#5

「おいっす〜。土曜の大仕事はどうだったん?」
「あっ、おはよう。無事終わったよ。」
「よかった、俺たちも心配してたんだ。」
「コイツ、土曜日は特別報酬貰ったって言って高級ツナ缶をくれたんだゾ」

週明け。エースとデュースはいつも通り学食で朝食を済ませた後、教室に向かう途中で監督生を見つけた。彼女が学園長の秘書をやっているのは友人たちも知っており、監督生が放課後に学園長室にいる姿も彼らにとってもすっかり日常となっている。

「今日も放課後は学園長室?」
「うん」
「よくこんな頑張るよな。俺ならすぐ飽きちゃいそう。」
「ああ、きちんと責任持ってやっているのはすごいと思うぞ。」

率直に言うと二人は正直安心していた。この学園に来た当初は気が張っているのか、余裕がなかったのか、勉強と生活以外には手が回らないような感じであったが、今では部活のように放課後アルバイトに入れ込んでいる。なんであれ、勉強以外にも打ち込めることがあるのはいいことだと思うのだ。

「でもさ、たまには俺らとも遊んでよ。先輩も最近遊びに来てくれなくて寂しいっていってたぞ。」

そしてこれも正直な気持ちだった。彼女がアルバイトとして学園長の秘書をやるようになってから、どことなく大人びたような気がする。部活中に学園内を走り回っていたり、来客対応をしている彼女を見ることがあり、そのたびに安心感と、遠くに行ってしまったような寂しさもあるのだ。別に彼らは四六時中べったりな仲ではないが、急な変化はほんの少し寂しい。

「明後日、なんでもない日のお茶会をやるんだが、二人もこないか?」
「いくんだゾ!」

グリムは即答した。通常運転である。

「でもお前最近丸くなってね?体重大丈夫?」
「失礼なんだゾ!!」

デュースも誘った手前言わなかったが、ちょっとグリム丸くなったんじゃないかと思っていた。やはり目の錯覚ではなかった。

「監督生は?やっぱ忙しい?」
「ちょっと待ってね。」

彼女は歩きながら器用にバッグから手帳を取り出すと、予定を確認しだした。スマホではなく手帳を使うところがなんとなく秘書っぽいなと、エースはどうでもいいことを思った。

「あっ、行けるよ!」
「よっしゃ!決まりな!」

エースは指をパチンと鳴らした。久しぶりの監督生のお茶会の参加だ。トレイも張り切ってケーキを作るだろうし、リドルも多少の粗相は見逃してくれるはず。

「いえ〜い!久しぶりのお茶会なんだゾ!」

言われてみればここ一ヶ月、放課後はほとんど学園長室以外に行っていないことに監督生は気付く。久しぶりの友人との約束に監督生も心を躍らせた。



「明後日、トラッポラ君たちと遊ぶみたいですねぇ。」

その日の放課後、いつも通り学園長室に行き今日の分の仕事をしていた時に、不意に学園長がおもむろに口を開いた。お互い少し余裕がある時はよく雑談をしていたので不思議なことではなかったが、エースたちと約束したことをクロウリーに話していただろうか。

「はい、予定確認してたんですけど…もしかしてお仕事ありましたか?」
「いえいえ、元々この日はお休みでいいと言っていましたし。仲が良いようで何よりですよ。」

機嫌が悪いのだろうか。クロウリーの口調も態度も何も変わらない筈なのに監督生はなんとなくそう思った。きっと直球で聞いても否定されるだろう。それでもなんとなく違和感を感じるのだ。

「学園長っ…」

彼女が声をかけようとした途端、タイミング悪く電話が鳴る。たまたま電話近くにいたクロウリーがそのまま電話を取った。

「はい、クロウリー。」

彼は子機を首と肩の間に挟みながら、自身の手帳に何か書き込んでいた。やはり電話口での態度もいつもと変わらない飄々としたものである。

「ああ、明後日ですか…。」

クロウリーは歯切れ悪く答えると、電話の途中で思わしげに彼女を見た。もしかして仕事が入ったのではないだろうか。クロウリーを見ると、パチリと視線が合う。しかしすぐにすっと逸らされてしまった。

「問題ありませんよ、お待ちしております。」

そのまま簡単に別れを告げて電話を切る。監督生は思わずクロウリーに駆け寄った。

「もしかして、来客ですか。」
「ええ、でもそのままお休みでいいですよ、私優しいので。」

やはりいつも通りを装っていても、クロウリーの態度が気になる。監督生は明後日の予定はキャンセルしようかなとさえ思った。

「でも…。」

そう伝えようと口を開いた瞬間、クロウリーが遮る。

「今までも一人でやってきていたわけですし、心配しなくても大丈夫ですよ。それに同級生と親睦を深めるのも大切です。あなたには猛獣使いになってもらわないといけませんしねぇ。」

言葉がトゲトゲしている。今までどんなに疲れていても、忙しくても、こんな突き放したような言い方をされたことがなかった。監督生は何も言えない。何も言えなかった。

「おや、そろそろ時間ですね。今日はもういいですよ。」

最近はそんなことも言われなかったのに。一緒に学園長室を出て、短い道のりではあったがオンボロ寮まで一緒に帰って。また明日、と言って優しくドアを閉めてくれてくれていたのに。

「わかり…ました。お疲れさまです。」

監督生はスラックスの太ももの部分をキュッと握った。そうしないと何かが溢れてきそうだったのだ。残って仕事を続けることもできなさそうだったので、大人しく帰るしかない。彼女は固まりそうな体を必死に動かして、荷物をまとめると学園長室を後にした。学園長室を出る前、クロウリーをちらと見たが、もう仕事に戻っていたようで表情は伺えなかった。手も振ってもらえないのだ。

彼との近い距離を知ってしまった今、ほんのささいなことでクロウリーを遠くに感じる。表立っての態度に変化はないのに、ひとつひとつの言葉が気になって仕方がないのだ。明日ももし、同じ違和感を感じたら正直に聞いてみよう、そう思いながら彼女は一人でオンボロ寮に向かった。



結局、あの日のことは聞けずにハーツラビュルのお茶会が来てしまった。昨日の放課後、気持ち悪くなるくらい緊張しながら学園長室のドアを開けたら、いつもと寸分変わらないケロっとした学園長がいた。まるでこの間のことが夢だったかのようだ。仕事中もいつも通り、たまに雑談をして、仕事に戻る。唯一、昨日も同じく途中で帰っていいと言われたのが気がかりだったが、監督生が少し粘ると、

「明日はトラッポラ君たちと遊ぶ日でしょう?早く休んで英気を養いなさい。」

と、幼子を諭すように言われてしまった。その声色に疎ましさは一切無く、ほらほらと背中を押されて半強制的に締め出されてしまったのだ。

「はぁ…。」
「僕の前でため息なんていい度胸がおありだね。ハーツラビュルのお茶会は退屈かい?」
「そんなことないです!すいません!」

監督生は慌てて目の前の紅茶に口をつける。クロウリーについて考えていたせいで上の空になってしまっていた。

「あつっ。」

温度を確かめもせず勢いよく口内に流し込んでしまった為、舌を軽く火傷してしまった。煎れたての熱い紅茶であったのをすっかり忘れていたのだ。心なしか唇もヒリヒリする。

「ああ、そんなに慌てるから…。怒っていないよ、悪かったね。」

リドルは体をすいと近づけると、監督生の顔を覗き込んだ。

「ああ、赤くなっているね、かわいそうに…。」
「なっなななななっ」

監督生は顔を真っ赤にした。突然綺麗な顔が近づいてきたら当然の反応である。リドルは監督生の唇をまじまじと見ている。

「痛いだろう、今薬を…。」
「あわわわわわ。」
「こら、リドル。」

リドルの後ろから現れたトレイが、タルトを置きながら言葉だけで嗜めた。ニヤリと笑ったリドルを見て、やっと揶揄われていることに気づく。

「揶揄いましたね!?」
「失礼な、ちゃんと心配もしていたよ。」

リドルは不服そうに身を引いた。トレイはそれを見て困ったように笑い、監督生にもタルトを並べる。そして続けて小さな丸い缶を置いた。

「薬用のリップクリームだ。火傷したところが痛かったらこれを塗るといい。」
「用意周到ですね。」
「たまたまだよ。」

監督生は丸い缶を手に取ると蓋を開けた。中には半透明な軟膏が入っており、ツンとした薬草の匂いがする。指で少量掬い取ると薄く唇に塗った。

「それで?重いため息をついてどうしたのかな。学園長にいじめられているのかい?」
「えっ!?」

リドルの口からクロウリーの話が出るとは思わなくて、監督生は動揺する。リドルはそれを肯定と解釈した。

「エースから聞いたよ、ここ2日間君が気落ちしていると。」

それでわざわざ近くのこの席に座ってくれたのだな、と思った。最近リドルともあまり話せていなかったことを思い出す。

「えっと、違うんです。ちょっと気になることがあったというか…。」
「気になること?」

リドルが目線で話せと促してくる。リドルの後ろに立っていたトレイも、どこからか椅子を持ってきていて、リドルの隣に座り出し、聞く体制をとる。

「あの…私の話じゃないんですけど、友達から相談を受けていて。」
「へぇ。」
「仲良くなったというか、前から親しくしていた人が、ある日突然どこかよそよそしくなってしまったんだそうです。最近は一緒に帰ったりもしていたのに、その日だけ先に帰ってっ言われてしまったりして。でも、次の日に行ったらいつも通りだったらしいんです。でも、そうなるとどうしてもあの日の態度が気になっってしまって、何かしてしまったんじゃないかって…友達が。」
「ふうん、何か機嫌を損ねるようなことを無意識のうちにしてしまったのではないかい?」

監督生はどうも緊張して紅茶を一口飲んで口内を潤した。紅茶はもう程良い温かさになっている。そして、あの日の行動を思い返してみた。

「あっ、その友人が別の人と遊ぶ約束をしていたんです。でもそれを先にその人に行ってなくて、事後報告に…。」
「僕で言う所のケイトと遊ぶのをトレイに報告して無くてトレイが拗ねたってことかな。」
「そうなります。」
「うーん、でもそれくらいで普通、機嫌を損ねたりするか?」

リドルもトレイも首をひねった。

「ですよね…」
「それに、次の日には元どおりだったんだろ?」
「はい。…でも、私の気のせいのような気もするんですよね…。口調とかは態度は本当いつも通りで…ただ言葉選びが少しキツイというか…。」
「…確認だけど、君の友人の話だよね?」
「友達の話です。」

危なかった。親身に考えてくれるせいか、バカ正直に洗いざらい話すところだった。監督生は一度目を泳がすと、ごまかすためにフォークを取ってタルトに突き刺してひと口掬い、口の中に入れた。イチゴの甘酸っぱさとクリームの甘さが絶妙にマッチしていて、沈んだ気持ちで食べてもトレイのイチゴタルトは変わらず美味しかった。

「単に機嫌が悪い日だったんじゃ…」
「これは恋!嫉妬だよ!」

トレイの言葉を遮って現れたのはケイトだった。手にはスマホが握られており、先程までテーブルセッティングした様子をマジカメにあげていたようだ。

「さっきから聞こえてたんだけどさ、それは多分、どうして僕という存在がいるのに他の男の所に行くの?僕だけを見ててほしいのにっ!でも、嫌われたくないからそんなこと言えない…っていう複雑な男心だよ!」
「………。」

三人は絶句した。

「あれ?違う?」
「違います違います!そんなわけないですよ!」
「でも、それなら微妙な感じなのも納得しない?次の日は気持ち入れ替えたから普通だった、みたいな。」
「なんていうか友達!って感じとかじゃなくて…!」

ケイトに半分腰を浮かせて反論していると、リドルが恐る恐る手を挙げた。

「もう一度確認していいかい?これは君の友人の話だよね?」

監督生は浮かせかけた腰を椅子に戻した。そして紅茶をひと口飲んでから、笑顔でリドルに向き直る。

「……友達の話です。」

リドルはケイトに視線を向ける。

「ということなんだ。彼女の友人同士の話だから、嫉妬とか恋は…。」
「えーっ!俺てっきりこの子と学園長の話だと思ってた!」
「あっこら!」

トレイが窘めたが少し間に合わなかった。監督生の頰は羞恥でみるみる赤くなっていく。

「違います…。」

うつむいて声を絞り出したが、蚊の鳴くような声しか出なかった。しかし、きちんと聞き取れた3人は必死でフォローに入る。

「そうだよな、監督生。監督生は友達思いだもんな。」
「学友の悩みを我が事のように思えるのは君の美点だよ。」

トレイがケイトに必死でアイコンタクトをする。しおれ切った監督生の姿を見てケイトも申し訳なくなって、監督生の背中をさすった。

「ごめんね、ケイ君勘違いしちゃった。」

監督生の頰の赤みはまだ引かなかったが、顔をあげてふるふると首を横に振った。

「すいません、先輩たちにこんな紛らわしい相談してしまって…。」
「ぜーんぜん!」

彼女は自分の浅はかさ反省した。バカな相談の仕方をしている自覚はある。しかし、自分一人で抱えるには、この問題は大きかった。人の心の機微など、まだ学生である自分に簡単に分かるはずがない。

「うーん、でも実際あると思うんだよね。」
「まだその話か。」

ケイトは少し考えこむように腕を組んで人差し指を頰に当てた。

「例えば、俺がトレイと遊ぼうかな〜って思ってた日に、誘う前にたまたまトレイからこの日ルーク君と遊ぶんだって言われたら、せめて誘いたかったな〜とか、一足遅かったか〜!とか、多かれ少なかれ思うと思うんだよね。嫉妬ほど強い言葉を使うものではないけどさ。」
「お前、そんなこと俺に思ってたのか。」
「喩え話!」

ケイトはトレイに茶化されてふくれた。結構真剣に考えたというのに。

「そう、なんですかね。」
「なぁ、あんまり思い詰めるな。」
「そうだね、とりあえずは態度は元に戻ったのだから、気に病むことはないよ。僕が言うのもなんだけど、人の心なんて本人にもわからないのだから。」
「ありがとうございます。」

監督生は微笑んだ。そう言われればそんな気もしてきたのだ。あまり気にしすぎると、それはそれで良くないような気がする。彼女の肩の力が抜けたのを見て、リドルも少し詰めていた息を静かに吐いた。

「君はハーツラビュル生といっても過言ではない、また何か困ったら寮長たる僕に遠慮せずに相談するんだよ。」
「あ、ありがとうございます。」

監督生は過言じゃないかな…と思ったが、厚意が嬉しかったのでそのまま頷いた。リドルは満足げに微笑む。そしてフォークを手に取ると、イチゴタルトにそっと突き刺した。

「今日はたくさん食べていくといい、トレイもケイトもそのつもりで準備したのだろうからね。」



監督生は困惑していた。なぜか今日1日やけにクロウリーの距離が近いのだ。前に悩んでいたよそよそしさがなくなり、元に戻ったということではない。やけに物理的距離が近いのだ。

気がついたらすぐ後ろ、それも頰がつきそうなくらい近くに顔を寄せて覗き込んでいたり、話すときも顔を覗き込んできたり、いつもよりも半歩、クロウリーを近くに感じた。今までも何回かそんな距離で話したりしていたような気もするが、今日はいつにも増して多い。ここ最近の行動と相まって、それらの行為はより奇異に感じた。

しかし困ったことに、この距離は監督生にとって嫌なものではなかった。あのときの透明な壁があるような態度よりも、こちらのほうがずっといい。

「ちょっといいですか。」
「はい。」

クロウリーに呼ばれて彼のデスクに寄る。この書類なんですが…と言われたため、デスクを回って座っている彼の隣に立つ。するとクロウリーはするりと彼女の腰に手を回した。

「……っ!」
「聞いてます?」

添えられた手に何か厭らしい感じはしない。ただ紳士がエスコートするように、腕が回されているだけだ。今日のやたら距離が近い戯れの延長、私が気にしすぎているだけ。そう念じて、できるだけ平静を装ってクロウリーの話を聞こうとする。

ここのサインなんですが…、クロウリーはそのまま話を続けていたが、やはり集中できない。まるで身体中全ての神経が添えられた腰に集中しているようだった。心なしか少し熱くなってきたような気がする。顔は赤くなっていないだろうか。

「監督生くん?」

クロウリーのことは決して嫌いではない。普段から気のいい保護者であったし、仕事を一緒にするようになってから見るようになった有能な上司の顔も好ましいものだった。顔も仮面で隠されているが、それでも損なうことのない美しい顔をしている。髪もこれがカラスの濡れ羽色という形容詞がぴったり合うような深みのある色だ。普段のひょうきんな態度で忘れそうになるが、彼はかっこいい。そんな彼が突然近くに寄るようになり、もうそろそろ緊張と羞恥で心臓が持ちそうになかった。

「あっはい、なんですか?」

クッと近寄せるように、クロウリーの腕に力が入る。しかし心臓の限界がきていた監督生はそれに逆らうように体を強張らせた。

「…………。」
「うわっ」

瞬間、突然体を強く引き寄せられる。そして、視界がぐるりと回転した。背中の衝撃を覚悟したが、叩きつけられることはなかった。眼前にはクロウリーがいる。仮面のくちばしが鼻につきそうなくらい顔が近い。デスクに押し倒されている、と気づいたのは一拍置いた後のことだった。

「が、くえんちょう…。」
「なぜ今、距離を取ろうとしたんですか。」
「えっと、その…。」

彼女は何か言わなくてはと口をパクパクと動かす。しかし、肝心の言葉が出てこない。

「いつもはさっきよりも近い距離で話していたじゃないですか。」

クロウリーの先ほどまで口元に浮かべていた微笑みは消え、いつもは月明かりのように静かな仮面の奥の瞳は、見たことないくらいキラギラと光っていた。それはまるで、獲物を狙う鳥を彷彿とさせる。監督生は怖くなり、手でデスクを押して上の方に逃れようとしたが、逆に完全に机に乗り上げてしまい、身動きが取れなくなってしまった。クロウリーは追いかけるようにデスクに右膝をつき、彼女に乗り上げる。左足は地面から浮いている様子がなく、改めてクロウリーとの身長差があることに気づいた。視界の端で自分の手を抑えている彼の手が見える。こんな時に、彼が男の人であることを強烈に意識してしまった。

「あの、が、学園長、怒っているんですか。」

怒っている。直感でそう感じた。彼は怒っているのだ。

「まさか、私が怒る理由に心当たりでも?」

クロウリーは隠しているつもりかもしれないが、彼の怒気は隠しきれていなかった。ふと、あの違和感があった日のことを思い出す。そういえば、あの時も彼は何かを隠していた。きっとそれは、怒りだ。ならば彼はあの時何に怒っていただろうか。エース達と約束したことだろう。その話を振られてから態度がおかしかったのだ。もしそうだとしたら、今回は。

ハーツラビュルのお茶会に行ったこと?監督生は喉元まで出てきた言葉を飲み込んだ。さすがにそんな、もしそうだったらケイト先輩が最初に言っていた通りじゃないか!

「な、いです。」
「…でしょう。なら、気にしなくていいんですよ。」

クロウリーの顔が近づき、抑えている手の力が強くなった。思わずキスをされると思い、監督生はぎゅっと目を瞑った。

「………。」

監督生は目を瞑っている為、クロウリーの表情には気付かない。クロウリーは一度強く歯を食い縛ると、少し顔の位置をずらし、そのまま彼女に近づいた。

「…え?」

唇に伝わった感触は想像と違っていた。柔らかい唇の感覚ではなく、何か硬いものが唇にちょんと押し付けられている。監督生が思わず目を開けると、自分の唇にはクロウリーの仮面の長いくちばしの先がキスをしていた。

「何か不都合でも?」

堂々としたものだった。一切悪びれず、かといって情欲をぶつけてくるわけでもなく、何も悪いことをしていないかのような表情だ。監督生はされていることと、その態度のギャップに混乱した。

「なに、も、何もないです。」

監督生は体の力を抜く。彼はきっと怒ってはいるが、監督生を拒否していない。それならいいと思った、いいや、嬉しいと思った。怒ってもいいから拒まないでほしい。それ以外ならなにをされてもいいと思った。だから抵抗しなかった。

抵抗しない監督生を見て、クロウリーは抑えていた手を離した。監督生は手袋越しの体温が遠くなり切なくなり、縋るようにクロウリーを見る。しかし彼女の気持ちを知ってか知らずか、今度は離した手を監督生の頰に持って行った。そして長い爪で痛いと感じないギリギリの力加減で引っかかれる。

「な、何を…。」

そのまま長い爪で監督生の目の縁をなぞる。少しでも手元が狂ったら目の中に刺さってしまいそうで怖く、今度は別の意味で動けない。

「……私が君を虐めていると聞いたので、実際に虐めてみようかと思いましてね。」
「ど、どうして、その話を…」
「やってもいないことで噂を立てられるくらいなら、やったほうが得だと思いませんか?」

クロウリーは監督生の問いに答えない。反対の手で耳の縁をなぞられる。ぞぞぞっとっ背筋から這い上がるものがあり、彼女は肩をすくめた。

「…カラスは、」

クロウリーは口元を彼女の耳に寄せた。仮面のくちばしがデスクにコツンと当たる。そして、彼女の耳に直接吹き込むように、恋人同士の睦言のように甘い声で囁いた。

「カラスはどこにでもいます。」

耳にかかる息がくすぐったくて、監督生は軽く身をよじった。クロウリーは身じろぎする彼女の体に、自分の胸板を押し付け動きを封じてなお、言葉を続ける。

「人間は、何かを話すときに同じ人間を気にしますが、動物までは気が回らない。それがさらにいつ、どこにでもいるカラスだったら。どんなに口の堅い人間でも、カラス相手には口が軽くなる。」
「もしかして…。」
「秘密の話をするときにはカラスに気をつけなさい。といっても…この学園にカラスがいないところなんてありませんがね。」

エース達と約束した日も、お茶会でリドルに言われたことも。いいや、それだけではない。彼は以前、見守っているとも言っていた。ずっと本当に『見て』いたのだ。

「私がこの学園内で知れないことなんてありません。」

籠の中の鳥はどっちでしょうかね。クロウリーは低くクツクツと笑った。

「どうしてそんなに…。」
「どうして?…大切な生徒を見守るのに理由は必要ですか。」

それは監督生が求めていた問いの回答とは少しずれていた。そして、もはやこれは見守るの範疇を超えているのをクロウリーは気づいているのだろうか。彼女のプライベートを暴き、踏み込んでいるそれは監視の領域だ。

「それだけですか。」
「…何をいいたいんです。」

彼は少し身を起こすと監督生と視線を合わせた。金色の瞳が探るように彼女の瞳を覗き込む。監督生は負けじと真っ向からクロウリーを見据えた。

「学園長が、他の生徒をそんなに監視するはずがないです。そんな時間は、あなたにはありません。」

これはこの短い期間で、彼のスケジュール管理をしてきた秘書としての言葉だった。クロウリーが一人一人の行動を逐一把握するには、この学園の学生は多すぎる。

「私に何を言わせたいんですか。」

クロウリーは焦れたように爪をデスクに打ち付けカツカツカツと音を鳴らした。

「別に…。」

何を言わせたい、だなんて。決まっている。監督生は一言特別だからと言ってほしいだけだ。どんな意味だって構わない。お気に入りの生徒だから、秘書だから、…好きだから。彼の特別になれるならなんだっていい、何をされたっていい。

彼が自分の行動を全て知っていると聞いて、恐ろしいとは思いはしたが、嫌悪は感じなかった。そしてあの日の行動も、今日の行動も、嫉妬による怒りであったら。それはどれだけ嬉しいことだろうか。悲しいかな、彼女はクロウリーに怒りをぶつけられて初めて恋を自覚したのだ。

「学園長、私、」
「だめです。」

監督生が口を開いた瞬間、クロウリーは何かを察して、手のひらで彼女の口を塞いだ。

「私は君から奪いはすれど、与えることなどできない。」
「………。」

何もいらないです。そういえたらよかったのだろうか。しかし監督生は恋を自覚してしまった。彼の特別が欲しいのだ。口を塞がれていてよかったと思う。これなら何か言いたくても言えない。間違った言葉を言うことはないのだから。

「君の親鳥にすら、なれない男なんです…。」

クロウリーは監督生の口をふさいでる手の反対の手で仮面の紐を解くと、監督生の頭上に仮面を置いた。仮面越しではない、金色の瞳が現れる。ギラギラとした獲物を狙うカラスのような苛烈な輝きは失われていて、静かに宵闇を照らす月のような瞳だった。そしてゆっくり顔を近づけると、監督生の口を手でふさいだまま、自分の手の甲越しに彼女にキスをする。当然だが、彼女には手袋と冷たい鉄の爪の感覚しか感じなかった。それでもいいと、彼女は目を瞑りながら思う。都合のいいところだけを優しく照らしてくれれば、月の光の届かない暗闇の出来事には見ないふりができるからだ。

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