夢を見るなら甘い悪夢で

 紹介所の方で頼まれた仕事は、到底その場で仕上げられるほど優しい量ではなく、おまけに一回で持ち帰るには随分と量のあるものだった。
 よくもまあ、ここまで溜め込んだものだとお姉さんを恨みたくなるが、そうしたところでこの仕事の山は減るはずもない。二回分ければなんとかなりそうだと、なまえは溜息混じりに山の半分を都合よく用意されていた手提げに詰めて、虚ろな目で残りの半分を見やる。
 そんな折、丁度同じく仕事を頼まれていたヴァーディルが姿を現し、「女の子一人じゃ大変だろ?」なんて優しい声色で、運ぶのを手伝ってくれると申し出た。当然なまえは申し訳なく思いながらも、これ幸いとその親切心に寄りかかることにした。
 始まりは、それだった。

「わあ。ヴァーディルさん、ありがとうございます」
 すごく助かりました。と、足元に荷物を降ろして家の前で頭を下げるなまえに、ヴァーディルは笑って「これくらい、大した事ないよ」と言ってのける。
 いくら家がそう遠くないとはいえ、半分どころか三分の二を運んでくれた彼に感謝しないはずもなく、彼女はなんとかお礼をするべく声をかける。
「えっと、今からお時間って空いてます?」
「うん? そうだな……うん。暇だよ」
「もしよければ、家に上がっていってください。お茶くらいならすぐにお出しできるので」
 笑顔でそう口にするなまえに、ヴァーディルは数回、目を瞬かせる。それから「ううん……」と顎に手を当て、小さく唸る彼になまえは突然迷惑だっただろうかと眉を下げる。
「ご迷惑……でした?」
「いや、そういう事じゃないんだけど……」
 ヴァーディルも眉を下げて、困った様に笑う。言葉はどうにも歯切れが悪く、頭に浮かんでいる事を言うべきか否かを図っている様だった。
 それから、彼はまたすぐにいつもの調子に戻った様に肩を竦める。
「いつもそう?」
「えっ?」
「こうやって、手伝った人にご馳走したりとかさ」
 改めて聞かれればなまえも悩む。いつも誰かにこうやって物を運ぶことを手伝ってもらうわけではなく、手伝って貰えば何かしらのお礼はする。
 今回は丁度よく買ったばかりの紅茶とお茶請けに丁度いいクッキーの用意があり、故にこの誘いだったのだが。
 彼の言わんとすることがいまいちよくわからず、小首を傾げて彼を見上げる。そうしたらヴァーディルは、苦笑を浮かべて「ははは」と声をあげた。
「異性を簡単に家にあげちゃ、ダメだろう?」
「えっ? でも、ヴァーディルさんはこんな重いものをここまで運んできてくださいましたし……」
「オレが、悪いお兄さんだったらどうするんだい?」
 言いながら、二人の距離が物理的に縮まる。顎に手を添えられて、彼に目線を合わせる様に顔を上げられる。
 普段よりも近い距離にある綺麗な顔が、蒼い瞳が、彼女をじっと見つめている。
 彼のつけている香水の、甘い香りがほどちかいところで感じられる。
 いつもの親しみやすい雰囲気が一変、妖しいものに変わっていく。場の空気を塗り替えていく彼に対し、なまえは目を瞬かせながらその言葉を頭の中で反芻する。
 普段優しい彼が、彼の言うように悪いお兄さんであったのならばどうするのか。目と鼻の先にある美しいその顔に高鳴る胸は、頭は、それに対する答えをあっさりと弾きだしていた。
「えっと……都合よく弄ばれて、都合よく捨ててもらいます……?」
 語尾が上がり、問いに問いを返すような形で答えたなまえに、ヴァーディルは目を丸くした。
 まさか、そんな答えが返ってくるとは思いもよらなかったからだ。本当に、言葉の意味を理解しているのか疑わしくなり、反射的にそれを口にする。
「キミ、その言葉の意味わかってるのかな?」
「や、流石にわかりますって」
「あのさあ」
 ため息混じりに彼の口から出た声は、呆れと疲れを孕んでいた。自分の行動がバカらしく思えたのか、ヴァーディルはそっと近づいていた距離を先ほどと同じくらいのところまで戻すことにした。
 なまえも、まさか真剣に考えて出た言葉にそう返されるとは思いもよらず、目を瞬かせる。
 実際、ヴァーディルが相手ならば適当に弄ばれて、適当に捨てられることは彼女にとって一夜の夢にも似たものだった。自分が相手にされる事など無いに等しく、もしもを想定したらそれも悪く無いと思えたから、そう口にしたまでだ。
 ……どうやらそれは、彼のお気に召さなかったようだが。
 離れてしまった距離を残念に思う程度には、なまえは彼に惹かれていて、かと言って容易にその距離を縮めるほどの勇気はない。
 好意を寄せているかと問われれば、当然だと即答できるだろう。距離が詰められる流れであるならば喜び勇んでそうするだろう。
 ……今が、その時なのでは無いだろうか。
 彼から近づいて、離れたのと同じぶんだけ彼女が前に出る。少しだけ、何を言うべきかを考える。この距離で、憧れの人物が自分の前だけにいるこの状況で。
 女は度胸。今勇気を出さずして、いつ出すのだ。
「私、ヴァーディルさんが悪いお兄さんだったらいいなって思ってるんですけど」
 どうなんですか? そう問いかけるなまえの声。ややあってから、ようやく彼は口を開く。
 普段浮かべている柔和な笑みとは程遠い、毒を孕んでいるような笑みを浮かべて。
「キミは悪い子だね」
「悪いお兄さんには丁度いいですよね?」
「さて、どうだろう」
 細められた青色に引き寄せられるように、人知れず、二人の影が重なった。