果実の片割れたち

今日は散々な目に遭った。朝からオンボロ寮の床が抜けたし、よりにもよってトレイン先生の授業に教科書を忘れた。動物言語では鳥に馬鹿にされ、飛行術では最近まで上手くいっていたグリムとの連携が上手くいかずに暴走してエースと大クラッシュした。ちょうど監督生を見ていたバルガス先生が防衛魔法をかけたためお互い無傷であったが、タイミングが少しでもズレていたらどうなっていたことか。おそらく大怪我は免れなかっただろう。グリムが珍しくしょぼくれていたことと、そもそも彼女たちの乗り方が異端であることも相まって、バルガスも特段ペナルティを寄越したりはしなかったが、かえってそれが監督生を更に落ち込ませることになった。エースやデュースのフォローがほんの少し痛い。今日は何だか何もが上手くいかない日だった。

とぼとぼと学園内の渡り廊下を歩く。常に日陰になる渡り廊下では、春の暑い日であっても、冷たい石柱に熱を奪われた風が監督生の頬を撫で付けていく。少し汗ばんだこめかみを風が乾かしていった。中庭では一年生と思われる生徒たちがマジカルディスクを投げて遊んでいる。監督生の心中とは裏腹に、平和な放課後といったところだ。

カァーッ

監督生は小さく鳴くカラスの声を聞いた。瞬間、ハッと視線を中庭から自身の正面に移す。何度も聞いたカラスの声だ。このカラスの鳴き声を彼女が聞き間違えることはない。小さい声でそのカラスの名前を呼ぶ。するとどこからともなく美しく青みがかった黒いカラスが彼女の前に現れた。

クゥクゥと甘えたようにカラスは小さく鳴くと、器用に足で持っていた真っ赤なリンゴをぽとりと彼女の手のひらの上に落とした。彼女の顔の前を落ちていく瞬間、ふわりと甘く芳しい香りが鼻を擽る。その香りを嗅いだ瞬間、監督生の憂鬱はあっという間に吹っ飛んでしまった。そして手のひらについた瞬間、リンゴはポンッとメルヘンな音を立てると星になり消えてしまう。学園内でこのリンゴの意味を知る人物は自分ともう一人しか知らない。その人物こそ、学園で一番美しく気高い、ヴィル・シェーンハイドである。このカラスは彼の使い魔であり、このリンゴは彼からのデートのお誘いなのだ。



近場のレストルームに駆け込むと簡単に髪を整え、彼がプレゼントしてくれた淡い色付きのグロスを塗る。そして備え付けの全身鏡で制服の乱れがないか確認した。例え美しい彼には遠く及ばなくても、彼に恥じない、自分の中でできる精一杯のおしゃれをしたかったのだ。そして服や髪が乱れないように上品に、しかしできるだけ急いでポムフィオーレ寮に向かう。あっという間にポムフィオーレ寮の鏡前に着いた。監督生は小さく深呼吸すると、鏡の中に足を踏み入れる。ここを抜けてしまえば、彼の部屋まではすぐである。

着くまではとても時間がかかってしまったと思うが、着いてみるとそこまでの距離がないのだな、と監督生は思った。何度会っても緊張するから、もう少し心の準備をする時間が欲しかったとさえ思う。しかし、忙しい彼に会えるチャンスを逃したくはない。

「失礼します。」

丁寧にヴィルの部屋をノックすると返事を待たずにドアを開ける。あのリンゴを貰った時だけ、監督生はヴィルの部屋に自由に出入りする権利を得る。いつでもきていいよ、の合図なのだ。

「……?」

部屋の中を見回しても、ヴィルはどこにもいなかった。いつもならソファにゆったりと腰掛けて本を読んでいるか、紅茶を飲んでいるかしていることが多いというのに。どことなくいつもと違う気がした。

すん、と監督生は軽く鼻を鳴らした。いつものルームフレグランスの香りに混ざって、どこか生臭いというか、鼻につく匂いがするような気がしたのだ。ヴィルに限ってそんなことあるはずがない。もしかして、他の部屋で異臭騒ぎが起きているのかも、なんて思った。いいや、美意識の高いポムフィオーレ寮だ。例え起きていたとしてもすぐに処理するだろう。だとしたら、やはりこれは…。

「こっちよ。」

遠くから名前を呼ばれて、監督生はビクッと体を震わせた。決して恐怖ではない。しかし、なぜか監督生の体は震えが止まらなかった。これから、よくないことが起きるような気さえしてしまう。

「ヴィ、ヴィル先輩、もしかしてシャワー中でしたか…?」

声がした方向に向かって話しかける。ここから動いていいのかわからなかったのだ。

「いいえ、バスタイムね。今更気にすることなんてないんだから、こっちに来なさいよ。」

そう、ヴィルのバスルームは特別製だ。中は広い部屋のようになっていて、湯当たりを冷ますベッドや、バスローブのままくつろげるリクライニングチェア、果ては簡易キッチンまで用意されている。たまにヴィルが半身浴をしている時、監督生は近くのスツールに座り、一緒に内緒のおしゃべりをすることがある。彼の裸体は美しくまるで絵画のようだったから、異性の裸体に羞恥を覚えることはなかった。今回もきっとそのお誘いだ。そのはずなのに。

「で、でも…。」

この異臭が気になる。意識したら余計匂いが強くなってきた気がした。

「んふふ、戸惑っちゃって可愛いわね。何も怖いことなんてないから、こっちにいらっしゃい。」

ヴィルの声は終始機嫌が良く、優しく語りかけてはいるものの、声の弾みを抑えきれていなかった。その声を聞いて監督生の体はまるで操られているように、ふらふらとバスルームに向かっていく。だめだ、今そこに行ったら二度と戻れなくなる。頭の中で警鐘がガンガンと鳴り響く。しかし彼女の足は止まらない。バスルームのドアは完全には閉められておらず、ドアノブを回さずとも開けることができた。

「先ぱ……うっ」

開けた瞬間、生暖かく湿気った風と、むわりと堪え難い、気のせいでは済まされない異臭が監督生の鼻を襲った。やはり、異臭の元はこのバスルームだったのだ。

「げほっげほっ…ぉぇ、」

監督生はその場で蹲り何度も咳き込んだ。咳込みすぎでえづいてしまう。

「あら、大丈夫?ゆっくりでいいから、こっちに来なさい。」

それは優しくもありながら、絶対の命令だった。監督生は震える足を叱咤して、彼が入っているバスダブに向かう。決して刺激臭のように鼻が痛くなるほどの匂いではない。煎れたての香り高いコーヒーや紅茶、芳しいフレグランス、お菓子や料理のように柔らかく部屋全体を包む匂いである。しかしそれらとの唯一決定的な相違点は、その匂いは生理的に受け付けられない、ということだ。

「そ、それ、は…。」

バスダブの中身を見て、監督生は絶句した。ヴィルはバーガンディー色の液体、血の中に身を沈めていたのだ。

「ふふ、驚いた?」

ヴィルはいたずらが成功した少女のように無邪気に笑った。体を揺らすたびに重たいバーガンディーの液体が、まるで上等なベルベットの生地のように波打つ。毛細管現象でヴィルのきめ細やかな肌に沿ってバーガンディーが上がっていく。まるで、ヴィルが肌から吸い上げているようで、バーガンディーがヴィルを取り込もうとしているようだった。

近づき、匂いの元を確認したせいか、匂いがより鮮明になっていく。鉄臭く、生臭い。どこか脂肪の饐えたような匂いもする。鼻から入って喉の奥、肺、脳の前頭葉あたりにスライムのように張り付く。空気は無く、スライムを吸っているようだ。

液体はとろりとしており、表面は驚くくらい滑らかだった。色は濃く、ヴィルの体が透けて見えることはない。

「少し前に文献で読んだの。人肌の温度に温めたこれに浸かると肌にいいって…。」

ヴィルは鬱蒼と妖艶に笑う。ただ、美しかった。

「こんなこと、バカだと思うかしら、ね、あんたはどう思う?」
「私は、」

ヴィルの美しさは変わらない。きっと、彼は血の風呂に入らなくても美しい。そして血の風呂に入っても美しいのだ。

この不快な匂いは人間の匂いだ。そして、このバスダブを満たすのは人間の体液。それを認知してしまった瞬間、監督生は喉奥からこみ上げるものを我慢でき無くなってしまった。

「おぇっ…ガッ……」

ぐげ、と汚い音が自分の喉から鳴る。どうしても止めたかったが、体が言うことを聞かない。美しい大理石の上に吐瀉物を撒き散らす。なんて無様で惨めなのだろう。美しいヴィルが見ているというのに。

生理的な涙か、自分の粗相に対してか、涙で視界が歪んだ。嫌われてしまう。この後に及んでそんなことを考えた。こんな、グロテスクなことを平気でできるような人なのに。狂っている。

ざばん、とヴィルが液体から立ち上がる音が聞こえた。恐る恐るそちらに目を向ける。ほどよく筋肉のついた、彫刻のような身体に未練がましく赤が這っている。

「かわいい。」

耳を疑った。ヴィルは今、なんて言ったのだろうか。

「アンタって本当にかわいいわ。」

落ちている吐瀉物を気にもとめず、ヴィルはまっすぐ監督生に向かうとしゃがみこみ両手で監督生の両頬を包んだ。まるで信じられないようなものを見る目だ。

「怖かったでしょうに。よく頑張ったわね。」

監督生の頰に手についていたバーガンディーを擦り付ける。彼女の頰がリンゴのように赤く色づき、ヴィルはそのまま彼女の唇にキスを落とした。

「んっ…。」

汚いから触らないでください、そう言わねばならないのに監督生はおとなしくキスを受け入れた。彼に求められて拒否できる女がこの世にいるだろうか。

「先輩。」

ん?とヴィルは優しく小首をかしげて彼女の言葉を促した。

「きれいです。美しいと思いました。」

それは先ほどのヴィルからの問いかけへの答えだった。器の中で、少しでもマシに見せようとする監督生と自分の美しさの限界を決めずに邁進する彼は同じようで違う。その違いが監督生には眩しく、彼を美しく見せたのだ。

「…そう。」

ヴィルは唇をキュッと強く結んだ。そうしないとだらしなく頰が緩んでしまいそうになったからである。

「アンタも一緒に入れてあげるわ。」

ヴィルはそう言うと監督生を抱き上げ、再びバスダブに戻ろうとする。本当はいつものように監督生と会うだけもつもりだったが、彼女がこのとっておきの風呂に入った時にどう変わるのか見てみたくなったのだ。

「ま、待ってください、私制服で…。」

監督生は軽く抵抗した。綺麗なのは血の風呂に入ったヴィルであり、その芸術作品に自分という存在を入れたくなかった。美術品は触れられないからこそ、焦がれるものなのだ。

「もうそんなに汚れたら意味ないわ。新しいもの用意してあげるから。」

しかしヴィルは聞く耳持たず、監督生ごとバスダブに沈んだ。生温かい液体が二人を包み込む。ヴィルは一人で入っていた時よりも満たされた気がした。やはり彼女がいなくては完成しないのだ。

「ああ…。」

監督生は諦めたように息を吐いた。浸かってしまえば、最初のような強烈な嫌悪感も薄らいでいく。人間は現金なものでどんな環境であっても慣れるのだ。ヴィルが監督生を向かい合わせて膝の上に乗せると、監督生も諦めたようで、おずおずと体を預けてくる。

「あら、アンタ、頰が輝いて見えるわね。」

そこは先ほどヴィルが監督生に血を擦り付けたところだった。キスを受けているうちに拭き取られていったのだろう。部屋に入ってきた時は土気色だった頰が薔薇色に色付き、朝露を纏っているかのようにつやつやとしていた。監督生をヴィルは美しいと感じた。決して迫力のある美人と言える顔立ちではない。しかしどこか愛嬌があり、親しみやすく、清廉。そんな彼女がグロテスクな血に汚れている。そのアンバランスさがヴィルに美を感じさせたのだ。

「それは、えっと…。」

なんて返すのが正解なのだろうか。血液に浸るヴィルはこの世のものとは思えぬほど美しかった。その為、監督生は自分の発言でこの世界観を壊したくなかった。しかし、ヴィルが勘違いしてこれから毎日のように血の風呂に精を出されても困る。血塗られた伯爵夫人の再来など笑えない話だ。

「血液に含まれる油分が…んむっ」

監督生が言い終わる前にヴィルは自身の唇で彼女の言葉を塞いだ。

「せっかくとっておきを見せてあげたっていうのに可愛げのない子。」
「むくれてる先輩は可愛いですよ。」

ヴィルと監督生は全てにおいて似て非なるものだった。ヴィルが林檎なら監督生はオレンジである。彼らは決して同じものには成れはしない。果実の片割れにはなれないのだ。

「…訂正するわ、あんたは可愛い。」

しかしどうだろうか。無理やり断面を合わせてみれば、林檎もオレンジも大差ない。例え歪んでいても円を描くことが出来る。彼らにはその関係が心地よかった。

戻る