誰も知らない彼のこと

「第一回、看守長を笑わせよう会議を始めます」
「ええっ!?」
「……これまた唐突ですね」
 人差し指を立てて発される唐突な女の提案に、驚いたように声を上げる女と男が一人ずつ。仄暗い監獄内を歩きながら会話をする三人を、牢の中にいた人間はヒソヒソとさざめきを持って眺めていた。
 彼らはここ、監獄都市の看守として籍を置くものたちである。その中でも、看守長に近しい三人は、鬱々しい仕事に潤いを持たせるべく、会話に花を咲かせていた。……とは言っても、それに積極的なのは先の提案を口にした女、なまえくらいなものだが。
「そもそも、パロアルテ看守長の笑顔、見たことあります?」
「……そういえば、ないですね」
「私もあの方の笑顔となると……」
「でしょ!?」
 二人の同意が嬉しかったのか、先行していたなまえは目を輝かせて振り返る。器用に後ろ向きに歩きながら、ウンウンと頷いて言葉を続ける。
 彼女がここ、監獄都市へやってきてから数年が経つが、未だかの人の笑顔というもの見たことがない。こんな場所だからという理由はあれど、それだけで笑顔を見せないはずがない。
 そう並べるなまえに感心したようにシルハトテは小さくウンウンと頷いてみせた。
「なるほど。なまえさんは業務中、そのようなことを考えていらっしゃったのですね」
「なーんか棘があるんだよなあ、シルハトテ。メグちゃんみたいに可愛い反応とかないわけ?」
「貴女にそうする必要性を感じないので」
「ひっどーい! 聞いた? メグちゃん。この男こんなこと言ってるよ?」
「相変わらず、お二人は仲がよろしいですね」
「貴女の目は節穴ですか」
「ええっ!?」
「それには同意」
「なまえさんまで!?」
 などと、軽口を叩いていた三人だったが、突然シルハトテが言葉を切る。かと思えば、メグラトテも慌てたように「なまえさっ……!」と声を上げた。
 二人の視線は彼女の先に向いており、その方向に背を向けていたなまえは一拍、反応が遅れてしまった。
 それが彼女の運の尽きだ。
 背中に衝撃を受けたかと思えば、彼女の頭上からは威厳すらも感じる低い落ち着いた声が降ってきた。
「歩くときは前を向いて歩け、なまえ」
「かっ、かかか、看守長!?」
「今は警備をしていたはずでは?」
「してるじゃないですか! ほら! こうやって三人で!」
「……私にはそうは見えんが」
「ああ、看守長。なまえさんが何か用事があるみたいですよ」
「シルハトテさんっ!?」
「ちょっと!」
 慌てたように声を上げるメグラトテと、避難するような響きのなまえの声が綺麗に重なった。
 冷たい瞳で三人を見渡したのち、パロアルテは静かに「それは丁度良かった」と声を上げたことにより、なまえの退路は見事に塞がれてしまう。
「私もなまえに用があったところだ。シルハトテ、メグラトテ、あとは二人でやれるな?」
「ええ、もちろん」
「は、ハイ……」
 片や爽やかな笑顔で、片や不安そうに目を揺らしながら、二人が返事をしたのを見届けてから、パロアルテはなまえを一瞥する。
 ついてくるように。静かに吐き出された言葉に泣く泣くなまえは従うこととなった。こんなところで逃げ出して、意味のない鬼ごっこに興じるほど馬鹿ではない。こうして、彼女は彼の足の向かうまま、執務室へと付き従うこととなった。
 ――当然、その間会話などあるはずもない。
 足の長い彼について歩けば当然のように目的地にはすぐにたどり着いた。部屋に入るなり、彼は自らの席に腰下ろしデスクで手を組んでなまえに向き直る。
「で、用とはなんだ」
「いや〜〜、私は大したことないので、先に看守長からどうぞ」
「……そうか」
 なまえの言葉に小さく頷き、簡潔にそれを告げる。今後、彼女には独房の警護も任せたいという、ごく単純でありながらも彼らにとっては意味のある一言だった。
 独房に収容されている囚人たちは皆、それなりの悪事を働いた凶悪なものたちばかりだ。それを任せるということは、信頼と実力の両方を兼ね揃えていなくてはならない。
 ……そんな話の後に、まさか「看守長が笑わない」ことを話していたなど、知られるわけにはいかない。かといって、何も言わないのもおかしい状況だ。なんせ、シルハトテのおかげで彼女がパロアルテに用事があるということになっているのだ。
 頼んだぞ。という彼の言葉の後に、続いたのは当然なまえの用を聞くための言葉だ。
「……で、何の用だ」
「えー? いや〜……はは……」
「? 用事があるのだろう?」
「えーっと……まあ……」
 どうにも歯切れの悪いなまえに、彼はわずかに目を細める。ただでさえ「怖い」と子供が涙するその顔が、視線が、さらに鋭さを持つ。
 沈黙を貫き通すつもりでいたが、その視線に居心地の悪さを覚えて彼女は渋々と口を開いた。
「……って」
「ん?」
「パロアルテ、笑わないなって……」
 どうせいつものように「ご飯が美味しくない」だの、「監獄内薄暗くてヤダ」だの、ごくごく個人的な文句の一つでも口にするのかと思いきや、予想外の言葉に面食らう。
 しかしそれも一瞬のことで、彼は呆れたようになまえを見やる。
「なまえ、今は勤務中だ」
「はいはい、わかりましたよーだ」
 同期みたいなもんなんだし、同い年だし、いいじゃないかとぶつぶつ文句を口にしながらも、彼女は彼に背を向ける。執務室の扉に手をかけて、首だけを彼に向けて態とらしく「それじゃあ失礼します、看守長殿」と、看守長を強調しながら口にして部屋を後にする。彼女のいなくなった室内で、呆れたようにため息をつきながら彼が口元にうっすらと笑みを浮かべいたことを、彼女は知る由もなかった。