1日目

その日の晩、彼女は異様な寝苦しさを感じた。とにかく暑いし、熱い。今は秋のはずで、寝る前は少し肌寒いくらいだった。同室というか運命共同体のグリムと、今日の晩は少し冷えるから、布団を増やしたいなどと話しながら寝たはずだった。

しかし今はどうだろうか。肌に擦れる布団はとても耐えられないほどではないが、じっとりと熱く、低温火傷をしてしまいそうに感じる。肌はだらだらと汗をかき、体内に篭る熱に反して、表皮はしっとりと冷たくなっていた。その温度差が余計に不快感を増していく。

布団を蹴ってしまおう。恐らく思ったより今晩は冷え込まなかったのだ。未だ寝汚く目を閉じたまま布団を足で蹴飛ばそうとしたが、まるで足が紐でくくられているかのように、上手く動かなかった。もしかして私は夢でも見ているのかもしれない。

夢の中で体が考えた通りに動かないというのはよくある話だ。レム睡眠のなんたらが関係していて、脳は覚醒しているが、体は休んでいる状態らしい。そのため脳と神経の連動動作が上手くいかず、夢の中で上手く動けなくなる。今なんだかんだと浅く思考できているのも、脳は起きているが、体は寝ているということのなのだろう。人体の不思議である。ここまで考えが至るが、やはり足が上手く動かない。腕は問題なく動いたので寝返りを打ってみる。しかし布団を剥ぎ取るほどには動けなかった。少し布団の中でうぞうぞと体を動かして気づいたが、腰から足先にかけて妙に乾燥しているような気がした。一度気づいてしまうと無視できない不快さだ。寝る前のボディクリームはサボらず塗ったはずなのに。

不思議に思って手のひらで太ももの辺りをさすってみると、やはりカサカサと荒れていた。1日でこんなに乾燥することなどあるのだろうか。

体の不調が多すぎる。もしかしたら風邪を引いたのかもしれない。そう思い無理やり起き上がることを決めた。どうして夢うつつの最中に自分の意思で起きようとするとこんなにも体は重くなるのだろうか。この脳だけ起きて体は寝ている状態の解決策は、もう一度眠りに落ちることなのだろう。体の不調がなければ彼女もそうしていた。唯一思い通りに動く両腕を使って体を起こし、強い意思で瞼を開ける。目を開いた先にはいつもと変わらないオンボロ寮の景色が広がっていた。

窓の方をみると、外はもう太陽が昇り始めており、カーテン越しから薄い光が差し込んでいた。早朝である。恐らくサバナクロー寮辺りはマジフトの朝練を始めている時間だろう。

さて、ここで彼女はやはり体に異変を感じた。夢で感じていた通り、足が上手く動かないのである。曲げることはかろうじてできたが、両足揃えてせーので動かさないと、体勢を変えられない。そして反対に足首や足の指の感覚はなく、一切動かなかった。よく見ると、布団の盛り上がり方もどこか違和感を感じる。考えても答えは出なさそうな上、乾燥の不快感がこれ以上我慢できなかったので、思い切って手で布団を取ってみた。

「ぎゃーーーーーーーーーーーー!!!!」

女は力のかぎり叫んだ。ありえない、そんなことが起きるわけがない。しかし、そんなことが起きるのが、ここ、ツイステッドワンダーランドのレイヴンカレッジである。頭では分かっていても、彼女は目の前の光景を信じることができなかった。

「なんなんだゾ、こんな朝早くから…」

彼女の尋常ではない悲鳴を聞いて、さすがのグリムも起き出した。しかしまだ覚醒しきっておらず、眠そうに目をこすりながらこちらに向かってくる。

「ぐ、ぐり、ぐり、グリム、早く、ちょっと、これ」

反して彼女は完全に覚醒しきっていた。しかしパニックのあまり舌も頭も上手く回らない。結果壊れたテープレコーダーのように途切れ途切れでしか言葉を発せられなかった。

「うん…?………なんじゃこりゃーーーーーー!!!!!」

ここでグリムも覚醒した。覚醒せざるをえない。なんて言ったって。

彼女の下半身が魚に、そうつまりは人魚になっていたのだ!

「くくく、クルーウェル先生を呼んできて!それか学園長先生!」

各分野のエキスパートが揃うレイヴンカレッジで、クルーウェルは魔法薬学に詳しい。以前の授業で変身魔法薬についても教授してくれていたので、この事態にも何かしらの目星をつけてくれるだろうと思ったのだ。学園長先生は一応この世界での保護者ということになっているのだから、なんとかしてくれるだろう。なんとか。

「任せろ!すぐに呼んでくるから、おとなしく待っているんだゾ!」

さすがの非常事態にグリムも珍しく文句も言わず、職員室に向かって駆け出した。最初に近い階層にある職員室に行って、誰もいなかったら学校の最上階にある学園長室に行くつもりなのだ。

彼女はグリムが先生を連れてきてくれるまでに、改めて自分の姿がどうなっているのか確認することにした。勝手がわからず下半身から下を動かすこともできないが、確かに下半身が魚になっていた。真っ青な鱗が朝日に反射してギラギラと鈍く輝いている。足先を見ると尾びれと思われるものがあり、そこは半透明になっている。ふとベッドの外を見ると自分が昨晩履いていた下着が落ちていてぎょっとした。それもそうだ、下半身が魚になっている今、下着に通す足がない。しかしいつの間に脱いだのだろうか。幸いにもこの世界に来てから、支給されたシャツワンピースで就寝する習慣がついていたため、全裸は免れている。本当に良かった。

とりあえず先生たちが来る前に下着は回収しておこう。そう思い比較的自由に動く上半身だけでベッドの外にある下着に手を伸ばす。そーっと体を倒してベッドから身を乗り出し、左手を床につける。そして左手に体重を掛け、右半身を浮かせた。ゆっくり前に回転しながら右手も床につけようとした瞬間。

「ウッ」

ベッドとシーツが摩擦で滑り、彼女は勢いそのまま強かに顎を床にぶつけた。下半身もうまく使えず、顔から落ちたのである。びたん!と普段ベッドから落ちた時に聞くことはない音が聞こえた。尾びれが強く床を叩いたのである。落ちたせいなのか尾びれもいたるところがヒリヒリするし、床にぶつけたところはジンジンする。痛覚は通っているようだが、それがさらに腹立たしさを増幅させた。うまく動かないくせに、痛みだけはしっかり感じるなんて。

「ウウーッ」

彼女はもう朝から散々な目に遭い過ぎて、起き上がることもせず床に這いつくばったまま、人目も憚らず泣いた。どうせこの後くるのはグリムと先生だけなのだから、多少無様でも気にするまいという気持ちと、理不尽な怒りと混乱と惨めさが彼女をそうさせた。どうして朝からこんなに自分が酷く惨めに感じなければならない。一体自分が何をしたというのだ。どうして朝からこんな目に遭わねばならない。あの日突然見知らぬ地に飛ばされてから、不慣れな生活様式の中、真面目に授業を受け、真面目に勉強をしているのに。こんな、こんな。

「おや、泣いているのですか?」

彼女はびくりと肩を震わせた。想像もしていなかった人物の声が聞こえたからである。顔をあげるとまず目に飛び込んできたのは革靴、そして視線を上げれば見慣れたナイトレイヴンカレッジの制服のスラックスが見えた。そこから上は首が限界で見ることが叶わなかったが、この人物が誰かくらいは判別がつく。

「ジェイド先輩…?」
「ええ、そうですよ。」

どうして彼がここにいるのだろうか。グリムが呼んできたのか。いいや、それにしてはタイミングが早すぎる。まだグリムが出て行って五分も経っていないはずだ。

「どうして僕がここにいるのか、不思議そうな顔ですね。少し気になることがあったので、様子を見に行こうとしたら、ちょうどオンボロ寮の入り口でグリムさんにお会いしまして。そしたらあなたが人魚になってしまったと聞いて…。こうしてここまで上がり込んでしまいました。」

不躾で申し訳ございません、とジェイドはすまなさそうに謝った。

「怖かったでしょう。僕が来たからにはもう安心ですよ。なんて言ったって僕も人魚ですから。」

その瞬間、彼女の涙腺は崩壊した。この時の精神状態はおかしかったのだ。普段は絶対に縋りたくないこの人に縋ってしまったのだ。

「じぇ、ジェイド先輩…、も、もう私、訳が分からなくて…。」

ヒックヒックと言葉に詰まらせながらもこの短時間に感じた恐怖を吐き出す。大怪我をした時に医者に会った安心感とでも言おうか、この非常事態に少しも動揺していない人物がいるというのが、ありがたかった。

「あ、足ないし、動かないし、なんか痛いし、乾燥するし…。わ、私、一体どうなって。」
「痛い…?落ちた時にぶつけてしまいましたか。」

ジェイドはしゃがんで目線を合わせようとしながら、彼女の体に目を向けた。それはそれは見事な青い鱗が彼女を覆っていた。朝日に反射してまるで朝の海面のようだ。

「そ、そこもですけど、なんか、この辺とかヒリヒリして…。」

彼女もそう言いながら腕を使って起き上がろうとした。190センチの男と話すのに、この体勢は結構辛いものがある。

「いっっっっっ!!!」

その瞬間、自分の体からピリ、と嫌な音がした。

「大丈夫ですか!?」

再び倒れ込みそうになる体をジェイドが慌てて支えた。元・太ももの辺りとでも言おうか。そこがジンジンと熱を持っていた。彼女が押さえていた手をジェイドはそっと避けさせて患部を見る。

「ああ、なるほど、乾燥で服に鱗が張り付いてしまったんですね。それを無理やり剥がしたから一緒に剥離してしまったのでしょう。」

よくよく見ると彼女の下半身の所々の鱗が剥げていた。恐らくベッドから落ちた際にも剥がれたのだろう。ベッドを見ると透明なきらきらと光る鱗が至る所に張り付いている。これは痛いだろう。ジェイドに剥がれるような鱗はないが、粘膜が剥がれた時の痛みは知っている。これは空気が触れるとシリシリとなんとも言えない痛みが襲ってくるのだ。

「ちゃんと大人しくしてたか…って、おい!どうしたんだ!」

遅れて飛び込んできたグリムがベッドから落ち、ジェイドに支えられている彼女を見てぎょっとした。よくよく見ると顔に涙の後も見える。

「…ベッドの外に落ちてたものを拾おうとしたら落ちた。」
「こんな事態なのに何のんきなことをしてるんだ!そんなのは後でいくらでもなんとでもなるんだゾ!」

グリムのいう通りであった。しかし、乙女心として、たとえ誰であっても下着を誰彼構わず見せることには抵抗があった。

「今学園長たちが来るからもう大丈夫なんだゾ!それにこのそっくり兄弟の片方は今のお前と同じ人魚だからな!」

きっと解決方法が見つかるんだゾ!そう言いながらグリムはタタタッと彼女に駆け寄った。そしていつものように彼女の膝部分に前足を乗せた。

「あっ、ダメです!」
「痛っ!」

ジェイドの制止する声と、彼女の悲鳴と、グリムが足を乗せたのはほぼ同時だった。彼女の悲鳴を聞いてグリムがとっさに前足を避ける。またピリッと嫌な感じがした。

「ご、ごめんなんだゾ。」

前足を見ると肉球がすこしぬたついていた。グリムは事態が良くわからなかったが、自分のせいで彼女に痛い思いをさせてしまったということはわかった。

「ジェイド、これはどういうことなんだ?」
「魚の体は鱗の他に粘膜で覆われているんです。そして粘膜に覆われているところはあなた達の…特に毛皮に覆われているグリムさんの体温だと熱すぎて溶けて剥がれてしまうんですよ。特に今、彼女の体は非常に弱っているので、少しの刺激で剥がれてしまいますから気をつけてください。皮膚の所は粘膜もないので触っても大丈夫ですよ。」

そう言われてグリムは恐る恐る彼女の手に触れた。

「痛くないか?大丈夫か?」
「うん、ありがとう、グリム。ジェイド先輩も、お騒がせしてすいません。」

ジェイドはそっと彼女のヒレの部分を触った。彼女は先程の痛みを思い出して一瞬びくりと体を硬くしたが、痛みはやってこなかった。グリムが触れた時のような熱さもない。

「僕の体温は陸の人よりもだいぶ低いので、多分グリムさんよりはマシですよ。それでも触らないほうがいいのですが…どうなっているのか確認のために少し我慢してくださいね。」

ロングシャツに覆われている腰のラインから膝あたり、そして尾びれと、ジェイドは極力触らないようにまじまじと彼女を観察する。彼女はロングシャツを着ているとはいえ、今更下半身に服がないことが恥ずかしくなってきた。

「恐らくワキ腹から腰にかけても鱗がありそうですね、シャツが張り付いているので、むやみに剥がすと傷を増やします。一度、シャワールームにお連れしても?」
「オレ様、先にバスダブに水入れて来るんだぞ!」

誰よりも機敏な動きでグリムはシャワールームに走って行った。彼はトラブルメーカーではあるが、情の深い獣である。

そうこうしているうちに学園長とクルーウェルがやってきた。

「おやおや、これは困りましたねぇ。」

いつものテンションと変わらなく話しているが、学園長の仮面に覆われている顔を見ても困惑している様子がうかがえた。クルーウェルも眉間に深くシワを寄せ、顎に手を当てて考え込んでいる。

「仔犬、変身薬らしきものを飲んだ記憶はあるか。それか錬金術や魔法薬学実践の授業で何か理解できないものができた記憶は。」

彼女は首を横に振った。そんな怪しいものを口にするほど肝は座っていない。クルーウェルも彼女が率先して何かを口にしたとは思っていなかった。授業も魔力のない彼女に何か事故が起きないように厳しく目を光らせている。そのため、ありえるとすれば不慮の何かで誤って飲んでしまったか、あるいは…誰かに盛られたか。

「それなんですが、僕に心当たりがありまして。」
「何!?」

集まっている全員がジェイドを見る。ジェイドは気まずそうに口を開いた。

「人魚になれるモクテルをモストロ・ラウンジで提供しているでしょう。人魚になった後に水槽で泳げるサービスで、今月から始めた施策です。」
「ああ、先月届出が出ていましたね。」

体を変化させる変身薬は物と効果によっては禁薬である。しかし、人魚は陸で生活するためには変身薬が必要な為、陸に上がる人魚は皆、人間変身薬と人魚変身薬の使用方法や解除方法、精製方法までみっちりと講習を受け、使用資格を取っている。人魚変身薬は、長い間人間でいると人魚にうまく戻れない人魚が多く出てきた為、応急処置として教わっている。効果が切れた頃には人魚としての感覚を思い出しているということだ。その資格を利用して、アズールは本来よりもずっと弱い人魚変身薬を作り出し、30分満たないくらいで人魚の体験ができるモクテル『シータイム』を提供し始めたのだ。もちろん、どんなに微弱であっても変身薬には変わらないので、学園長に届出を出していた。

「シータイムに入っている変身薬は先生方に提出した通り、ごく微弱なもので、30分もしない内に効果が切れるものです。ほとんど補助薬のようなものなので普通の生徒が誤って飲んでしまっても、解除魔法で簡単に治すことができます。しかし昨日、うちのスタッフがそのシータイムを間違って彼女に提供してしまったようなんです。魔力のない彼女が飲んでしまったらどうなってしまうのかは私たちもわからなく…今朝様子を見に行ったらグリムさんに会い、この事態を知ったんです。」
「なぜ昨日のうちに私たちに伝えなかったのですか?」
「申し訳ございません、それが発覚したのが今朝でして…。朝の仕入れの時に在庫の差異があり、発覚した次第でした。」

申し訳ございません、とジェイドは再び彼女と先生たちに謝った。今回は本当に申し訳ないと思っているのか、ジェイドの表情も暗い。クルーウェルはついこの間見たシータイムに入っている人魚変身薬の成分を思い起こす。魔法薬学は彼の専門研究分野である為、他の者より詳しかった。図らずしも、彼女の判断は正しかったのだ。

「提出されていた薬の成分は、即効性の高く持続力の少ないものの筈だ、そもそも普通の変身薬と違って魔力に作用するタイプだから、魔力のない者が飲んでも作用しない可能性がある。それなのになぜこいつにはこんなに効果が、それもこんなに遅くに出た?」

クルーウェルの疑問にジェイドが口を開いた。ジェイドも魔法薬学は得意分野だ。

「魔力のない人が同じタイプの魔法薬を飲んだ時に、作用する魔力がないせいで効果が出るまで通常より時間がかかったケースがあったでしょう。恐らくそれに当てはまるのかと。」
「なるほど、魔力の代謝も作用しない分、持続時間も増えたということか。しかし、あんな弱い薬では、こいつにはそもそも作用することが珍しい。変身薬が多く入っていた可能性はあるか。」
「いいえ、減っていた在庫は一杯分でした。」
「ならば変身薬は通常よりも強力に出やすいということか…?」

クルーウェルは首をひねった。今までそんな研究結果を聞いたことはなかったからだ。二人の話を聞いていた学園長が思いついたように口を開く。

「彼女は異世界から来ているので、もしかしたらこの世界の魔力のない人とまた効果が違うのかもしれません。」

クルーウェルとジェイドが目を見開く。確かにそのことをクルーウェルは失念していた。

「なるほど…もしそうだとしたらこの効果もどこまで続くかわからないな。新たに解除薬を投与するのもリスクがある。」

その言葉に監督生はびくりと肩を震わせた。すぐに戻してもらえると思っていたからである。自分の身体が自分の知らないうちに変化しているというのは、想像以上に恐ろしいのだ。

ジェイドの手のひらに彼女が震えた振動が伝わる。彼は彼女に向き直ると安心させるようににっこりと笑った。

「大丈夫ですよ、安心してください。先生方、彼女の今後ですが、今回の件は僕たちの、いえ、彼女を接客していたのに気づけなかった僕の責任です。一度オクタヴィネル寮に部屋を移して様子をみるというのはいかがでしょう。僕が責任持って彼女のサポート致します。」
「確かにオクタヴィネル寮の方が人魚に暮らしやすいでしょうけどねぇ…。」

学園長はもちろん難色を示した。男子寮に女生徒を一人住まわせるのは、さすがに許可できないことだった。しかし人魚となると話は変わってくる。そもそも人間になれない人魚が陸で生活するのは難しい。その中でもオクタヴィネル寮は人魚族が多く暮らしているので、比較的人魚でも生活しやすいだろう。

「俺は反対だ。野郎の中にこいつを入れて、何かあってからでは遅いんだぞ。」
「ですが彼女に薬効が切れるまでバスダブに居させるのは、僕としても心が痛みます。」
「うーんんん、グリムくんだけでは手の届かないところもあるでしょうしねえ。ですがそれはオクタヴィネル寮に入っても同じことですし…。」
「同じ人魚がいる方が彼女も安心すると思うんです。」

ジェイドは彼女を見下ろす。シャツに張り付いた鱗が痛々しかった。ね、と同意を求めようとした時、グリムが飛び込んできた。

「おいお前ら!!!いつまでしょうもない話してるんだゾ!?こいつが辛そうなのが分からないのか!?」

グリムはタタタっと彼女に駆け寄ると粘膜部分に触れないように器用に彼女の身体を支えていたジェイドの身体を踏み付け、彼女の頰に鼻先を寄せて擦りつけた。視界の端に涙の跡が見える。彼女はくすぐったそうに首をすくめながらもそれを受け入れた。ジェイドは彼女のその様子を見て、グリムに文句を言うのは止めにした。この場で彼女の心を軽くしたのは先生でもジェイドでもなく、彼女の相棒たるグリムだった。

「水が溜まったゾ、入ったらきっと楽になるからな。」
「ありがとう、グリム。」
「誰でもいいから早くこいつを運ぶんだゾ!」

彼女からの信頼を勝ち取ったグリムは勝ち誇ったように三人に言い渡した。三人も、グリムのいうことにも一理あると思ったため、おとなしく従った。

「では、僕が運びます。おそらく体温の関係で、僕が一番あなたを傷つけない。」

でも動かすので、少し痛みますよと彼女に告げながら、ジェイドは彼女を横抱きにする。持ち上げた瞬間、また少しピリっと嫌な音がした。横抱きにしたせいで、シャツがつっぱり、張り付いていた粘膜が少し剥がれたのだ。彼女は痛かったが、悲しいことにその感覚に少し慣れてしまったので、身体を小さく跳ねさせはしたが、声は上げなかった。その姿が余計に痛々しさを増幅させる。

「わわっ」

しかしジェイドが立ち上がった時、彼女は別の意味で声を上げ、慌ててジェイドの首にしがみついた。また自分の体からピリっと剥がれた音がしたが、構っていられない。190センチの視界は想像以上に高くて驚いてしまったのだ。

「すいません、脅かしてしまいましたね。絶対に落とさないので、安心してくだいね。」

それを証明するかのようにジェイドは少しだけ腕の抱く力を強めた。反対に彼女のしがみつく力が弱まる。

「ああでも、もうこれ以上は動かないでください。生傷が増えて辛いのはあなたですよ。」

彼女はジェイドの言う通りにそこから動かないように身体を固くした。今このことに関しては、ジェイドの言うことに間違いはない。



バスダブには水がたっぷり入っていた。グリムが器用に蛇口を全開にして溜めたのだ。いまだに全開で水が流れている。これ以上はいいだろうと思い、学園長はキュッと蛇口を閉めた。

ジェイドはそれを見届けると、バスダブに近寄り、彼女を中に入れようとした。彼女は次に来るだろう冷たい感触に身を固くさせる。

「…?」

しかしその感触はやってこなかった。代わりにやってきたのは心地良い人肌程度の温度の水が肌を撫でる感覚だった。

「ふふ」

その不思議そうな顔にジェイドはこんな事態にもかかわらず、思わず笑いがこみ上げてきた。

「冷たくないでしょう?」
「人魚が体温低いって本当なんですね。」

そのままそっと彼女を下ろす。ロングシャツはまだ張り付いたままだ。しかし彼女は思った以上に水がしみたりもなく、むしろ空気に触れていた時よりもずっと楽になったので、安心して力を抜いた。そしてジェイドが手を離した瞬間、事件は起きた。

「あ!?」
「えっ!?」
「ふなーーーーーーっ!?」

ドボンっと彼女はひっくり返ってバスダブの底に沈んでしまったのだ。パニックになった彼女は体勢を持ち直そうと、ばちゃばちゃと水面を掴む。ジェイドは慌てて手を突っ込み、彼女の脇の下に手を入れると彼女を持ち上げた。

「ゲホッ、ゲホッ」
「大丈夫ですか!?」

彼女は激しく咳き込むと水を吐いた。少し飲み込んでしまったようだ。これには学園長もクルーウェルも予想がつかず驚いた。グリムに至っては毛を逆立ている。

「ゲホッ、は、鼻に水入った…。人魚でもつーんってするんですね。」

彼女も混乱のあまりよくわからないことを口走っていた。

「すいません、失念していました。粘液は水の中でよく滑るので、バスダブに入る時は少しコツがいるんですよ。」

そもそも人間の時と人魚の時では筋肉の構造も変わってくる。それに加えてバスダブはとにかくよく滑る。人間の皮膚でも滑るのだ、粘液を纏い水との抵抗を最小に抑えた人魚の肌では尚更だろう。ジェイドやフロイドは体が大きい上に、万が一ひっくり返っても動じないので安心だが、彼女はまだエラ呼吸も知らない稚魚なのだ。

「まず縁を掴んでください。できるだけ離さないでくださいね。そしてええと…腰の部分に力を入れて、上体を前向きに、尾びれは…両膝を同時に曲げるように…そう、上手ですよ。」

クルーウェルはこの姿を見て、やはりオクタヴィネル寮に預けた方がいいのかと思い始めてきた。今のは自分達でも想像がつかなかった純粋な事故だった。下手したら命を失いかねない程の。学園長を見ると彼も何か考えているようだ。やはり人間では人魚がどんな事故のリスクがあるのか、それを防ぐにはどうしたらいいのか、思い至らない点も多いのかもしれない。

「こ、怖いですね、水って…。」

なんとなくコツを教えてもらった彼女はバスダブの縁をしっかり握ると、うまく座った。しかしこれでもいつひっくり返るかわからないので落ち着かない。

「下手にバスダブに入るくらいなら、水槽に入った方が最終的には楽になりますよ。特にあなたは体が小さいので…。」

そう言いながらジェイドは少し水を抜いた。彼女の腰くらいまでにしておいた方が溺死の確率が減るからだ。グリムは恐る恐る彼女に近づいた。彼は水がどうしても苦手だった。

ジェイドはさっと制服の内ポケットに手を入れると、小瓶を取り出した。蓋をあけると半分ほど入っている中身を彼女が入っているバスダブに全て入れる。淡い水色の液体は、水に混ざって溶けていった。

「人魚の傷薬です。アズールが作ったので効果は保証しますよ。」
「随分と準備がいいな。」

クルーウェルが口を挟む。先ほどからこの男は準備がいい気がしてならないのだ。彼女をオクタヴィネル寮にしばらく置いた方がいいとは思うのだが、このジェイドの準備の良さが妙に気になる。そのせいで諸手を挙げて賛成できないのだ。しかし、もともとジェイドは先回りして物事の準備をするタイプなのも知っているので、準備の良さが不自然ではないとも思う。その為、判断しかねるのだ。

「フロイドが以前、粘膜が剥がれてしまった時に使用した時のが入りっぱなしになっていまして。たまたまですよ。」
「人魚ってそんなに粘膜が剥がれやすいのか?」

グリムが心配そうに聞く。彼女の粘膜を傷つけてしまったのがショックだったのだ。

「いえ、フロイドのはまた少し特殊だったので…。普段はそんなに剥がれたりしませんよ。特に僕たち人魚は、水が海水でも淡水でも何にでも対応できるように粘膜に魔力を纏っていますし。」
「なら魔力がないこいつはもしかして…。」
「ええ。少し配慮が必要でしょうね。ですが、見た感じ魔法薬のおかげか、かすかに粘膜に魔力を感じます。長時間淡水に潜ってエラ呼吸する、とかの暴挙をしない限りは大丈夫ではないでしょうか?」

ジェイドはバスダブの水をバシャバシャとかき混ぜると、水から手を引き抜き、ほんの少しペロリと舐め、ついで匂いを嗅いだ。かすかに塩素の匂いがした。

「やはりオンボロ寮の水は塩素が入っていますね。後ほど中和薬をお持ちします。」

俗にいうカルキ抜きというものだ。当然人間は消毒のされていない生水を飲んでいたら命にかかわるので、ジェイドもこれは想定内だ。

「そ、それって今は入ってても大丈夫なのか!?」
「ええ、彼女は今肺呼吸ですし…。長時間エラで呼吸しなければ大丈夫ですよ。」

そういうとグリムは目に見えて落ち着いた様だった。彼女もほっとしている様だ。

ジェイドは再び水の中にズボッと手を入れると、今度は彼女のロングシャツの裾をめくった。

「リーチ!」
「ぎゃっ!?」

これにはさすがの彼女も驚いてしまっておよそ女の子とは思えない変な声が出た。変な声を出してしまったのが恥ずかしくなって、真っ赤になりながらジェイドを見るとジェイドは顔を背けながら笑いをこらえていた。堪えすぎてジェイドも顔が真っ赤である。思わず制止に入ったクルーウェルも半笑いを浮かべていた。学園長は優しいので聞こえなかったフリをしている。

「っんふふ、すいません、突然女性の服をめくるなんて失礼を…んふふ。」
「素直に笑っていいですよ!」

一応気を使っているのか、それとも一周回って小馬鹿にしているのかジェイドはずっと肩を震わせている。ツボにはまってしまったようだ。

「はは、」
「ジェイド先輩!」
「張り付いたシャツを剥がそうとしただけですよ。ふふ、…そろそろ固まった粘液も元に戻ってる頃ですし。」

決して嫌がらせではないですよ、とジェイドは笑う。それを聞いて監督生は少し申し訳なくなってしまった。

「ご自分で剥がされます?ゆっくり剥がせば大丈夫ですよ。万が一また鱗も一緒に取れてしまっても傷薬が入ってるので、痛くないですし。」
「ちょっとまだ怖いので、あの、お願いしてもいいですか…?」
「承りました。」

また変な声出さないでくださいね、と声を掛けながらジェイドはロングシャツの裾をゆっくりめくる。次また変な声を出されたら笑った勢いで手元が狂ってしまいそうだ。ゆっくりゆっくりめくっていくと、腰から少し下、本来太ももに当たる部分に少しひっかかる所があった。ここが張り付いている部分である。

「剥がしますよ、もし痛かったら言ってください。」

そっと力を入れて少し引っ張る。ほんの少しの抵抗があった後、シャツだけが綺麗に剥がれた。この調子でどんどん剥がしていこう。そう思い先ほどよりスピードを上げてめくっていく。しかしここで問題が起きた。

「ひ、ひえ。…わわ、ううっ……。」

なんて声を出すんだ。ジェイドは今度は違う意味で手元が狂いそうだった。彼女は徐々に捲られていく裾に羞恥を覚えていた。彼女からしたら下半身に何も纏っていない状態は恥ずかしい。しかもそれを異性に見られるというのは…。ジェイドからしたら人魚の女性など見慣れているし、恥ずかしがる必要なんてないのに。しかしそうは言ったが…正直に言おう、恥じらう彼女の表情も相まってジェイドは少し劣情を覚えた。本当は裾を抑えたいだろうに、健気に我慢して手を握りしめている姿は、まるで見てはいけないものを見ている背徳感に襲われるようだった。

「…全部取れましたよ……。」

…熾烈な戦いだった。ジェイドの人生で5本の指に入る名戦であっただろう。ここに先生方がいてよかった。それに先生方は後ろにいるため、ジェイドの表情は見えない。彼らはジェイドが甲斐甲斐しく彼女の面倒を見ているようにしか見えなかった。もちろん、監督生は羞恥に耐えるのに必死でジェイドの表情にまで気が回らなかった。もし見てしまったら、きっと彼女は泣いてしまうだろう。そんな表情をしていた自信があった。

「何から何までありがとうございます。」

ちょっとしたトラブルはあったものの、先ほどからのジェイドの手つきは鮮やかだった。ここにジェイドがいなかったら今頃彼女はまだフローリングの上で転がっていただろう。それにこの傷薬はよく効いた。まだ傷薬を入れられて5分も経っていないが、剥がれた粘膜や鱗の部分のヒリヒリとした痛みが全くない。さらには先ほどの様に空気に触れていた時よりずっと楽になった。

「いえ、元はといえば僕たちが起こしてしまった事故ですので…。」

そう言いながら、ジェイドは彼女の体にこれ以上負担がかからないかバスダブ周りのチェックをする。それを見ていた学園長がクルーウェルにそっと告げる。

「やはりオクタヴィネルに預けましょう。万が一彼らが何か企んでいると仮定しても、彼女の世話は彼らが適任です。」
「やはりそうですよね…。」

クルーウェルも同意した。彼らは学園相手にも取引を持ちかけてくる厄介者であるため、あまり自由にはさせたくないのだが、彼女への対応を見ているとやはり適任であると思う。最良の結果を得たいなら専門家のところに行くべきということだ。

「学園長、朝晩と私が彼女の様子を見て報告します。それと、定期的に私と連絡を取れる様に彼女に携帯端末を持たせましょう。」
「ええ、それなら多少牽制になるでしょう。私も様子を見に行くとします。」

こそこそと会話を終えると、学園長は二人と一匹に声をかけた。

「三人とも、聞いてもらえますか。」

ジェイドとグリムは振り返って返事をした。監督生はバスダブの淵に掴んでいる手に力を入れると、背筋を伸ばし二人を見た。底が深いのと、自由に動くのが上半身しかないので、外を見るのに少し苦労するのである。

「彼女の処遇ですが、最初にリーチ君が提案してくれた様にオクタヴィネル寮で生活していただこうと思うのですが、いかがですか?」
「もちろん、俺が監督に付く。なにか困ることがあったら出来る限り対応するが、どうしても俺たちでは気が回らない所もあるだろうからな。そこはリーチに頼みたいが、できるか。」

教師の言葉にジェイドはむしろ待ってましたと言わんばかりににっこり微笑んだ。

「もちろんです、最初からそのつもりです。」
「お前もそれでいいか。オンボロ寮から出ることになるが…。」

クルーウェルは言葉を濁したが、男子寮に女子一人だぞ、という意味を言外に含ませた。彼女はそれを的確に読み取った。

「はい、よくオクタヴィネル寮にはお世話になっているので、知り合いの方も多いですし、大丈夫です。」

最近ジェイドと話すことが多かったので、彼女もグリムもよくオクタヴィネル寮に遊びに行っていた。ラウンジに通うようになってからは話す人も増えたし、授業でも声をかけてくれる人がいるので、むしろ少し安心だった。

「俺様もいるから大丈夫なんだゾ!」

もちろんグリムも彼女が寮を移動するならついていくつもりだった。彼と彼女は二人で一つの相棒なので。

「なら決まりですね。後ほどアズール君にも私からお伝えしましょう。」

学園長はそう言うと、今後の詳しい日程を話し始めた。



話し合いの結果、オクタヴィネル寮の受け入れにも準備が必要とのことだったので、明日の朝にすることになった。その為ジェイドは正直彼女が心配で行きたくはなかったが、オクタヴィネル寮に戻り、学園長とクルーウェルはその事務処理やオクタヴィネル寮の生徒への根回しに向かった。そして残されたのは人魚になった彼女とグリムのいつものメンバーであった。朝から賑やかだったオンボロ寮にやっと平穏が戻ってきたのである。

「調子はどうなんだ?」
「だいぶ慣れてきたかも」

チャプチャプと尾ひれを動かしてみせる。ここ半日で多少動かし方のコツが掴めてきたような気がした。もちろん、これがまたこのままひっくり返りでもしたら戻れずに溺死してしまう自信があるが。この腰くらいの水の高さで人魚が溺死とはなんとも間抜けな話だが、今の彼女には十分にあり得る話だった。

「ふなぁ〜!キラキラしてて綺麗なんだぞ!」

彼女の鱗は真っ青だった。動かすときらきらと光を反射して、海の中ならさらに映えるだろう。彼女はまだ少し怖くて、鱗には触れずにいる。

「グリムの耳と同じだね。」

グリムの耳も青い炎で纏われている。これは触っても不思議と痛くないのだが。グリムは自分が纏う炎の色と彼女の鱗の色が同じなことにほんの少し嬉しくなった。

「朝は色々ありがとうね、グリム。」

彼女はグリムの顔に手を伸ばすと、頰をスルスルと撫でた。グリムは普段なら俺様は猫じゃないんだゾ!と抗議するところだが、今日のところはおとなしく撫でられることにした。

「気にするな!相棒の危機は俺様の危機なんだゾ!」

監督生はじーんと来てしまった。なんていい魔獣なんだ。これでトラブルメーカーでなければ最高なのに。もちろんそこがいいところでもあるのだが。

「明日から移動になるけど、グリムは何か持っていくものある?」
「俺様はツナ缶があればそれでいいんだゾ!」
「勉強道具持って行きなさい。」

ふなーっ!と声を上げながらグリムは耳を押さえて聞こえないフリをした。彼は実技は割と真面目に頑張るが、座学が得意ではない。

「明日からしばらく、私は授業に出席できないし…。」
「ふなっ。」

グリムはそのことを失念していた。そうだ、彼女は今バスダブから出られないのだ。もちろん授業も出られない。オクタヴィネル寮に移動するのは、普段通りの生活ができないからだというのに、グリムはすっかり明日も一緒に授業を受ける気でいた。

「…俺様、真面目に出席するから、お前も早く治すんだゾ。」
「そうだね、先生やジェイド先輩もいるし、すぐ元に戻るよ。」

彼女も自分に言い聞かせるように呟いた。薬の効果はいつまで続くのだろうか。明日からどうなってしまうのだろう。心配事は尽きないが、ここはツイステットワンダーランドきっての名門校で最高研究機関だ。ここで治せないものなどきっとない。

明日の準備をしてもらったり、部屋の片付けをしてもらったりしていたら、あっという間に日が暮れた。使っていたシーツは、バスダブから出られない彼女とグリムの力ではもうどうしようもなかったので捨てることにした。

「今日ここで寝ることになるよね…。」
「そうした方がいいゾ、朝はひどかったからな。」

今日は本当に色々あって本来だったら早く寝たかった。しかし、朝滑ってひっくり返ったことは記憶に新しい。今日1日で少し感じは掴めてきたが、やはり恐怖感は拭いきれないし、なにより硬いバスダブは寝るのに適していなかった。すでに今日1日硬くて狭いバスダブにいたせいか、体の節々が痛んだ。それでもベッドの上にいた時よりはましだったが。

その時、バスルームの扉に人影が現れた。監督生もグリムもシルエットだけで誰かわかったが、その人物は律儀にもノックしてきた。

「失礼します。ジェイドです。ドアをお開けしても?」
「どうぞなんだゾ〜!」

我が物顔でグリムは返事をした。ジェイドはドアを置けると、横に置いておいたらしい大きなダンボールをどさっと運び出した。

「ど、どうしたんだ、こんな大荷物!」
「今夜入り用なものをお持ちしました。」

ごそごそと荷物を漁るジェイド。グリムはジェイドに駆け寄ると、ダンボールの中身を見た。

「なんだこれ?風船か?」
「ああ、それはエアピローですよ。」

そう言うとジェイドは三種類のエアピローを取り出した。

「こちらは首に使ってください。こちらは胴体に。この大きいのは今から底に敷きます。」

そして再びジェイドはテキパキと彼女の寝床を整えた。確かにこのエアピローたちを使うと、快適度がかなり上がった。これで体が痛い問題は解決しそうだった。

「こちらを使用しても、やはりベッドの心地よさには敵いませんが…。一晩ならこちらで凌げるはずです。オクタヴィネルのバスダブはもっと広いので、尾ヒレを伸ばすことができますし、快適な生活になるように準備してきましたので、今日はこちらで我慢いただいてもよろしいでしょうか?」
「我慢なんてとんでもないです!すごく楽になります、ありがとうございます!」

それと…とジェイドはまたダンボールを漁り始めた。そして出てきたのは、フリルがたっぷりあしらわれたワンピースのような服だった。おそらく人間の姿の時に着たら長さは足首くらいまであるだろう。スカート部分はごく薄いシフォンを何枚にも重ねて作ったようなデザインで、色は光の加減でキラキラと変わる美しい素材だ。全体的にゆったりとしたデザインである。

「これはなんですか?」
「P.A.オーシャン・シーマリンデザインのシュミーズです。ここの服は人魚に向けたアパレルも取り扱っていまして、こちらの素材なら人魚の肌を傷つけません。」

不思議なことにこの服は、水に浸しても肌に張り付く感じが一切しなかった。水の中でゆらゆらと揺れる様はクラゲを彷彿とさせる。

「鱗に陸の素材の服はあまり良くないので、そちらのシャツを脱いでいただきたかったのですが、先ほどシャツを捲った時、気まずそうでしたので。ワンピースタイプのものの方がよろしいかと思ったのですが…。」
「やっぱ人魚の女の人って…。」
「ええ、皆さん胸当てだけの方が多いですね。泳ぐのに邪魔ですし。」

監督生は感動した。そんな中、自分を思いやってわざわざワンピースタイプを用意してくれたのだ。事実、朝から着ていたロングシャツは肌にベタベタ纏わり付いて着ていて気持ちのいいものではなかった。しかし、どうしても下半身に何も遮るものがないのは恥ずかしく、こうして我慢して着ていたのである。

「ありがとうございます…。こういうの、あったらいいなって思ってて…。」
「お気に召していただけて光栄です。…今回は僕たちの不手際でこのようなことになってしまいすいません。」
「いえ、そんな…。事故ならしょうがないですよ、ジェイド先輩には今日数え切れないくらいお世話になりましたし…。」
「ちょっと不気味なくらい優しかったんだゾ。」
「グリム!」

グリムの横槍にジェイドは困ったように笑った。いつもの企んでいるような笑顔ではなく、本当に少し困っているようだ。

「今日1日先生方やクラスメイトの皆さんにも似たようなことをいわれてしまったんですよねぇ。皆さんからの信用がなくて悲しいことです。…気にしていませんが。」

嘘だ、彼は困ってなどいなかった。この人はいつもそうだ。しかし、いつもの調子に戻ってきて、監督生は逆に安心した。ジェイド先輩はこうでなくては。

「魔力のないあなたが人魚になるなんて、なかなかできる体験でもないでしょうし、せっかくですからいい思い出にして欲しいんです。」
「先輩…。」

正直、人魚になってから辛いことが多かったのは認めるが、存外現金なもので、今ので全てを帳消しできてしまいそう。そんなことを考えてしまった。確かに人魚になるなんて、元の世界でもできない体験だ。この際楽しむのもアリかもしれない。

「ありがとうございます。でも今ので全部いい思い出になっちゃいましたよ。」

ジェイドの心配りが純粋に嬉しかった。それが義務からきているものでも、先回りがただ得意だっただけにしても。そう行動してくれた結果が嬉しかったのだ。

「そう言っていただけると嬉しい限りです。僕も人魚ですし、…悪くないと思っていただけたほうがいいですしね。」

ジェイドは少し照れくさくなり、またダンボールを漁りだした。まだお助けアイテムを持ってきていたのである。

「こちらで最後ですが、今夜はこれを設置させてください。」

それはプラスチックで出来た小さなバスダブの蓋のようだった。

「これは…?」
「滑り止めのようなものです。これで足元を固定すれば、朝みたいなことになりませんよ。」

本当に至れり尽くせりだ。この短時間で今日1日悩んでいたことが全て解決してしまった。

「これで今夜は心配せずに眠れるんだゾ!」

これはグリムも心配していたことだったので、解決できて本当に良かったと思っている。朝起きて相棒が溺死していたら悔やんでも悔やみきれなかっただろう。

「ですがやはり心配なので…。今日はオンボロ寮に泊めていただきたいのですが、よろしいでしょうか。」
「え、いやさすがにもう、申し訳ないので…。」
「もちろんバスルームに勝手に入ったりなどいたしません。アズールにも今夜オンボロ寮に泊まる話は通してあります。」
「あの、えと、でもベッドがなくて…。」
「こいつのベッドは朝ダメになったしな。」
「いいえ、ソファで結構です。」
「ジェイド先輩ソファだと絶対寝違えますって、」
「泊めていただけますね。」
「はい…。」

押し負けた。顔に断ったらどうなるかわかっているだろうな、と書いていた。ずるい。しかしこうなったジェイドはテコでも動かないし、反抗すると後が怖い。こっちが折れた方が早いのだ。

「俺様はバスルームにいるから安心していいんだゾ。…ちょっと湿気が嫌だが今夜は我慢するんだゾ…。」
「グリムくんは監督生想いですね。」
「こいつは俺様の子分だからな!」

グリムはバスルームの外に出ると、ジェイドに自分が普段使っているベッドを移動するように告げていた。先輩を顎で使うなんて…と監督生は一瞬青くなったが、存外ジェイドは機嫌良くグリムの言う通りにしていた。案外相性はいいのかもしれない。

「ジェイド、お前はここで寝るといいんだゾ!」
「あなたのベッドよりは全然大きくて安心しました。」
「ふなーーー!俺様はこれから大きくなる予定なんだゾ!」

思ったより楽しそうで何よりだ。きっとグリムも一通り案内したら戻ってくるだろう。彼女はそう思い、用意してもらったワンピースに着替えることにした。長い夜が始まろうとしている。

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