海鳥、空を行く。


目の前で器用にくるくる回る彼を呆然と見つめる。時々なぜこの人と私が付き合っているのかわからなくなる。今思えばどこで出会ったのかもちゃんとは思い出せない。確か友人からの紹介だったような気もする。高校時代の友人に半ば無理矢理引きずられていった飲み会だったっけ。うん、そんな感じだ。そこまで曖昧になるほど昔の話だ。
久しぶりの休日に崇裕が私を誘って連れてきたのは小さな体育館のようなレッスン場だった。そこで彼は長い四肢を好き放題振り回して空を飛ぶようにぴょんぴょん動いている。私と同い年なのに、一体どこにそんな体力があるのかと不思議で仕方ない。まぁ野生児って言ってたからきっと天性のものなのだろう。私はというとそんな彼をスタジオの片隅で見ている。「どこに行きたい?」という問いに「どこでも」と答えたからなんだけど…まるで画面の向こうの話のようだ。今や画面の向こうの人ではあるわけだけど。

「まぁ、こんなもんか」
「終わった?」

一度空中でくるっと回った彼はふーと息を吐いて、こちらに歩み寄って来た。あんまり汗をかいているようには見えない。差し出そうとしたタオルはなんとなく気まずくてカバンにしまってしまう。

「悪い、つまらんかったやろ?」
「んー別に?」

つまらないわけではないと思う。事実最後までここにいたわけだし、アクロバットを難なくこなす姿はやっぱりかっこいいとは思うし。

「どこかで使うの?」
「おん。今度のライブで」
「そっか。すごいね」

ライブという言葉がなんだか他人事のようで笑える。私は特にアイドルに興味があるわけじゃないし、彼氏がアイドルだからってそのグループを応援してるわけでもないし、たまたま見たテレビに写っているとやっぱり少しびっくりするけど、基本的に崇裕が芸能人という認識が私には足りないのだ。だから未だに往来でデートができないのも、家を行き来することにも注意が必要なのも慣れない。だって誰も私なんて見ないじゃないかって、そう思うけれど彼の曖昧に笑った顔が記憶の奥底に残っているから文句はもう言わないって決めている。心で思うだけでそっと留めておいて、もしかして顔に出てるかもしれないけれど、そればかりは無自覚だから私にもどうしようもない。

「休日の過ごし方と言ったら釣りかこれしか思い浮かばんくって」
「釣りでも全然いいのに…」

とは言ってみるものの、彼は私を釣りに連れて行くことをためらう。釣れなくたって一緒にいるだけで充分なのに。崇裕はそういう乙女心に疎い。
また曖昧に微笑んだ彼は私の頭をポンポンと二度撫で、雑に放ってある上着を手にとるとそれを羽織り颯爽と踵を返す。突拍子もなく動き始める彼に、私はすぐついていけなくなる。
崇裕はわかりやすい愛情表現をしてくれない。きっと「好きか」と問えば「好きだ」と答えてくれるが、それを自主的に言う事は無い。だから一層不安になるのだ。
帽子を被って眼鏡をかけた彼の後ろをとぼとぼとついていく。どこに行くのだろう。花柄のかわいいワンピースなんて着て、浮かれた気持ちがにじみ出てるみたいで恥ずかしい。いつも適当なメイクに一時間もかけて、髪だって巻いて、なんだか私ばかりが好きみたいだ。
好きな気持ちには変わらない。出会った頃から変わらないそのおおらかなところが好きだ、少しブサイクに笑うところも人柄が出ているようで好きだ。先ほどのように軽々とアクロバットをこなす姿もかっこいいし、優しく私を呼ぶ声も愛おしい。だから余計辛くなる。

彼の背について、気付いたら電車に乗っていた。休日のこの時間は人が少ない。ちょうど二つ空いたシートに腰掛けて、彼を見上げる。どこに行くのって聞ければいいのに、なんだか不安ばかりが先走って私はそっと唇を噤むのだ。
まともな会話はない。電車はどんどん都心から離れて行き、その度に人が少なくなって行く。降りる駅も分からず、ひたすら車内の広告に目を走らせた。ニューシングル発売…だって。またここにも彼がいる。隣にいるのに、と彼の長い指に自分の掌を重ねようとしてやめた。そんな学生のようなこと、今年で30になる私たちには相応しくない。

しばらくそんな葛藤をしていると、「着いた」と彼が呟くものだから立ち上がる。開く方のドアの前で肩を並べて、速度を落とす電車の揺れを感じながら、その時を待つ。
ポーンという音を聞いてドアが開き、迷いなく降りる彼の背中を追いかける。どうやら他にこの駅で降りる人はいないらしい。ここはどこだと駅名を確認する前に、崇裕はずんずん進んで行ってしまうから慌てて着いて行く。

「最近気分転換してへんなーって思っとって」
「うん」
「それにお付き合いいただこうかな、と」
「ん」

前をぶらぶらと揺れる彼の掌を見つめる。いきなり繋いだらダメかな。子供っぽいかな。なんだか、私いっぱい我慢してる。らしくない。でも、こんな苦しい恋をするぐらいなら私は。

「あの、崇裕−−」


「ん?」


顔を上げた私の目に真っ先に飛び込んだのは夕日によって赤く染まった海だった。太陽に照らされて紅白に染まるその幻想的な光景につい言葉を失う。言うべき言葉が、見つからない。ざざーと波の打ち付ける音はいたって穏やかで、なんだか彼のようだと思った。海鳥の影が飛んでいる。潮の香りはどこか懐かしさすらあった。

「どうしたん、あ、足元気をつけてな」

ブーツで砂浜に入ると足がとられる。彼は当たり前のように私の手を取った。「転びそうになったら抱きついてくれてもええんやで」真面目な顔でそんな冗談を言うのは少しずるい。

「いやー。釣りでくるのもええんやけど、こうやって名前とくるのもええなぁ。夏やと人多いし、ちょっと躊躇うけど、これぐらいの時期やと気温もええ感じやし、今日なんか特にめっちゃ晴れとるし……って、名前?」

私ばかり好きだと思っていたのが馬鹿みたいだ。海のように大きな彼の愛に包まれているような気がして自分がひたすらに情けなく感じた。感じていた不安は全て涙となり砂浜に落ちて行く。必死にこらえようと下唇を噛んでも、止まる気がしない。

「はっはっは!何泣いてんの」

崇裕はなにが面白いのかケラケラと笑い飛ばして私の手を引く。なんでもないなんて、きっと嘘で、だから私は喉にまで登っていた言葉を吐き出す。

「別れよう…?」
「えー?嫌やわ」
「どうして…?」
「だって、俺名前の事好きやもん」
「っ………!」

またぼろぼろ涙を零すと彼は「アホやなぁ」と呟いて握る手に力を込める。全部嘘だってバレてる。私の決心はたかがしれていたんだって思い知った。

「私も…崇裕がすき…」
「うん。知ってる」
「私は、何も知らなかったのに、ね?」
「ええやん別に。まだまだ先は長いで?ゆっくり知っていけばええやん」

きっとそんな言葉は何年も前に誓っておくべきだったのに、私たちはお互いに不器用だからこんな時になってやっと気付いたんだね。「ごめん」と謝る私に「大好きの方が嬉しいなぁ」と君が笑うから、「愛してる」と呟けば「それはずるいわ」と唇を尖らせた。