第八話
燃えているかのような空は、雲だけでなく景色までも染め上げた。落ちる太陽は、徐々に光を隠していく。光が消えれば、自分達の居場所。音もなく闇を縫い、命を消すあの日常は、もう手に入らない。幼い自分は飛び散った血に顔色を変えず、今しがた肉塊へと変わったものを見下ろした。男女のようだった。先に命を奪った男は既に形もなく、逃げようとしていた女はだらりと四肢が投げ出されている。唯一、亡くなった今でも手を離さないソレを彼女は見下ろした。母親の血で濡れた赤ん坊は、耳にキンと響く大きな声で泣きわめいていた。窓もドアもない家の中に、夕日が差し込む。血のようだった。無情に振り下ろされた暗器は、泣きわめく声を止めた。びしゃり、赤が広がった。
ああ、これは記憶だ。ジュダルと出会う前の。命の価値もわからず、命令されるがまま殺していた日々のもの。脳にこびりついた悲鳴はまだ、消えることはない。
「…終わったか?」
知らない声。なのに何故か既視感があった。すとんと耳に馴染んだ声に、キンと頭が痛む。まるで思い出してはいけないものを、見ているかのよう。視界が動く。声の主は、逆光のせいで顔が見えない。答えるつもりはないのに、幼い私の声が言葉を返した。その口調から、親しいものだと知ってしまう。暗殺組織にいた時、親しい人物などいたのか。記憶にない姿に、今一度姿を見ると、どうやら年の近い人間らしい。
「帰るぞ」
振り返ると、少年の髪がよく見えた。夕日に当たって、キラキラと輝く銀の髪。ジュダルではない。声も、覚えはない。だが、何かが彼をよく知っていた。家から出ると、炎の上がった村が見える。ここもそのうち火に飲まれるのだろう。ふと見上げた夕日に、チカッと視界が奪われる。真っ赤だった景色は一瞬で、灰色の世界へと変わった。
灰色の建造物の半壊した空間に人気はない。天井もなく、壁も壊れている。断片は古く、長くから廃墟としてそこにあるようだった。蔦も巻きついた壁は、ヒビが入って今にも崩れそうだ。隙間から生えた雑草、どこからやって来たのかわからない小さな花。そして、目の前にはあの少年がいた。銀の短い髪、口元に巻かれた包帯、そばかす。誰、と呟いた言葉は音にならず、頭に響いて消えた。夜なのだろうか。彼の銀髪が、月の光で輝いていた。
「ずっと、一緒だ」
直前の会話がわからない。だが、彼は大切そうに、そっと言の葉を乗せた。渡されたのだろう花は、何故か宝石より輝いて見えた。赤い、アネモネ。既視感がある。花に付属する花言葉など、わかるはずもなかった。廃墟にアネモネは見当たらない。どこかで摘んで来たのだろうか。目の前の少年の耳は、赤かった。幼い私は、うん、と答える。変わらない平坦なものだけれど、滲み出る喜びの感情にルーティは首を傾げた。ずっと一緒と約束したのは、彼ではなくジュダルのはず。この映像は、一体何なのだろう。
知らない景色、知らない人間、知らない記憶。記憶なのかもわからない。ぐるぐると渦を巻く思考は、新たな疑問を生み出しては渦を増やした。誰、これは何。目まで回りそう。名も知らぬ少年は、ゆったりと目を細めた。ジュダルが自分を見る時の目と、似ていた。
瞬間、堰を切ったように大量の映像が押し寄せた。波の渦に放り込まれたように、色んな記憶が押し寄せる。それが本物なのか判断することもできず、記憶の塊に意識が消える。一つわかるのは、それらが全て暗殺者として生きていた頃のものだということ。必ず映る銀髪の少年に、心臓が握られたようになる。思い出せと言われているかのようだった。名前すらわからない人間を思い出せと、何かが訴えていた。水の中に閉じ込められたかのようだった。パチン、弾かれたように水が消える。
「ジャーファル」
幼い私の声に、少年は振り向いた。それは私だけが許された呼び名だった。そう、私は。私は彼を知っている。彼と約束をした。彼が、とっても大切だった。
そう、裏切られるあの日までは。
「ルーティ、ルーティ!」
揺さぶり起こすような声に、そっと瞼を上げる。こちらを覗き込む銀髪の男性に、ぽやっと焦点の合わないルーティ。背景に広がる一面の青空に、少しだけ目を細めた。光の世界だ。闇にいる自分とは正反対のもの。青空が、彼にはよく似合っていた。どろり。何かが胸を支配した。
「ああ、よかった。目が覚めて…痛い所は?顔色が悪いけど…」
「ジャーファル、彼女…君のことわかっているのか?」
「あっ!ルーティ、ジャーファルだよ。お、覚えて…る?」
記憶の彼と、随分違う。ゆっくりと身を起こすルーティに、彼は手を添えた。意識の定まらない彼女は、何故知らない場所にいるか、組織の者もいないのか、という現状把握まで思考が回らなかった。
約束だ、と少年の声が木霊する。その少年とジャーファルが交差し、同じ人物だと脳が理解した。ふわりと彼女から湧いた小さなルフは、深海のように真っ黒だった。太陽の光が当たり、袖に隠された暗器がギラリと光った。砂の擦れる音がする。隠した殺意は、真っ直ぐに彼へ突き刺さった。
「…え…?」
反射で避けたジャーファルは、そっと頬に手をやった。動揺の隠せない彼は、手に伝わるぬとりとした感触に更に目を見開く。たった今ジャーファルのいた場所には、自分の持つ暗器と同じものが刺さっている。ぽたり、血が落ちる。砂浜に滲んだ血は、絵の具のようだった。
突風のように、突然彼女から真っ黒なルフが溢れ出す。本来魔法を使う者しか見ることの出来ないはずの小さな鳥達が見えるほど、濃いものだった。どす黒いオーラに、ジャーファルの思考は失われたままだ。何故、とくり返す問いに答える者はいない。ジャーファルの名を呼ぶ彼の王は、マスルールに支えられたままだ。王の背中を、冷たい汗が伝った。
「嘘つき…」
「…ルーティ」
「裏切り者…」
恨みのこもった言葉は、ジャーファルの心臓を鋭く突き刺した。こちらを睨みつける彼女の瞳は、底の見えない闇のようで。ガッと頭を抱えた彼女の様子は、明らかに普通ではない。ただ、断片的に零される言葉は全て、呪いの言葉だった。彼女を中心に渦巻く黒に、砂嵐が起きる。前が見えなくなる前に、ジャーファルは咄嗟に手を伸ばした。たった今殺意を向けられた相手に、躊躇することもなく。それは相手が苦しんでいるからというよりは、相手がルーティだから、という言葉の方が当てはまるだろう。たとえ心の臓を突かれても、と伸ばした手が彼女に届く寸前だった。キャパシティを超えた彼女が、そっと涙を流してこちらを見ていた。
「うそつき」
彼女は泣いていた。その言葉に、一瞬手を止めてしまった。大量の黒のルフに包まれた彼女は、次に目を開けば跡形もなく消えていた。掴むはずだった手は行く宛もなく宙を掴んだ。夢だったのだろうか。だが、砂浜に滲んだ血が幻ではないと、物語っていた。
2018/02/09