シロップ漬けの悪足掻き

 私は恋をしている。叶わぬ恋をしている。もしもを夢見ては、その度に傷つくような、できる事ならばいますぐにでも捨ててしまいたいような感情を、何を思ってか後生大事に抱えて日々を過ごしている。

「リービット!」
 目の前にいた男の名を呼べば、彼はくるりと振り返って私を見る。「どうした?」なんて聞かれても、特にこれといった用はない。
 目の前にいたから。見かけたから。つい、衝動的にその名を呼んでしまっただけである私は、こちらを見ている端正な顔つきに一瞬言葉を失い、それからいつもの調子で笑顔を貼り付けた。
「や、特に用はないんだけど」
「あのなあ」
「お説教はやだやだ! ……あれ? 会長は?」
 用がなきゃ話しかけちゃダメなのか。と、思わず返しかけたけど、普段彼の傍にいる小柄な年下の先輩の姿が見えない。
 いつも、いつもいつも二人仲良く並んでいるくせに。そのたびに私のみぞおちの、奥の方を殴っているように痛めつけている癖に。
「シル……彼女なら所用でさっき別れたばかりだ。というか別に、常に一緒にいるわけじゃないだろ」
「ほー? へぇー?」
「……何か言いたそうだな」
 半眼で睨まれて、私は慌てて降参のポーズで「まさかまさか」と首を振る。
 顔の整った男のそう言う顔はやたら迫力があるのだから、少しは自分の顔面偏差値の高さを自覚してほしい。
 とりあえず、これから受ける授業が同じらしいので並んで向かうことになった。他愛もない会話を交わしながら、ゆっくりと歩く。
 私なんかよりも脚の長い彼が、何を言うでもなく私の歩幅に合わせて歩みを進めてくれている。そうやって垣間見せる紳士的な部分にときめいては、そうなった要因であるシルキーの姿が脳裏にチラつく。
 天国と地獄が忙しなくジャカジャカと切り替わるこの頭が憎い。どうせなら、彼女の存在を無視してときめいてしまえるだけの機能を搭載していて欲しかった。
「次の講義だるいなあ……」
「寝るなよ?」
「寝ないよ多分」
「多分? 試験前に泣きをみるぞ」
「いつものやつかあ」
 他愛もない会話だ。淡々と、私が言いたいことを口にしては彼が相槌を打つ。テンポよく帰ってくるそれに、ほんの少し、魔がさしたとでもいうのだろうか。
 今ならば、何を言っても冗談で済ましてもらえるかもしれない。実際冗談で流されたらとても寂しいのだけど。
 彼に気づかれないように、私はゴクリと生唾を飲む。多分、チャンスは一度きりだ。後にも先にも、今だけがそれを許されるのだ。
「私リービットのこと、好きなんだよね」
「へえ、そうか」
「うん。そう。会長にいつも嫉妬しちゃうくらいには好き」
「……そ、れは」
 冗談を口にするようなノリで、いつもと同じ平坦な声で、私は思いを告げられたはずだ。いつも通りすぎて流す体制に入った彼に、追い討ちをかけるように続けた言葉はようやく彼の相槌を詰まらせることに成功したらしい。
 背の高い彼を見上げれば、珍しく赤面しているリービットと目があった。
 改まった事を言ったのは私だし、自分の首を絞めるが如くそんな空気を生み出したのも私だ。しかし今、逃げ出せるのならそうしたい。穴があったならば入って誰かに土をかぶせて欲しい。
 本当は、最初の言葉で留めておきたかったのだ。
 本当は、軽く流されていつも通りに戻りたかったのだ。
 本当は、本当は……――。
 今みたいな宙ぶらりんな関係なんてぶち壊して、白か黒かはっきりとした関係に変わりたかったのだ。
 好きな男が他の人に向ける視線に傷つくくらいなら、バッサリと切り捨てられて諦めてしまいたかった。
 すぐに割り切れるかと言われれば話は違うが、少なくとも気持ちに区切りをつけられる。振られてしまえば、そうなれると思っていた。のに。
「ちょっ、ちょっ、な、何その顔」
「いや、お前……いや……」
 珍しく狼狽えているリービットがなんだか少しおかしくて、笑ってしまう。そうしたら彼は呆れたように「あのなあ」と口にするのだ。
 一瞬だけ崩れた私たちの空気は、またいつものようなものに戻りつつあった。……でも、ダメだ。それが嫌だからこそ、私は一石を投じたのだ。ほんの少し波紋が生まれて、またすぐに元に戻るだなんて許されないし許さない。
「ねえリービット」
「……オレは、さ……なまえのこと、そういう風に見たことなくて」
「うん」
「……だからなんていうか……突然すぎないか?」
「は? じゃあ何? 今から告白しますよ! 心の準備して! とかいえばよかったわけ?」
「そうは言ってないだろ」
「じゃあ……」
 どういう事よ。震える唇で、なんとか言葉を紡ぎ出せば、彼は困ったように頭を掻いた。
 困らせてしまって申し訳のない気持ちと、今この瞬間だけは彼が私のものなのだという感慨深さが同時に訪れる。どうせ、振られることはわかっているのだ。
 だから、その時のために深く息を吸い込んで、吐いた。それがため息のように聞こえたのかもしれない。リービットは、申し訳なさそうにもう一度私を見てから口を開いた。
「その……なまえのことは大切な友人だと思ってるよ」
「うん」
「それと、あー……なまえは、シルキーのことを気にしてるみたいだけど、あいつはそういうのじゃなくて……」
「でも、一番でしょ?」
 どんな意味合いであれ、彼の中では彼が一番なのだ。私がそこに取って代わることなんてできない。できないのだ。
 でも、それでも、私は彼の中で一番ではないにせよ、大切な存在になりたい。友人ではなく、異性として、恋人として。
 なんて、望みすぎていることは理解している。それが、彼を悩ませる要因たることも想像できるし理解している。
「……今までと同じじゃ、嫌なの」
「じゃあ、ナマエはどうしたいんだ?」
「それを聞いちゃう? はー、リービットってば情緒のかけらも持ち合わせてないんだから」
 でも、そういうところも好きだから。だから、あとほんの少しだけ待ってあげてもいいかなって気持ちになる。どうせダメだとわかっているけど、彼が答えを導き出すまでの間は、きっと私が最優先事項になるのだから。
 しょうがないなあ。と私は笑う。本当は泣きたい。でも、即決しなかっただけでも喜ぶべきなのだ。なんせ彼にこんな言葉を投げるのは私が初めてではない。そのたび、彼は即座に断りの言葉を口にしていたのだ。
 だから……。
「いいよ、リービットが答えを出せるまで、待っててあげる」
 悩んでいる時点で、欠片の希望が残されているのだと思いたいから。
 終わりのその時まで、私はきっと、またいつも通りを演じるのだ。……いや、いつも通りではダメだ。どうせなら、うんと彼を困らせてから終わらせたいから。
「何もしないとは言ってないけどね」
 にたりと笑みを浮かべて一歩前へ出る。今までひたすら引いてきたのだ。押してダメなら引いてみて、引いてダメなら押してみよう。
 振り返ったら、彼はどんな顔をしているのだろうか。呆れているかな? 困ってるかな? それとも……。なんて、少しだけ期待してから私は振り返るのだ。