――まったくもって厄介なものだ。
 女は様々な感情を吐き出すように、大きくため息をついた。
 初めてのことではないにせよ、胸に広がった感情を整理していけば、必ずと言っていいほど”厄介だ”という感想に行きついてしまう。
 考えることはただ一つ、運命的(だと少なくとも彼女は思っている)出会いを果たした男のことだった。
 俗にいう一目惚れである。対象が端正な顔立ちをしていればいるほど、必然、彼女のような人間は増えていく。
 いくら整っているとはいえ、顔だけしか知らない男に心奪われることなどないと思っていた彼女だったが、どうやらそれは間違いであると思い知ることとなった。
「マツバさん、どうしたらいいと思いますか?」
「……と言われても、ねえ」
 救いを求めるように、彼女は兄のような存在であるマツバへと問いかける。こんなことを話せる人間など限られているし、相手の性別などを気にしている余裕など持ち合わせていない。
 対するマツバは何度同じことを聞かれただろうかと苦笑しながら、彼は思いつめたように俯いているサツキを見た。
 毎度同じことを聞く割に、なかなか彼女の求めている言葉は出てこないようだ。
 彼は「告白してみればいいんじゃない?」と最初に進言したが、「そんなことできるわけがないじゃないですか」と力なく否定されてしまったことを思い出す。
「ぼくに聞いて何か参考になるの?」
「考えがまとまります」
「なるほど」
 穏やかに微笑む男に、ひとまずは呆れられていないとサツキはひっそりと胸をなでおろす。というのも、彼以外の異性の相談者であるハヤトやミナキは早々に話を聞くことすらも放棄してしまったのだ。聞く相手を間違えている感は否めないが近しい友人、しかも内容が内容だけに話せる存在はそう多くない。
 同性の友人にももちろん相談はしていた。アカネやミカンは親身になって聞いてくれるし考えてもくれるがやはり答えを導き出すには少々幼く、年上であるカスミにはからかわれて終わった。
 楽しげに笑うカスミの姿を思い出し、サツキの心はどんよりと重みを増す。分不相応な感情であるということはわかっているのだ。何と言っても相手が悪い。
 ……カントー最強のジムリーダーは格が違う。
 なんで思うと他の面々に大変失礼なのはわかっているのだが、そう言いたくなるくらいには彼女にとって、雲の上の存在だった。まさかそんな相手に恋をする日が来るなどと、誰が予想できたのだろうか。少なくとも普段の彼女であれば、ありえないと笑って流すような出来事だ。
 整った顔立ち。フェミニスト。それでいてバトルは強い。社交的で人望が厚く、面倒見がいい。などなど、挙げていけばきりがないほどに長所が出てくる。
 例えば、アイドルのような存在に惹かれこそすれ、本気で恋に落ちる人間が極一部であるようなものだ。そんな極一部の人間になってしまったという絶望が彼女へと襲いかかる。
「聞くたびに思うけど、まさかサツキが一目惚れとはね。おまけに相手が彼だとは」
「言わないでください。私だってその現実、受け止めきれてないんですよ」
 深いため息とともに吐き出された言葉は、どこか悲壮感を漂わせていた。
 ただのファンならば、そういう気持ちで好きになれていたのならばまだ簡単だ。他の女の子たちと一緒になって、きゃあきゃあ黄色い声を上げているだけで満たされる。
 しかし悲しいかな、サツキは恋に落ちてしまった。望みのない相手に、燃えるような感情を抱いてしまった。それがある意味不幸の始まりだ。
 グイグイと押して行けるほどの気概もなく、ただただひたすらに想いを募らせることしかできない日々。自らが動き出さねば何も変わらないとわかっていながらも、彼女にはそれができない。
「ねえ、マツバさん。どうしよう……」
 うかがい見るように目の前の男を見上げれば、彼はやれやれといった風に肩を竦めた。
 彼――グリーンとの出会いはなんの変哲も無いものだった。いつだって、どこだって、当たり前に起こるような、出会いとすらいうのも烏滸がましいような、そんな出来事だ。

 サツキはコガネ百貨店でアルバイトに勤しむ学生だ。ポケモンブリーダーになるべく勉強をする傍ら、最低限の生活費を稼ぐために始めたバイトだが、その忙しさにどちらがメインかわからなくなる時がある。
 とはいえ無茶なシフトを組むことはなく、それなりに両立はできている。はずだ。あくまでも、本人にとってはで、他がそう思っているかは別である。
 閑話休題。話は彼女が勤務している時のことである。サツキが淡々と――表面上は笑顔で――レジをこなしていた時のことだ。見慣れぬ顔立ちの整った男が客としてやってきた。ただそれだけだ。
 別段珍しいことではない。黄金の百貨店ならば有名人だって御用達だし、立場上、はしゃいで浮き足立つようなことはない。そもそも顔立ちが整っている人物は単なる目の保養として普段通りを貫くのみだ。あとでこっそり1人で思い返して「ああ、かっこよかったな」と頬を緩ませるだけ。彼も、そうなるはずだった。
 ボールときずぐすりを数点台に置いた彼が、顔を上げる。そうすればジロジロと見ていたわけではないが、サツキと目が合う。その瞬間、彼女の耳の奥深くでばちりと何かが爆ぜたような音が聞こえた。
 例えるならば思考回路。目があっただけで頭が真っ白になるなんてこと、彼女にとっては初めての出来事だった。いや、おおよその人間が体験することはごく稀ではないだろうか。
 一瞬の停止。目の前の男が不審に思う暇もなく、彼女は笑顔を取り繕って――半ば意識が飛んだまま――無事、接客を終えることができた。
 それから数分の記憶はなく、覚えているのは鮮やかなオレンジの髪とふわりと漂う甘い香り、それから彼の後ろ姿だけだった。
「ちょっと、今のグリーンさんじゃない? やったじゃん! あの人がここに来るの、割とレアだよ!」
「えっ? あ……え?」
 先ほどまで隣のレジで同じく業務に勤しんでいた一つ上の先輩が、弾んだ声でサツキに声をかける。グリーンという人物の名は聞いていたが、テレビも見なければ新聞も、雑誌も縁遠いサツキはただ、現状を飲み込むのに必死であった。
 何よりも、頭の中で響いたあの音が気になって仕方がない。どこか上の空なサツキなど御構い無しに、彼女は「あー。グリーンさんが来るなら、今日そっちのレジにいればよかった〜」などとぼやいている。しかしそれに答える余裕など、彼女にはありもしなかった。
 頭をフル回転させれば、先ほどの様子がありありと思い出される。どこか上の空で口にした「ありがとうございました」というおきまりの言葉に、グリーンは爽やかな笑みをもって「ありがとう」と返したのだ。
 そこまで考えて、遅れてきたかのようにぶわりと熱が全身を包む。
「サツキちゃん、どうしたの?」
「やっ、あのっ……な、んでもない……ですっ!」
「顔、赤くない?」
「きょっ、今日は暑いですね!」
 あまりにも下手くそな誤魔化しは、それ故にうまくいった。そう? と首をひねる先輩は、サツキの変化には気づいていない。
 これを恋だというのならば、それまでに落ちてきたものはなんだったのかと思うほどに、目があった瞬間、鮮やかに世界が切り替わった。
 紅に金色を織り交ぜたような、秋に染まる木々のような、美しい色彩が頭から離れない。ふわりと香るムスクの甘さ、鼓膜を揺らす低音は、まるで春の木漏れ日を思わせるような優しい色をしていた。
「ちっ、ちがう! そうじゃない!」
「えっ? 何?」
「ナンデモナイデス」
 彼の姿を思い出して頭を振ったサツキに、先輩の視線が容赦なく突き刺さる。あはは。と乾いた笑いを浮かべつつ、彼女はまた、業務へと戻るのであった。

 ――とまあ、そういったことがあったのがほんの二週間ほど前である。一目惚れなど、一時の感情にすぎないだろうとタカをくくってはいるものの、サツキは未だ、彼のことを考えてはため息をつく。
「はあ……グリーンさんに会いたいな……」
 意図せず溢れたその言葉は、当然目の前にいたマツバにも届いていた。しかしそれを機にするほどの余裕が、彼女にはない。
 なんせ、出会いを思い返せば思い返すほど、立場の違いを思い知らされる。
 片や超有名なジムリーダー(先輩曰く相当数のファンがいるらしい)、片や百貨店のアルバイトをしている学生。単なるファンでいられるようならそうしたいのだが、自らの心の盛り上がりからしてそれは難しいとサツキは肩を落とした。
 そもそも、サツキは彼を認識しているが、グリーンは彼女を知らない。有名人に焦がれるということは、そういうことである。
「はあ……」
 深いため息が再び彼女の口からこぼれ落ちる。見かねたマツバが「ねえ」と声をかけた。
 まるで悪戯を思いついた子供のように、彼は片目を瞑って一つの提案を口にする。
「近々カントーの方で所用があるんだけど、手伝ってくれないかな?」
 幼少期から妹のように可愛がっていたサツキが、グリーンに会いたいからという理由だけで遠出をするとは考えられなかった。
 手伝いなんて必要のないほんの些細な用事ではあったが、口実が欲しいだけの彼女にはもってこいだろう。もちろん、言ったからにはきちんと手伝いはしてもらうが。
 そんな彼の言葉にサツキは目を輝かせ、勢いよく彼の手を両手で握る。彼女の答えなんて、考えるまでもなく決まりきっている。
「いく」
 二つ返事に同行を決めた彼女は、マツバと話しながらバイトの日程の調整を始めるのであった。