Lullaby

「あら、こんなところでどうしたの。」

見知った顔の女を見かけたので、ヴィルは声をかけたが、その瞬間、後悔した。女は行儀悪くナイトレイヴンカレッジ内の森で、木の根元に座り込んでぼーっと泣いていたのである。肩を震わせることもなく、シャクリをあげることもなく、ただ静かにするすると涙を流していた。声を掛けられた女はキロリと目玉だけを動かしてヴィルを見る。そして無感動に目線を窓の外に移した。ヴィルはそれが気に食わず、女の前にずかずかと歩み寄ると、両頬を片手でぎゅむっと掴んで顔を自分の方に向かせた。たとえどんな時であれ、自分の美しさを無視されることは我慢ならないのだ。

「アタシを無視するなんていい度胸じゃない。」

ずいと顔を近付けて軽く睨むと、彼女は不服そうに口を開いた。

「…こういう時って普通そっとしておきません?」

「あら、噛み付く元気はあるみたいね。」

ヴィルは少し安心した。この女が泣いているところになど初めて遭遇したので、どうしてやればいいかわからなかったのだ。いかに名門ナイトレイヴンカレッジと言えど、泣いている女の涙の止め方などは教えてくれない。しかし、まだ噛み付いて八つ当たりをする元気があるなら大丈夫だ。本当に恐ろしいのは完全なる無気力なので。あれは恐ろしい。人が人で無くなるというのはああいう状態のことをいうのだろう。先ほどの淡々と涙を流す様は、その無気力な人間を彷彿とさせた。

「なあに。なにかあったの?誰かにいじめられた?」

しかし、甘えるように八つ当たりをしてきたことに気分が良くなったヴィルは、先ほどとは打って変わって優しく尋ねた。彼女は少々口が減らないところがあるが、基本的にかわいい妹のような存在だと思っている。出会った当初は、慣れない環境に翻弄されていたのもあるだろうが、それはそれはひどい状態で、例えるなら芋娘、ジャガイモのようだった。しかしこの女、第一印象とは裏腹に、案外素直で努力家だった。ヴィルが見かねて、身だしなみや立ち居振る舞いなどを指導していけば、次の日には直してきたし、いい化粧品を渡してやれば律儀に使い続けた。この男所帯の中、スキンケアやヘアケア、化粧品のことなどを教えてやれば、彼女は次第にヴィルに懐き、気がついたら後ろを雛鳥のようについて回るようになったのだ。純粋に慕ってくる子を疎ましく思うほど人格は破綻していない。ヴィルもその姿に絆されてしまったのだ。

だからこそ、彼女を泣かせる輩がいるなら「懲らしめて」やろうと思ったのだ。ヴィルが可愛がっていると知っておきながら、手を出した勇者がいるのなら是非ともお目にかかってみたいという好奇心もあった。しかしその予想は彼女が首を振ることであっさり外れた。

「いじめられてないです。」

「ならなんで泣いてたの。」

言いたくないです!というオーラをビシビシと出されるが、ヴィルは丸ごと無視した。小娘の怒りなど、彼にとっては草原に吹くそよ風のように取るに足らないものである。

「早く言いなさい。どうせ言うまで解放されないわよ。」

こうなった彼は絶対に折れないことを彼女は知っている。観念して口を割るしかないようだ。

「……家に帰りたかったんです。」

この世界であてがわられたオンボロ寮ではなく、本来の自分の家に。決してこの暮らしを疎ましく思っている訳ではない。普段はあまり気にもならないが、今日はなぜかオンボロ寮に「帰り」たくなかったのだ。自分が「帰る」場所はあの、元の世界の自分の部屋だという感情が泉のように湧き出し、溢れ出してしまった。しかし、この世界に帰ることころなどオンボロ寮以外に存在していないので、こんなところで油を売っていたということだ。そしてそんなことをぼんやり考えていたら涙腺がバカになってしまい、彼女自身にも止める術が分からず、ああして途方に暮れていたのだ。

「…そう。」

ヴィルはその言葉を聞いた時、妙にストンと腑に落ちた。なるほど、故郷恋しくて彼女は夕暮れ時に泣いていたのだ。彼女はまだ幼い。無理もない話だろう。想像していたより、彼の中には怒りの感情は湧いてこなかった。この私がいるところよりも、故郷の方がいいのか、とか色々思うところもあるが、純粋に、その年頃なら親が恋しくなってもおかしくないなと思った。

「薄情だって思いますか。こんなに皆さんに良くしてもらっているのに。」

彼女の涙は未だ止まらない。拭うこともせず、ただ流れるがままに身を任せている。夕暮れが彼女の涙に反射して、キラキラと輝いていた。しかしそんなことを聞くということは彼女はここが嫌いな訳じゃないようだ。それにヴィルは安心した。

「アタシがあんたを薄情者って誹ればあんたは満足するの?違うでしょ。」

だから安心して突き放すことができた。彼女は自分に薄情者と言われることで、心の自傷行為に身を投じようとしていたからである。自分が彼女を罵れば彼女はきっと傷つく。それくらいの関係を築いてきた自信はある。しかし彼は人を使うことは好きだが、人に使われることは好きではない。それも自分のお気に入りを傷つけようとするなら尚更だ。

「でも、私、」

「アタシはね。」

なおも言葉を重ねようとする彼女を遮り、未だにトクトクと流れる涙を親指で拭ってやった。顔をよく見ると、両目は涙で腫れており、鼻も頬も真っ赤に染まり、酷い顔だった。よかった、泣き顔が一瞬でも綺麗と感じなくて。泣き顔というのは総じてブサイクなのだ。私以外は。それでいいのだ。

「アタシの持ち物を傷つけられるのが何より嫌いなの。たとえあんたであろうともね。」

彼女の目がまん丸に見開かれた。驚いた、彼女の涙はこんな言葉で止まるのか。甘い言葉でも、優しい慰めでもない、こんな、こんな何気なく意識もしていなかった言葉で。ヴィルは今日2度目の後悔をした。知っていたら、こんな遠回りをせずにいくらでも言ってあげたというのに。

「…私は、先輩の物なんですか?」

彼女はおずおずとヴィルの腕を掴むと、そのまま見上げて問いかけた。泣いていたせいか、それとも今の言葉に興奮したのか、頬が少し紅潮している。なんだ、いじらしいところがあるではないか。てっきり普段の生意気さを考えると、人をモノ扱いするなと文句を言ってくるかと思ったが。深く考えずに言った言葉だったが、そこまで喜ばれれば悪い気はしない。

「なぁに?ご不満?」

その顔を見れば答えなんてわかりきっていたが、とろけるような声色で返してあげた。彼女があまりにも可愛らしかったので。自分の頬が緩むのも隠せなかった。

「いいえ!」

食い気味で返してくる様子に、ヴィルはまた少し笑ってしまった。やはり彼女は素直で可愛い。時々こうしてどうしようもないほどヴィルのツボを得てくるのだから。だから甘やかすのをやめられない。

今度こそ彼女は正しく甘えるように隣に座るヴィルの肩…には体格差的に難しかったので、腕に頭を寄せた。ヴィルはそれを拒まなかった。そのまま彼女の方に手を回すと、完全にもたれかかるような姿勢にさせた。ぽん、ぽんとゆったりとしたリズムで肩を叩いてやると、彼女は完全に体重をこちらに預け始めた。

「手離さないでほしいです。」

彼女の重みが心地よかった。そこに確かにいると感じさせられたから。人肌に触れていると安心する。それは彼女も彼も同じことだ。

「なら、アタシから離れないことね。アタシの手から逃げ出す宝石を追いかけるほど、アタシは卑しくないからね。」

ヴィルはきっと、彼女がここを去ろうとする時、追わないだろう。手を伸ばすこともしない。それは彼の気高さがそうさせる。しかし、彼女が去った後、深く嘆くだろう。ヴィルは情の深い男であった。それが自分でもわかっているため、ヴィルは自分の手から離れないように手を尽くし続ける努力を惜しまない。彼女も手離して欲しくないと願うならば、自分を手離さない努力をしてもらわなくては。この関係は彼女が手を離せば終わってしまう関係なのだから。

「その代わり私の手元にちゃんといるなら、大切に大切に磨いて、どんな宝石より綺麗に輝かせてあげる。」

それはきっと、この世界でも彼女がいた世界でも、ヴィルにしか成し得ないことだろう。彼女を一等美しくすることができるのは、自分しかいない。それだけは何よりも自信を持って断言できる。

彼女は小さく頷いた。ヴィルの手から生みだられるリズムが睡魔を引き寄せる。瞼の裏に懐かしい我が家が見える。そして隣にはヴィルの体温。これは夢だ。ヴィルの手を離さず、我が家に帰るりたい。いつかその選択の日が来るまでは、そんな夢みたいなことを思っていたいのだ。

「おやすみ、私の可愛い子。」

せめてこの短い間だけでも、泡沫の夢に身を預けるといい。帰りたいところに帰れる夢を。夢を見ることは罪ではないのだから。ああでも、目を覚ました時、彼女には落胆しないでほしい。いい夢を見た、と柔らかくはにかんでほしい。彼にだってそれくらいの夢を見る権利はあるはずだ。

やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。先ほどまでヴィルの耳を楽しませていた声が発せられることはない。その愛らしい声は彼に奪われてしまったのだ。夕日が彼女の頬を赤く照らした。涙に濡れたまつげが妙に艶っぽかった。

目を閉じた姿はまるで…。いいや、ヴィルは彼女をそれに見立てるのはやめにした。彼は王子ではなく、彼女は姫ではない。そうじゃないと彼らのお話は成り立たないからだ。いつか彼女の帰りたい場所になれればいい。彼の願うことはいつもそれだけだ。



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