※言葉の壁は宇宙の彼方へ

私のできない部分を全て持って行ったかのように、なんでも出来る優秀な弟。家の中心は弟で、優先順位は弟がダントツの一位。私は最下位どころか順位にすら入れてもらえない。

そんな人生に、大方諦めていた時だったなぁ、ユーリと出会ったのは。

弟のいつものわがままで、ロシアに行くことになった。なんでもテレビで見たスケートをやりたいらしく、その為だけに。日本でなくわざわざロシアを選ぶ辺り、世界が違う気がした。

そして、ロシアの中でも有名選手を育てる監督がいるスケートリンクへ行くことになった。日本と気候の違うロシアへ行くのだから、とありったけの防寒具を送られる弟と、薄っぺらいコートのままの私。夕食も両親と弟の残飯を食べ、鳴るお腹は空腹を訴えた。寒くて、惨めで辛くて死んでしまいそう。いっそのことこの大雪に埋もれて死んでしまいたい。

何時間もかけてついたスケートリンクに弟ははしゃぎ、親はそれを見て嬉しそうにする。だいぶ体調のおかしい体から目をそらしてマフラーを巻き直した。コートも、マフラーもこの地じゃ役立たずだ。私みたいに。

「見ろよクズ!オメーは出来ねーだろ!」
「……」

声が出なくて、反応だけでもと微笑むと弟は機嫌を悪くさせた。ロシア語で囲まれた怖い土地で、弟は持ち前の運動神経の良さで早くも滑れるようになっていた。すごいね、という意味で微笑んだのに怒っている。にも反応をしなければ親は怒り、反応をすれば弟は怒る。

「邪魔だ、お前は外で待っていなさい」
「その前にこいつに滑らせようよ、父さん」
「だが…」
「せっかく来たんだからさ!」

ああ、どうせ出来ない私の惨めな姿を見て笑いたいだけなのに。前にサッカーをやらされた時はやたら体に当てつけられたし、それを見て嘲笑っていた。

私のスケート靴代をケチっていた親は弟の一声で財布の紐を解いた。与えられた履きなれないスケート靴に、四苦八苦していると弟に背中を蹴られる。

「早くしろクズ」

慌てて感覚のない手で紐を結び終えると、また蹴られた。感覚がごちゃごちゃしていて、もう痛くない。壁を伝いながら怖くて仕方ないスケートリンクに足を伸ばすと、立つこともできずに滑って転んだ。

「ハッ見るに耐えねーなクズ!」

寒いのに、汗が出る。手袋もない手に直接触れる氷は痛いくらいで、思考をぼやけさせた。弟は私の周りを得意げに滑っているし、親はそんな弟しか見ていない。無様にも立ち上がろうと壁を使っても、つるつると滑るだけだった。どんどん力が入らなくなる。暑い、寒い、汗が出る、痛い。揺れ始めた視界と力の抜けた体は後ろへ重力を託してしまった。

「…?」

氷の痛い感触がない。それどころか、暖かくて柔らかいものに支えられていた。ゆるゆると瞼を上げれば、天使がそこにいた。

「…お前、熱あるぞ」

金髪の天使が、私を支えていた。答えようにも声が出なくて、空気だけが口から溢れた。それに気づいたらしい天使は、細い体からは想像のできない力で私を抱き上げてしまった。

音が耳に入らない。あの弟が私を指差し何か言っている。でも、わからない。熱があると指摘されて初めて自分が風邪をひいていることを自覚したくらいだ。朦朧としていても仕方ない。私に何かしようとしたらしい弟が、天使さんのひらりと優雅な身のこなしにより避けられ、気づけば私はスケートリンクから出ていたし、どんどん進む景色は移動している事実を伝えた。

「ヤコフ、なんかあったかいもの」
「ヒーターつけてやれユーリ」

ばたばたとおじさんが走って行く。たくさん声が聞こえる。ソファのような場所に降ろされたかと思えば、肩に暖かいものがかけられた。そして、あろうことか天使が私のスケート靴を脱がしている。

「あ、の…」
「んな格好で来るとかロシア舐めてんのか」
「これしか、ない」
「…あっそ」

天使から紡がれる母国語に、疑問を抱いたがすぐに消えた。天使さんだからかなぁ。

どうやらだいぶ熱があるようで、かけてくれたものは天使さんの上着だと後から知った。まだ寒そうな私に、更に着ていた上着をかけてくれた天使さんは、おじさんから言われた通りヒーターを私の近くに持って来る。

「お前、いつもあんな扱いされてんのか」
「ふつう、です」
「…飯食ってんのか」
「残り物…」

天使さんは眉を寄せた。するする、綺麗で細くて白い手首が目の前を横切る。そして、頬に冷たい感触。添えられた手は冷たいのに、優しかった。

「お嬢ちゃん、スープは飲めるか」
「…私、お金…」
「お金はいい。飲みなさい」

渡されたスープはとってもあったかかった。泣きそうなくらい、あったかい。つけられたプラスチックのスプーンで一口飲むと思った以上に熱くて火傷した。すると、天使さんが慌てたように奪い取り、冷ましてくれた。

なんでこんなに、優しくしてくれるのかな。

少し落ち着いた頃、またどこかへ消えていたおじさんは私の頭を撫でながら言った。私の家族は別の所で泊まり、私はこの天使さんと共に泊まることを。移してしまうと訴えたが、天使さんのそこまでやわじゃないとの一言で却下されてしまう。

「あの、天使さん」
「てっ…!?ユーリだ、ユーリ・プリセツキー」
「ぷり、せ…?」
「…ユーリでいい」

そう言いながら私にマフラーを巻く彼は本当に優しくて、輝いて見えた。ここで死ぬのかなって考えたほどに。

今でも思い出すたびに、頬が緩むんだ。

「ユーリ」

天使さんの名前を、大事に呼んだら彼は何故か顔を真っ赤にさせていた。


2018/02/08