幸福の便り


なんだか疲れたなぁと夜空を見上げる。毎日身を削って働いて、ニコニコ笑顔を作って、先輩の機嫌を伺って、些細なミスでこっ酷く叱られて、夜遅くまで残業してお客様の為お客様の為って、いつから私は自分を捨ててしまったのだろうか。溢れそうになる涙をぐっとこらえて速度を上げる。働きたくないと思うのと同時に、働かなければいけないと自分に言い聞かせる私もいて心はもうズタボロだった。早くこれを受け入れられる大人になりたい。辛く感じるぐらいなら本当にただの歯車になってしまえたら楽なのに。私は未だに現実に駄々をこねる子供だ。本当は助けてとすがりつきたくて仕方がない。だけれど現実から逃げることを選ぶほどの勇気もなく、結局愚痴だけこぼして空気を汚している。

「最低…」

とひとりごちると、こらえていた涙がポロポロと溢れ始める。街行く人には見られたく無くて顔を伏せたまま歩き続けた。目元を拭うと化粧が取れてしまうから、何もできずに下にこぼれていくのを眺める。なんだか涙ですら他人事だ。
そんなふうに考えていると手にしていた携帯が震えていることに気がつく。誰だろうと特に確認もせずに応答ボタンを押して耳に近づけると、舌足らずで優しい声が聞こえてくる。

『あー、よかったぁ。繋がったぁ』

それは私の彼氏である濱田崇裕さんの声で、忙しい彼からの突然の連絡に「どうして?」と声が漏れる。デビューからもう四年、ドラマやバラエティで毎日のように彼らを見ているものだから不思議で仕方がない。

一般人の私と彼は、兄の同級生で友人である桐山照史くんの紹介で知り合った。照史くんは私の抱え込みやすい性格をしっかりとわかってくれていて、きっとそれを楽にできるように濱田さんを紹介してくださったのだろうけれど、私はそのご好意に甘えて気づけば親密な関係になっていた。照史くんがアイドルだって事は以前から知っていたのだけれど、濱田さんもアイドルということは知らなくて、照史くんと一緒にテレビに出ているのを見たときはもうすでに付き合っていたし、すごく驚いた記憶がある。「え?知らなかったん?」と彼の家で夕食を口にしていた時に、特に気に留めた様子もなくあっけらかんとそう笑われたことは忘れようにも忘れられない思い出だ。

『いやぁ、あのさ?そろそろやんなぁって思って』
「なにが…です?」
『んー、なんとなくー』

彼は曖昧に笑って私の質問をかわしてしまう。でも私にはわかっていた、彼は私がどのタイミングで折れそうになるのかをしっかりわかってくれているから、こうやって仕事の合間を縫って私に時間を割いてくれるのだと。

「ありがとう、ございます」
『んー、いーえ。今どこ?迎えに行こか?』
「………職場の最寄りのバス停目指してます」
『はーい』

彼に甘えてしまう自分に少し嫌気がさしながらも、そんな私になに一つ文句を言わない彼がいかに大人かを実感する。実際の年の差よりうんと離れて感じてしまってもっと泣きそうだった。

バス停のベンチに腰掛けてわざわざ停車してくださるバスを何台も見送る。スーツの人を見ると安心してしまう。私だけじゃないんだって、ただの自己満足だ。

「おまたせ」

しばらく携帯をいじっていると、そこに影がかかるものだから慌てて携帯を鞄にしまい込み、顔を上げる。そこには普段と変わらず穏やかな表情の濱田さんが立っていた。なんだかそれだけのなのに溢れ出して止まらなくて、グズグズ泣き出す私の頭を優しく撫でてくれる。泣いてる私は大嫌い。一人でも生きれるようになれよって強く思う。でも優しく撫でてくれる濱田さんは大好き。

泣き続ける私をなだめながら抱え上げた彼はバス停に停車する車の助手席まで運んでくれる。なんだか彼の車の中はぬくもりが宿っていて落ち着く。

「帰る?」
「かえる…」
「ん。でも俺ん家やで」
「いえにかえる…だいじょうぶ」
「大丈夫やないよ。放っとけへんって」
「うぅ…っ」

優しい言葉をかけられるともっと苦しくなった。嗚咽を漏らし始める私に彼は「大丈夫大丈夫」と唱える。大丈夫じゃないよって言いたいのに、彼のその言葉を聞いていると大丈夫な気がしてくるのだから不思議だ。ゆっくりと車は動き出し、私を乗せるはずだったバスの光がサイドミラーに映り込む。

「ええから、俺に預けて?俺を頼って?」
「頼ってばっか…よわい、きらわれたくないもん…」
「弱いってなんやねん。こんなん強いも弱いもあらへんよ。それに男は頼られてなんぼやねん。嫌いになるわけないやろ?」

大丈夫や、また繰り返し言って彼はアクセルを踏み込む。必死に涙を拭って彼の方を見ると、いつも通りの彼がいて少し安心した。

「ごめんなさい…私…、泣いてばっかりで…」

ゆっくりと息を吐き出して呼吸を整える。泣くとつい愚痴っぽい口調になってしまうのが嫌だった。彼は赤信号をちらりと確認してブレーキを踏む。

「ええよ、名前は抱えたらあかん。いっぱいちゃんと泣いた方がええよ。辛かったら逃げてもいい。無理して自分を殺すのがいっちばんあかんねん」
「でも私…頑張らないと…」
「また悪い癖や」

こちらを向いて微笑んだ彼にどきりとする。全て見透かされてる。私が今どれだけ自分を殺しながら話してるかも全部、バレバレだ。

「そんな苦しむなら仕事やめたらええよ」
「ダメですよ…働かないと…!暮らしていけないですし…」
「そんなん俺がいっぱい頑張って稼げばいい話やん」
「え…」

彼の言葉を聞き返そうとした瞬間車が動き出す。じっとそちらを見つめると、濱田さんはふへへと笑い出した。変な笑い方なのにそれと同じだけ彼の暖かさが滲み出してる。

「なんでそんなに見つめるん、もー。照れてまうわ」
「いや、だって!ど、どういうことか気になってしまって…!!」

あまりにも驚いて涙だって引っ込んでしまった。彼は一度こちらをちらりと見て「あんな」と薄い唇を開く。

「もうその敬語やめよ。濱田さんって呼ぶのもやめよ。別々の家に帰るのもやめよ。我慢するのもやめよ。俺がちゃんと名前の居場所になるから、名前は俺の帰る場所になってほしい」
「それって…」

そ、と彼は目元をへにゃりと優しく緩めた。今度は幸せの涙が溢れて止まらない。


「俺と、結婚してほしい…ってことやねんけど………、ふへへ…泣きすぎ」
「だってぇ……っ」

こんなの泣くなって方が無理だ。また赤信号。彼はブレーキを踏むと私の目元を拭った。「笑ってや」と頬を紅潮させる彼に首を振ることしかできない。私をお嫁さんにしてくれるその唯一無二の男性は、「困ったなぁ」と苦笑して私をぎゅっと抱きしめてくれた。

これからはこの温もりがずっとそばにいてくれるんだ、そう思うとたまらなくなる。この先辛いこと、苦しいこといっぱいあると思うけれども、それでも私は彼の隣に立っていたい。