この、退屈の檻の中で私はどうあるべきなのだろうか。もうずっと、そればかりを考えている。
「なまえ、今日はスリル・フードの方を頼む」
「ん、わかった」
ここ、ディベールテスマーは「刺激と娯楽の街」で名の知れた、いわゆる歓楽街だ。エレキの国でも一風変わった様相を醸し出している。
その街で、彼女、なまえは事件屋という聞く人によっては名前をひそめるであろう企業――と言えるのかは別として――に所属していた。
物騒な名前とは裏腹、事件屋はこの街でも名の知れた存在である。日々刺激を求めるこの街でしっかりと需要のあるそれは、一人の若い男性を軸に展開している。
その男性ことノーフィールに本日の仕事を言い渡されたナマエは、その指示の通り飲食店であるスリル・フードの従業員として、本日は時間を割くことになった。
それ自体は別段文句もなく、自分の仕事だと思えばやりがいだって生まれる。はずなのに、彼女にとって大きな問題が生まれつつあった。
「……ねえ」
ポツリとなまえの口からこぼれ落ちた声は、彼に拾われることなく空中で霧散していった。
――――――。
わずかな空気の揺らぎを察知したのか、ノーフィールは「うん?」と聞き返すように彼女の顔を見やる。なまえは、いつもと変わらない笑顔で「どうかしましたか?」と笑った。
「いや、気のせいかな」
「ふふ、ノーフィールさんってば。じゃあ、私お客様にとっておきのスリリングなお食事用意しますね!」
と言っても、それを作るのは私じゃないんですけどね。苦笑するなまえにつられるようにノーフィールも苦笑する。
本来ならば彼女の料理は喜ばれてしかるべきなはずなのだが、ここではそういった常識は通用しない。それが、ディベールテスマーなのだから。
「それじゃあ、俺も持ち場に行くな。いつも悪いな、あいつらの世話任せてばっかで」
「いやいや、私がお世話してもらってるんですよ」
にこにこと笑みを浮かべ他愛もない会話を挟みつつ、彼が部屋から出ていく。閉じられたドアを眺めながら、なまえはもう一度、先ほどと同じ言葉を呟いた。
「退屈で退屈で、死んでしまいそう」
どうあがいたって、この牢獄からは逃げ出せないくせに。
実際、なまえ自身どうなろうと構わない。死すらも新たな刺激となるのならば、甘受してみせるというのに。けれど周りがそれを許さない。
形ばかりの恋愛も、何かに貢ぐことも、スリルにあふれた食事も、エレキファイトも、事件に巻き込まれるごっこ遊びも、既に飽いてしまった。
この閉じられた檻の中で繰り広げられる遊びは、彼女にとってすぐさまつまらないものへと成り下がってしまう。元々の性質がそうなのか、人よりも没頭できずにいるなまえはいつだって檻の外に焦がれていた。
だからなのだろうか。彼女の足は行くべきであったスリル・フードではなく、決して出ることの叶わないゲートへと向いていた。
魔が差したのだろう。頭の片隅では、仕事をサボってしまった罪悪感がチラついていた。ノーフィールに対しての申し訳なさも。
ただそれ以上に、まるで水が器を満たすように退屈が足元からじわりじわりと溢れてきて、いつしかそれが呼吸を奪ってしまったかのような感覚。
退屈という水の中で、呼吸すらできずにもがくような日々に、なまえはもう耐えきれなくなっていた。
退屈か、死か。周りは退屈ながらも延命を望んでいるのだろう。故にディベールテスマーへと閉じ込められることとなった。
彼女だって、別に苦しいだとか痛いだとか、そんなものを好き好んでいるわけではない。ただ、苦痛と退屈を天秤にかけた場合、どちらが傾くかというだけなのだ。
生きていたいと思うには、その場限りの退屈しのぎはあまりにも先が見えず、息が苦しい。
空だ。ウロ、虚。退屈という感覚は彼女に暗く深い穴を開ける。
――そう、だから私は。
「なまえ」
「……ノーフィール、さん」
よたよたと覚束ない足取りでゲートへと近づく彼女に声をかけたのは、先ほど彼女を送り出したノーフィールその人だった。
名を呼べば、彼は淡々とした口調で「そこは開かないぞ」と事実を述べる。普段よりも硬質的に聞こえてきた声に、なまえはそういえば、と思い出す。
ゲートはひとりでには開かない。当たり前と言えばそうなのだが、今の今まで気づきもしなかったのだ。
「開けてください」
「俺にはどうすることもできない」
「嘘。ノーフィールさんなら知ってるんでしょ? 開けてもらうだけのコネも、持ってるんでしょ?」
「……仮にそうだとしても、それだけはできないな」
実際、彼女の言葉は妄言に近い。彼女の言うような知識も、コネも、ノーフィールが持っていると断定できるだけの材料を彼女は持ち得ていないのだから。
互いに浮かべる表情は限りなく無だ。それだというのに胸に抱くものは対極に近かった。無感動による無、様々な感情が混ざり合った故に行き着いた無。
こんな状況だというのにノーフィールは無感動だった。こんなときだからこそ、なまえは溢れ出る感情が抑えきれない。
「実際お前、結構辛いだろ。早くこっちに戻るんだ」
「や」
「嫌じゃないだろ。あのなあ……」
「やなの」
駄々をこねる子供のように首を振ってみせるなまえに、いよいよノーフィールはどうしたものかと思考を巡らせる。彼女が事件屋に籍を置くのは、彼女の親に頼まれたからだ。
以前少しばかり縁のあったその人たちが懇願するものだから、従業員の一人として雇うことを決めた。それがまさかこんなことになるとは思ってもみなかったわけだが。
諭すために一歩近づけば、彼女も一歩後退る。手を伸ばしても、ギリギリ届かない距離を保ったまま、二人は睨み合う。
「……悪いな。俺を恨むなよ――」
彼女の望む通りにするわけにはいかない。人として欠けていても、一応芯は通っているつもりだ。
ノーフィールは地を蹴り、彼女が行動を起こすよりも早くそのうなじ目掛けて手刀を落とす。人垣を失うにはそれなりの力を要するからこそ、砂つぶのごときかすかな申し訳なさを抱いた。
できることなら手荒な真似はしたくなかったのだが、この場合仕方がない。なんせ彼女が、接触を拒んでいるのだから。
再度口にした謝罪の言葉は、おそらく彼女には届かなかっただろう。膝から崩れ落ちるなまえを片手で支え、彼は小さく溜息を落とした。
それから小さく声を上げながら彼女を負ぶる。耳元で聞こえるかすかな寝息が、ことの終幕を物語っているようだった。
――これは彼女の記憶に残ることはなく、繰り返されること87回目の出来事だった。