愛の輪郭を哀でぼかして

「隊長」
「どうかしたのかな? えらく余所余所しいじゃないか」
 そう言って、目の前の男は薄く笑みを浮かべる。いつものように「ダッド」と呼んではくれないのかい? なんて、態とらしく問いかけられて思わず眉間にシワが寄った。
 異議を申し立てるために、わざわざこうして彼の執務室へと足を運んでいるのだが、どうにも彼はそんな気配をかけらも受け入れてくれる様子はないらしい。
 この人はいつだってそうだ。分かっているくせに、妙に線引きをきっちりと行う。おかげで私はまた今日も、心が折れてしまいそうになる。
「……私の、異動願いを取り下げたって……本当?」
「君はまだ、僕の手を離れられる時期は来ていないよ」
「そんなことない。私はもう、ダッドに手を引かれなきゃ何もできない子供なんかじゃない」
「……本当に、そう思っているのかな?」
 薄く貼り付けられた笑みに言葉が詰まる。だって、現に今、私は彼を「ダッド」と呼んでしまったから。未だにその呼称からすら卒業できない私が、彼の子供ではないのだと言い張ることができるのだろうか。
 ……じゃあ、仮に子供だったとして、この胸に灯る身を焦がすような感情はなんなのだろう。
 幼子が無邪気に口にする「大きくなったらパパと結婚する」という言葉なんか比較にならないほどに、気づかぬうちに育ってしまったこれは。
「思ってるよ、思ってる。だから私は――」
 この隊を、暖かな家庭を、抜け出したいと思っているのではないか。
 これに気づいたのはいつだっただろうか。他の家族たちとは違う風にダッドを、トラストを見ていたことに気づいたのは。
 はじめのうちは当然、家族愛に連なるものだと思っていた。行くあてのない自分を拾ってくれた恩人に対する刷り込みだとか、感謝や尊敬が大きく膨れたものだと、思っていたのだ。
 でも、実際はどうだろう。隊の面々と話しているうちに気づいてしまった決定的なズレは、今や取り返しのつかないところまで来てしまっている。
「なまえ」
 諭すような声色で、彼が私の名を呼ぶ。僕を困らせないでくれ。と続いた言葉に、膨れ上がった意欲がみるみるうちにしぼんでしまう。雪が溶けて水になって、地面に吸い込まれるような可愛らしいものではない。
 トラストが困ったように眉を下げながら、ゆっくりと席を立つ。一歩、また一歩と近づくにつれ、背筋に冷たい汗が伝うような、どこか落ち着かない心持ちになるのだ。
 彼の言葉は、私が未だ庇護下におかねばならない幼子と同様の存在であることを暗に告げていて、私の淡い思いへの拒絶に等しい。
 だからこそ、私は涙をこらえながら、懇願するように、彼を見上げるのだ。
「何も泣くような話じゃない。そうだろう?」
「泣くほどのことだよ」
「それは、どうして?」
 彼の燃える炎のような右目と、月の出ない夜のような左目が私を見る。
 問いかけているくせに、その言葉は言わせないと言わんばかりの視線にぐっと言葉に詰まる。
 わかっている。それを口にしたところで私の望むような結果が得られることはないのだということくらい。
 ……でも、彼が私に対してまるで我が子にそうするような行動を取るたび、苦しくって仕方がないのだ。
 真綿で締められているような、じわじわと緩やかに締め付ける苦しみは、いっそ切り捨てて欲しいと思うほどに辛いのだ。
「……わかってる、くせに」
「さて」
「……、私はっ!」
 こらえきれずに零れた涙は、頬を伝って床に敷かれたカーペットへと吸い込まれていく。
 なのに、彼はやはり私にその先を言わせる気はないようで、人差し指で私の唇に触れた。
 しっ。と言葉を遮るために、彼は私の唇に触れたのだろう。私たちの前では決して口にすることのない、苦い苦い煙草の香りが、彼の手袋からほんのりと伝わってくる。
 私を見下ろす彼の顔は、今まで見たこともないような色をしていた。感情の読み取れないそれに呆然としていると、彼はまた、柔和な笑みを貼り付けてくつくつと喉を鳴らすのだ。
「なまえ、いい子だから僕を困らせないでおくれ」
「また、子供扱い」
「そうだね」
 だって君は、僕の子供じゃないか。続く言葉は私によく言い聞かせるような響きで、私の思いを拒絶するもので、それから――。
 違う。そう言おうと口を開いた私を、彼は優しく抱き寄せる。頭をポンポンと撫でながら、もう一度、私の感情を撥ね付けるように言葉を紡ぐ。
「いいこだから。ね?」
 癇癪を起こした子供を宥めるようなやわらかな口調。これが彼の、私に対する答えだ。
 たとえ隊を移動することができたとしても、彼の中で私という存在は子供の枠を出ることはないのだと、思い知らされる。
 ぱたりぱたりと落ちる涙は床に敷かれたカーペットに染みを作っていく。
「可哀想に。君は未だに感情の区別がつかないんだね。大丈夫。僕が一緒だよ」
 一緒に、一時的感情の結末を探そう。そう言って私をあやす彼の言葉が、どうしようもなく寂しい。
 感情の区別なんて、とうの昔につけ終わっている。けれどそれは、彼の望むことではない。
 ――悲しくて、哀しくて、かなしいのに、彼の手で落ち着いてしまう私は、 どうしようもなく彼の「子供」のままなのだ。