の手を一瞬でも離そうとするのなら、この男は女を殺すだろう。女もそれはどことなく感づいていた。

「うーん、どうかな。」

幸運だったのは、彼女がこの部屋のおかげで郷愁の念が薄いことだった。そしてどの世界でも女という生き物は存外変化に強い。柔軟さ、順応能力こそが、どの世界でも女達が生き抜いてこれた理由でもあるだろう。

彼の腕の中でもぞもぞと体の向きを仰向けに変える。天井はガラス張りのようになっていて、二人を照らすに至らない細い光がゆらゆらと降ってくる。白く美しい絹の糸が空からゆったりと降ってきているようだった。手を伸ばすと絹の糸は手にまとわりついてくるように見える。掴めるはずがないとわかっているが、それでも掴もうと手のひらをゆらゆらと動かした。

「もし海の中が本当にこんな感じなら、私は海の中好きだよ。安心する。」

ジェイドの手は未だ彼女の首にかかっている。彼の執着に触れた彼女は、心底愛おしくなり、少し首を傾けて、そのまま手の甲に頬ずりをした。およそ期待通りの返事をもらったジェイドは手の甲をされるがままに、間髪入れずに口を開く。

「陸よりも?」

「生命の保証がされているなら。」

最後まで夢を見させてくれない女である。それはこの関係になる前から分かっていたことであったが。ジェイドは心から予定調和を嫌っているので、彼女のこうした返答はとても満足させてくれる。自分の思い通りの返答しかしない人間など、生きているとは言えないだろう。彼女の時折こうした発言が、ジェイドにとって彼女の生を感じることができるものだった。

「陸の生き物はみんなそう感じるんでしょうか。それとも、あなたが特別海の中が好きなんですか?」

女は鼻で小さく笑った。可愛い男だ。

「意地の悪いことをいうなあ。命の保証してくれないくせに。」

「おや、これでもいつもあなたの居心地がいいように、もてなしているつもりなんですけどね。」

「嘘ばっかり。ここに来るといつも溺れそうになる。」

「なるほど。それは褒め言葉として受け取っておきます。」

ジェイドは満足そうに微笑んだ。可愛い男とは言ったものの、行為に関して言えばこの男は凶暴だ。短くない期間、部屋に通っているうちに、彼の部屋に行くというのは、二人の間で暗黙のイエスということになっていた。彼との行為は嫌ではないが、体力も体格も桁違いのためとにかく息が苦しい。特に彼は女が苦しめば苦しむほど歯止めが効かなくなっていくので、毎回女は満身創痍になる。そんな中、この部屋の雰囲気と相まって、まるで溺れているような気持ちにさせられるのだ。

「私、毎回今回こそあなたに殺されるって思う。」

「心外ですね。あなたも楽しんでいるくせに。」

どの口で。毎回つやつやしているのはジェイドのくせに。口には出さず言い返す。口に出したらさらに10倍になって返ってくることはとうの昔に知っている。今更どうしてこの男と付き合い、この部屋に通い続けているのか自分でも疑問に思ってしまう。

「あなたを殺すとしても、最後まで面倒をみますからね。海に落ちて死んだ人間の死骸を見たことありますか?汚いですよ。」

そう言いながらもジェイドの表情は楽しそうだった。まるで愉快なものを見てきたとでもいうように。女にとって醜く変形した人間の死体など聞いただけで不快であるし、想像もしたくないというのに。

「一度底へ底へと沈み、浅ましくもまた、陸を目指して浮かび上がろうとする。体は醜く膨らみ、体液を海に撒き散らして最後は散り散りになっていく。海の底に来てくれたのに死してなお最後は陸に戻ろうとするなんて、冷たい話ですよね。」

これはジェイドの当てつけだと女は思った。きっとその水死体と自分を重ねているのだろう。いつかお前も陸に帰るのだろうというでもいうように。

「ですから、そうなる前に僕が綺麗に食べて差し上げます。」

だから安心してくださいね。彼女はそう言われてうっかり死体の処理の仕方の1つに魚に食べさせるというのがあることを思い出してしまった。やっぱり食べることに抵抗ないのかな。さすがに怖くて聞けなかった。

そういって当てつけたり、脅さなくたって、ずっと一緒にいたいと思っているのに。望んでこの巣穴に居座っているというのにそれでも彼の気は済まないようだ。こっちだって、いつあなたの陸への関心が、自分への関心が無くなってしまうのか気が気でないというのに。それでも、彼のこの水圧のように重くまとわりつく執着は、彼女を安心させてくれる。

「なら、私もあなたが汚く腐る前に、ちゃんと頭を取って骨と腸を抜いて下味つけて料理して食べてあげるね。」


あなたが私のすべてを手に入れたいと思っているのと同じように、私もあなたの全て手に入れたいと思っていることを忘れないでほしい。

「ふふっ、それはそれは。」

余裕そうに笑いはしたが、ジェイドは内心してやられたと思った。まさかそんな嬉しい言葉を聞けるとは思ってもいなかったからである。これは自分が完全に彼女を測り間違えていたようだ。うまく笑えているだろうか。だらしなく顔が緩んでいないかだけが心配である。

しばしの無言が二人を取り巻いた。サァー、サァーと、どこからともなく波の音が聞こえる。その音に耳を傾けながら目を閉じれば、上空から降る淡い光も遮断され、波の音が鼓膜を通じて脳に届く。そして脳に届いた音が女の1つの記憶を浮上させた。

「…思い出した。さっきの話だけど、波の音は私たち人間の母親の胎内の音に似ているんだって。私たちが胎児の頃、波の音を聞いていたから、だから、安心するんだと思う。」

「へえ。」

それはジェイドにとって興味深い話であった。そうだ、人間というのは卵から産まれるのではなく、一定期間母親の腹の中で守られながら育ち、その後外界に産まれるのだ。自分たち魚が、まだ何もできない柔らかい卵であった時に、波の音であやしてもらっていたように。彼女たち人間も、母親の胎内という海で、波の音にあやされていたのだ。

「あなたのこの中に入れば、僕にも波の音が聞こえるんですかね。」

「そうかもね。」

この薄く小さい腹の中に海が。無意識に左手で彼女のちょうど海が入っている下腹部分を触った。彼女は少しくすぐったかったが、けして悪戯目的ではなかったので、それを咎めることはしなかった。

「暗くて狭くて暖かいところが、私たち人間の胎児が育ったところなんだって。そしてそういう所を懐かしむ感情を胎内回帰願望って呼んだりもする。」

胎内回帰願望。初めて聞いた単語であるのに、ジェイドはそれを感覚で理解することができた。そして自分が今まで抱いていた、故郷への嵐にも似た懐かしさ、強烈な郷愁の感情の名前を知った。

「驚いた。今、この感情がわかりました。僕は胎内回帰願望があったんですね。」

彼女はまだ思考が追いついていないらしく、彼の言葉にキョトンとしている。ジェイドはそんなことは気にも止めす言葉を続けた。彼女ならすぐに理解してくれるという確信があったからだ。

「僕は暗くて狭くて暖かくて、波の音が聞こえる海の中に帰りたい。」

彼女も気づいたようで、ほんの少し目を見開いた。予想通りの反応でも彼女なら愛おしい。

「そうだよ、ジェイド。私たちは同じなんだね。」

嬉しそうに彼女は笑った。ジェイドもまた。二人の体温が興奮で上昇した。自分たちは同じであるということがどうしようもなく歓喜させたのだ。魚のジェイドと人間の彼女。今、姿形は同じ筈なのに、相手と違う種族であることがずっと悲しかった。彼らは、永遠に全てを分かり合うことはできない。どんなに言葉を重ねようと、何度体を重ねようと、1つに成れはしないのだ。

だからジェイドは怖かった。この女の一欠片だけでなく全て余すことなく自分のものにしたかった。分かり合えない二つの生き物の未来などわかりきっていることだろう。今は良くてもいつかこの女は自分の巣穴から出て行くかもしれないと怯えていたのだ。

しかし、人間の女の胎に海があるのなら。海が母親であるなら。全ての人間の子供が海から産まれ、すべての魚の子供が海で産まれるのなら、我々は生きてきた境遇が違うだけの同じ種族であるのだ。同じ母親から生まれた同じ生き物だ。

「ねえ、あなたの波の音を聞かせてくれませんか。」

いいことを思いついたと言わんばかりにジェイドは目を輝かせた。彼女の中にある海の音を聞いてみたくなったのだ。

「聞こえないと思うけど…。」

もちろん、母親の胎の中で聞こえる波の音というのは比喩である。さらに言えば、その音は胎の内に入らなければ聞こえないはずである。そう言いながらも、彼女は体を起こすと、ジェイドの頭を優しく抱きしめた。彼の気が済めばそれでいいのだ。ジェイドはそのまま彼女の腹に耳を当てた。

サァー、サァーと波の音が聞こえる。そしてトクトクと規則正しい心臓の音が聞こえた。彼女の海の中はきっと居心地がいいだろう。うっとりと耳を傾けている間、彼女も静かに波の音に耳を傾けていたが、少しすると子供をあやすように小さく鼻歌を歌いだした。これが非常に耳に心地よかった。

海が母親であるなら、波は海が歌う子守唄だ。彼女の声は美しい泡沫であった。ジェイドの頬を優しくなでつけ、しかし手をすり抜け、波の隙間を縫い、上へ上へと上がり、水面に飲まれていく。彼女もまた、海の歌う子守唄を聞いていた。今この時だけは、彼と彼女は同じ母親の胎内にいた。これ以上にない安心と幸福の羊水が胎内を満たしていく。触れている所から自分の熱が彼女に伝わり、彼女の熱が彼に伝わる。ゆっくりと体の形が曖昧になっていき、互いの境界線が曖昧になっていく気がした。いつか彼女と自分の境が消え、1つの海になれる日を夢見て、ジェイドは目を閉じた。

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