両親に手を引かれて門を抜けると、大きな噴水とそれを取り囲むように植えられた色とりどりの花が目を引いた。その奥には煉瓦造りの巨大な建物が聳え立っており、外観だけなら西洋の宮殿そのものだ。

「でっかい」
「本当だね……」

 圧倒されたように呟く父とは対照的に母は「迷子にならないようにね」と私の右手を強く握り直す。

 ────私の中にある、最も古い記憶だ。

「名前〜、朝だよ〜。名前ちゃ〜ん」

 私の名前を呼ぶ声と部屋のドアをノックする音に目を覚ます。
 欠伸をしつつ枕元に置いてあるスマホを確認すると、本来起きる予定だった時間を20分も過ぎている。アラームは正確に起動していたらしいが、全く気付かなかった。不思議だ。
 ベッドから這い出てドアを開けるとバターとメープルシロップの匂いが鼻を掠めた。
 寝癖でもついていたのだろうか、父が困ったように笑いながら私の髪を撫でる。

「おはよう。今日もお寝坊さんだね」
「まだ焦る時間じゃないよ」
「はいはい。ご飯できてるよ」
「うぃ」

 父に続いて階段を下りる。
 ダイニングテーブルの私の席にはワッフルが乗った白い皿とオレンジジュースで満たされたグラスが置かれていた。その向かいの席には綺麗に空になった皿と同じく空のコーヒーカップが残されている。

「お母さんもう出たの?」
「繁忙期なんだって」
「大変だね」

 自席に座りながらオレンジジュースを一口。寝起きの渇き切った体にビタミンCが沁み渡る。気がする。

「ちゃんといただきますして」
「いただいてます」
「全くもう」

 私の返事に不服そうな父がティーポットと砂時計をテーブルに置いて、斜め向かいの席についた。

「そいえばさあ、今日めちゃくちゃ昔の夢見たわ」
「……へえ、普通の夢? 珍しいね」
「ん、初等部に入る時の」
「わあ、懐かしいなあ。そっか、もう十年くらい経つんだもんね……名前も大きくなったなあ」
「それたまに会う親戚が言うヤツ」
「ふふ、まあ、予知夢じゃないなら良かったよ」

 予知夢。言わずもがな私の“個性”だ。
 事件・事故・怪我など、未来で我が身に降り掛かる危険を予め夢で見ておくことができる。自分の意思で発動はできない。私が寝ている間に“個性”が勝手に夢を見せてくる感じだ。
 ちなみに予知できるのは悪い事だけなので、予知夢を見た後の寝覚めはいつも最悪だ。

 食事と身支度を終えて、父に見送られながら家を出る。
 自宅の最寄駅から電車に乗って三駅目、杠女学院前と名の付いた駅で降りて改札を抜ければ学校はもう目の前だ。校門前の車道にはいかにもな高級車が列をなしている。
 学生証を翳してセキュリティゲートを抜け、中等部の校舎へ向かう。桜が散っていた。


 * * *


「迷ってらっしゃるの?」
「まぁねぇ」

 帰りのHR後、白紙の進路希望調査票を机に出したままぼんやりしていた私に隣席の友人が声をかけてきた。

「私てっきり名前さんは内部進学するものかと……もう既に行きたい高校があるとか?」
「んや全然。でも今まではギリ何とかなってたっぽいけど高等部の学費はさすがにヤバい気がするんだよねぇ」

 私立杠女学院。百年以上の歴史を誇る伝統ある女子校だ。
 幼稚園から大学院までエスカレーター式なこともあり、高等部まではそのまま内部進学する生徒が大半である。
 企業経営者や政治家、各士師業の親を持つ生徒が集まるせいか、世間からはお嬢様校として認識されている。現にいま私と話している彼女も医者一家の生まれだ。

「名前さんのご家庭はお母様が働いていらっしゃいましたよね。確か公務員とか」
「そーそ。よく覚えてんね」
「あまりお金に困っているようには見えませんけど……」
「ま、私が中等部に上がってからはお父さんもパート始めたし、そこまでカツカツじゃないだろうけどさ」
 
「繁忙期なんだって」
 

 思い出すのは今朝の父との会話だ。
 今が繁忙期というのは嘘ではないだろうが、年間を通して振り返ってみても以前と比べて母の労働時間が増えているのは明らかだった。おそらく母は意図的に引き受ける仕事の量を増やしている。
 母はしっかりした人なので過労死するほど働き過ぎるということは無いと思うけど……

「しなくていい苦労ならしない方がいいよね」

 そう独りごちる私に友人は暫しきょとんとした顔で首を傾げていたが、にわかにわくわくした顔で迫ってきた。

「行きたい学校が決まっていないなら、なりたい職業から決めましょう!」
「え、なに急に」
「名前さんの進路の話? なら私も混ざりたいわ」
「私も私も!」

 隣席の彼女が声のボリュームを上げたせいか、まだ教室に残っていた生徒がわらわらと集まってきてしまった。

「外部を受けるならやっぱりヒーロー科のある学校ではなくて?」
「確かに。うちの高等部には無いですものね、ヒーロー科」
「そういえば、名前さんの個性と似た個性のプロヒーローがいなかったかしら」
「ナイトアイ様! 大ファンなんです私!」
「誠実そうで素敵よね。それに、あのオールマイトのサイドキックだったんでしょう?」

 友人達は一頻りきゃいきゃいとヒーロー談議に花を咲かせた後、一斉に期待に満ちた顔で私の方を見た。

「いやそんな『ヒーローどうですか?』みたいな顔されてもさあ……。逆に聞くけど私が身を挺して誰かを助けるように見える?」

 ノータイムで「全く!」という返答が綺麗に重なった。しかも全員清々しいほどの笑顔だ。

「わかってんじゃん」
「具体的な職種までいかなくても、興味のある分野とかは無いんですか?」
「無い……というか将来について真剣に考える度労働自体が嫌だなという結論に至ってしまって毎回そこで考えるのやめちゃう」
「ああ……」
「ゴミを見る目やめてよ。てかなんでみんなそんなウキウキで私の人生コーディネートしようとしてくんの」

 先程まで呆れ返っていた友人達はお互いの顔を見合わせると少し寂しそうに笑った。

「私達は親の仕事を継ぐことが決まっておりますから」
「そこに不満はないけれど……でも当然のように選択の自由を持っている名前さんのことが、少し羨ましいのですわ」
「だから適当に決めたらもったいないと思って。でも、外野が口を出しすぎたかもしれないわね」
「それに『もしも自分だったら』って考えたら楽しくなってしまって……ごめんなさい」

 すっかりしおらしくなってしまった友人達に、私はかぶりを振った。

「んーん、私は特にやりたい事もないから道が決まってるみんなの方が羨ましいけど……お互い無い物ねだりだね」

 そう言いながら、まっさらの進路希望調査票に視線を落とす。

「……やりたい事がないなら、できる事から攻めるのが定石ではなくて?」

 私は目を瞬いた。

「百理あるわ。それにさっきみんなの話聞いて気付いたけど、私も親の仕事参考にできるかも」
「公務員を目指されるの?」
「や、父親の方。お父さん私が産まれる前は探偵事務所で働いてたらしいんだよね」
「まあ! ホームズみたいで素敵!」
「雇われだからどっちかっていうとワトソン君だけど。それに実際の仕事は素行調査とか浮気調査とか、地道な肉体労働だったって」
「ふふ、名前さんに肉体労働は向いていないのでは?」

 冗談めかして笑う友人に私もふふんと笑ってみせる。

「わかってんじゃん」
「何かビジョンがお有りなのね?」
「おかげさまで。……上手くいくかはわかんないけど」
「名前さんならきっと大丈夫ですわ。それに、もし失敗してもうちの会社で雇って差し上げますわ!」
「それは頼もしすぎ」

 夕日の差込む教室を春先の暖かい空気が包んでいた。