大きなため息から始まるのはあまり良くないとわかっている。しかし、ため息をつかざるを得ない。異性が苦手なのはわかっているし、目があったら逸らされたという話は聞いたことがあったが、まさかあそこまで勢いよく逸らされるとは思ってもみなかった。
 音でもしそうな勢いで、あの端正な顔が逸らされるのはやはり少し胸が痛い。
「私、何かしたのかなって思ったんだよ」
「……いや、なんていうか……ごめん」
 二年生に上がって、教室が変わって、2人の話す場所は別棟へと向かう廊下だ。人通りの少ないそこで、廊下で壁にもたれかかる彼と、外の方で壁にもたれかかってしゃがむ私はポツリポツリと言葉を交わす。
 いつここに来るかという相談などはしたことがない。ただ、一度私がここで物を落としてしまって、1人で探してる時に声をかけられたのだ。……といっても、相変わらず顔を合わせての会話ではないが。
 さわさわと風が心地よい。目を閉じれば夏がすぐそばまでやってきているのを感じる。
 柔らかな風が髪を攫うのを整えながら口を尖らせる。
「辻くんって……」
「あれー? 辻ちゃんじゃん」
「犬飼先輩」
「えっ!? 犬飼先輩!?」
 不意に聞こえてきた声に思わず立ち上がって振り返る。その勢いに驚いたように顔を背けて少しだけ距離をとった。つ、辻くん……それはやっぱり傷つく……。
 しかし名前を呼ばれた犬飼先輩は何か面白いものを見るように私と辻くんを交互に見る。
「えっ? 何この状況。なーんか面白そうな気配がするなあ」
「面白くないです。それでは」
 いうなり辻くんは犬飼先輩に頭を下げて教室の方へと向かってしまった。
 せっかくの時間が台無しにされて、私は半ば睨みつけるように犬飼先輩を見る。同じ中学の、少しだけ親しくしてもらっている先輩だ。多少の無礼は軽く流してくれる彼は、現在私をお気に入りのおもちゃのごとく扱っている。
 ……気に入られているんだと思う。たぶん。きっと。
「なんだよ、割と進展してんじゃん。報告しろよ」
「進展も何も、たまに話すくらいなんですけど」
「あのな、辻ちゃん相手ならそりゃとてつもない大進歩なんだよ」
 わかってねーな。と言わんばかりに笑う先輩は、辻くんのことをよくわかっているらしい。本人談だから怪しいところではあるが、彼は辻くんとチームメイト? とのことで、その信憑性は高いように思える。
 その話を聞いて、以前から少しだけ相談させてもらっていた。男の人に恋愛相談なんてなんとも言えない思いはあるが、藁をも掴む気持ちで彼に縋ることしかできない。
 ストーカーのように一方的に好きなものを聞いたり、ボーダーでの様子を聞いたりしているが、先輩はいつも笑って応えてくれるから感謝してもしきれない。……まあ、煩いってくらいにからかってはくるのだけど。
「でも先輩。もしかしなくても私女子だと思われてないのでは?」
「またぶっ飛んだなー。ちなみに、なんで?」
「壁越しではあるものの会話が成立するからですよ!」
「むしろ壁がないと会話できないんだからそれはないだろ。ていうかどういう心配だよ」
 そう言ってお腹を抱えて笑う先輩は大変に失礼だと思う。私にとっては大問題なのだ。決して笑い事なんかではない。
 仮にこのまま仲良くなったとして、それで恋愛対象外でした。なんてことになってはたまったものではない。
 万に一つの可能性もないけれど、わかっているんだけど、もしも、もっと仲良くなっていざ告白……なんてタイミングが来た時に大惨事は避けたいのだ。
「そんなに心配することかねえ?」
「先輩はおモテになるのでわからないのでは? 好きな子できても余裕で付き合えそう」
「ハハッ……そうだといいけどな」
「えっ!? どうしたんですか!? 急に弱気!?」
 予想外の言葉に思わず敬語も忘れてしまう勢いで彼を食い入るように見てしまう。とても失礼なことをしているとわかっているのだが、しかし理解が追いつかないのだ。
 すごくモテる先輩ですら、恋愛に関してはいつもの様子がどこかへといってしまうのだ。一般市民……むしろそれ以下の可能性すらある私には、やはり縁のないものなのではないだろうか。
「先輩、好きな人いるんですか?」
「さあ、どうだろうね」
「うわ、意味深……」
「なまえはそんなことより、辻ちゃんとどう仲良くなるかの方が大事じゃないわけ?」
「いや、大事なんですけど……確かにそれ大事なんですけど……! なんかもうこれ以上を求めるとバチが当たるのでは?」
 言えば先輩は「何言ってんだこいつ」と言いたげな目でこちらを見る。声に出さない分優しいと思えるほど私は出来た人間ではない。
 でもやっぱり、私なんかと辻くんが話してくれるということは奇跡に等しい。神様ありがとう。その分、周りに知られたら私が終了のお知らせだ。恐ろしくて誰にも話せない。
 先輩も、辻くんとチームメイトでなければこんな話しなかった。……いや、チームメイトである先輩に暴露しているのはむしろやばい気がする。犬飼先輩じゃなかったらと思うと背筋が冷える。
「なまえ、辻ちゃんと付き合いたいんだろ?」
「つっ、き……あいた、い、というか……付き合えたら、いい、なー……みたい、な?」
「ああもう」
 自らの頭をガシガシと掻いたかと思うと、先輩は私の頭をポンポンと優しく撫でて「ま、頑張れよ」と言ってくれた。こういうことを自然としてくるからこの先輩はすごい。しかも不快感がまるでない。
 ありがとうございます。そう言おうとした私の言葉はチャイムの音によってかき消されてしまった。ヤバい。授業が始まってしまう。
「あっ! せっ、先輩! ありがとうございました!」
 彼の返事を聞く間も無く、私は慌てて頭を下げて教室へ戻る。残念ながらこの場所は、人気がないかわりにに教室から遠い。
 先輩は大丈夫なのか。ちらりと振り返ってみれば犬飼先輩は笑って手を振ってくれた。ま、マジか。遅刻するのかサボるのかはわからないが、どうやら急ぐ気は無いらしい。
 少しだけ、急いでいる自分がバカバカしくなったけれども努力の甲斐あって本鈴前には教室へと滑り込むことができた。
 教室へと入った瞬間、視線が集中したのは気にしないように努めたい。