第二話
心地のいい風が肌を通り抜けていく。ゆったりと瞼を上げれば、ルーティの視界一面に大空が広がっていた。不規則に伝わる慣れ親しんだ揺れは、絨毯に乗っている証だ。視界を変えると、退屈そうに欠伸をするジュダル。その奥に日差しを遮る傘が見え、横抱きにされたままのルーティは少しずつ記憶が戻り始めた。
煌帝国第八皇女である紅玉が、バルバッドの皇子と結婚する。その関係で神官であるジュダルと共に、神官補佐として煌帝国に身を置くルーティはここにいた。補佐とは名ばかりで、それらしいことをした覚えはない。ジュダルが、彼女を側に置く為に作った建前というものであった。
「あら、ルーちゃん起きたのぉ?」
「…おはよう」
眠そうに目を擦るルーティに、紅玉は柔らかく微笑んだ。起きたとは気づかなかったジュダルは、紅玉の言葉に釣られてルーティを見遣る。世界を映す瞳は、宝石のようであった。ジュダルの好物である桃を宝石にしたような、いや、もっと綺麗なもの。
「腹減ってねえか?桃あるぜ」
「うーん…」
「半分食うか?」
ジュダルが他人を気遣い、あまつさえ大好物の桃を分け与えている。しかも半分も。衝撃的すぎる光景はいつものことではあるが、これはルーティ限定の行為であった。目の前で広げられた二人の空間に、紅玉はため息をついた。
「本当、仲良いわよねぇ。ルーちゃんとジュダルちゃん」
「当たり前だろ」
「血は繋がっていないようだし、皇族でもないし…二人は結婚するのかしら?」
「ばっ……お前!」
急に振り向いたジュダルの形相に、紅玉はぎょっとして身を退いた。鬼のような形相であるが、林檎のように真っ赤な為恐怖は感じない。対してルーティはぽやんとしており、紅玉の言葉の意味をいまいち理解していないようだった。
ははーん、と紅玉はにやりと口角を上げる。普段ジュダルから受ける屈辱的な言葉の数々の反撃だと言わんばかりに、言葉の倉庫を開いた。
「あら?違ったのかしら?でもそうよね、ジュダルちゃんみたいな粗雑な人が運命の相手じゃあ…」
「なんだと!?」
「ルーちゃんには、朗らかで優しくて笑顔の素敵な殿方の方がいいのではなくて?」
「は、はぁ!?」
ルーティのこととなると、いつもの調子とは正反対な反応が楽しいのだろう。咎める夏黄文の努力も虚しく、紅玉の口は止まらない。ジュダルとは正反対の男性像を挙げたのは、わざとであろう。
ルーティを抱きかかえている為動きが取れず、ころころと顔色を変えるジュダルはぐっと歯を食いしばった。さすがに言いすぎたか、と紅玉は力を抜いた。
「…まぁ、ルーちゃんは恋した殿方と結ばれるといいわね」
「コイ…?」
「ルーティ、鯉じゃねえぞ」
すかさず訂正を入れたジュダルの言葉のイントネーションは、魚の方だ。そんなベタな間違いをするわけがない、と紅玉はルーティを見るとジュダルの言葉にはっとしていた。
恋も知らない彼女に何を言えばいいのか混乱した紅玉は、鯉はおいしくないらしいわよ、と新たな訂正を加えてしまった。
「ケッコン、って…ずっと一緒にいること?」
ずっと、初めの言葉について考えていたのだろうか。ぽつりと呟かれた言葉に、紅玉は真剣に思考を回す。
「そうねえ…夫婦になる、っていうのが一般認識でしょうけど」
「夫婦…」
「まぁ、ずっと一緒って誓い合うようなものね」
ーーーーーずっと、一緒だ
脳裏に蘇った光景は、ルーティの思考を奪った。
場所も、目の前でその言葉を告げた人間の姿もぼやけてわからない。自分がどんな姿をしているかもわからない。相手の髪色も髪型も、顔も、姿も真っ黒に塗りつぶつぶされていた。ただ唯一わかった声は、初めて聞いたはずなのに懐かしいと感じるものだった。
「ずっと、一緒…」
ぼやくように、記憶の知らない声に復唱するように小さく言葉を続けた。約束だ、と頭の中で言葉が続く。これは約束であり、契約であり、呪いだった。
「ああ。約束しただろ?」
「…ジュダル」
「ずっと一緒だ、ってな」
機嫌の良さそうなジュダルの顔が、太陽で反射する。眩しさに目を細め、影になったジュダルの姿が記憶の影と重なる。昔のジュダルの声は、あんな声だっただろうか。
だが、確かにジュダルは今、”約束した”と告げた。これは誰とでもするような約束でもない。ジュダルの言葉は、記憶のものと同じであった。約束の相手はジュダルだと納得しようとしても、どこか違和感があった。思い出そうとしても、わからない。気の所為だろう、とルーティは思考を放棄した。
地獄のような、暗殺者だった日々。気づけば目の前にジュダルがいて、小さな彼はルーティに向かって手を差し出したのだ。そして、あの約束の言葉を続けた。その言葉通り、今日までずっと共に過ごしてきた。何があっても、離れることはなく。言葉通り、ずっと一緒にいた。
何故、違和感を覚えたのだろう。その疑問は紅玉がバルバッドの街へ行きたいという発言により、霧のように消えていった。
17.12.19