「ありがとうねぇ、なまえちゃん」
「Нет…!あ、えっと…」
「ふふ、みんな出てきたらご飯にするばい」

勝生家のお母さんは、優しい。理想の両親とは彼らのことではないだろうか。先に入らせてもらった彼女、なまえは睫毛を伏せた。手には濡れたふきんがあり、少しでも手伝いをと行動していることが伺える。少し濡れたままの髪は彼女に色気をもたせ、客の数人は息を飲んだ。屈み、合わせが緩む。あと少し、と客が身を乗り出した時バタバタと大きな足音が玄関から響いた。

それは食堂へ向かっており、一同はなんだなんだとその主を見る為視線を出入口へよこした。なまえは、玄関からということはユーリではないと考え視線はよこさない。机を丁寧に丁寧に磨いていた。

「…ッいた!お前ッ!!」

知らない男の声だ。そしてその声は、自分に向いているような気がした。ふ、と視線を上げれば呼吸を乱して彼女を見下ろす男。ミルクティー色の彼女とは違うこげ茶の髪で、顔は整っている方だ。

お前、と男はなまえを知っているように指差している。男は眉を吊り上げており、怒りの感情のみ伺えた。当の本人は見覚えがないらしく、きょとんと男を見つめ返した。

「どなたですか…?」
「はぁ!?おまっ…忘れたとは言わせねーぞ!」
「っ!」

怒っている男は彼女に詰め寄る。びくっと肩が揺れたなまえは一歩後退するが、男はそれを追うように進む。

「おめーの!ドクズの弟だっての!天才の!」

弟、と言われ始めて顔に重きを置けば、ほんの少しなまえと似ているような気がした。だが、彼女のイノセントさや儚さ、綺麗さには敵わないなと客は心の中で頷く。

「お前がこんなとこにいるっつーからこの東大合格した俺様が来てやってんだぞ!わかってんのかブス!」
「……元気、そうだね」
「はあ!?俺が来てやってんのになんだその言い方は!!」
「ーーっ!」

手を振り上げられる。数年縁遠かった親に殴られた日々を、体はしっかり覚えていたらしい。反射で固まったなまえは、せめてもの防衛で身を固くした。

…が、大きな衝撃音と後から響いた打撃音は遠くへ飛んで行った。そろりと目を開ければ、回し蹴りを終えたポーズであちらを睨む風呂上がりのユーリが、そこにいた。

「…ユーリ」
「大丈夫か」
「……ユーリっ!」
「!?!?」

涙を滲ませたなまえは、ユーリに抱きついた。お互い風呂上がりであり、旅館の着物は布が薄い。彼女の胸を強く認識してしまい、ユーリの顔面はゆでダコのように熱を集めた。

そしてヴィクトルはおもしろそうに写真を撮り、勇利は机倒れてる、と溢す。誰一人彼女に罵声を浴びせた男を心配するものはいなかった。

「ッいってぇな!」
「なまえ、飯食うぞ」
「KATSUDON*!」
「おい無視するんじゃねえ!」

抱きついたなまえをそのまま腰に手をやり誘導すると、立ち上がったらしい男は青筋を増やしていた。あのヴィクトルがいるというのに、なまえにしか目が向けられていない。そのことに、ヴィクトルは意味深に笑みを深めた。そして誰にも聞こえない声で「へぇ」とこぼす。癖のように当てられた人差し指は、ヴィクトルに色気をもたらした。

「いいか、クズにいい知らせだ。俺は東大に入り、既に親の跡継ぎとして活動している!俺の権限さえあれば、オメーみたいなゴミクズを家に戻させてやることができるんだ!まぁ俺は優しいからな、さっさと帰る準備をーー」
「戯言言ってんじゃねえぞ。なまえの帰るところは俺のとこだ」
「なんなんだよお前は!大体こいつの名前はなまえなんかじゃねえだろ!こいつは…」
「私はっなまえだよ!」

ユーリの胸元に顔を隠していたイリーナが、声をあげた。トラウマが刺激され、やはり怖いのだろう。手は震えており、涙も滲んでいる。だが、逸らすことなく視線は真っ直ぐに男へ向けられていた。

「ユーリが私につけてくれた、この名前が私の名前」
「…ッッなんで、そいつばっか」
「……私の、家族は…ユーリだけです。もう、もう…帰ってください」
「てんめえッ…!」

また、殴られる。目を瞑りかけた彼女をユーリは男から遠ざけ、隠すように間に立った。支えられる腕から伝わる温もりに、固くした肩の力がほぐれていく。守ってくれている、とわかるとなまえは頬を緩めた。

男は、わなわなと震えている。怒りの感情を直接当てられ、こんな感情を向けられるのは久しぶりであった。

「お前とそいつは!どういう関係なんだよ!」

憤慨したままの男はユーリとなまえを指差した。その言葉に目を見開いたユーリと、首をかしげたなまえ。更に続きかけた男の口を塞いだのは、ヴィクトルであった。

「まぁまぁ」

にこにこと、男に歩み寄る。すぐ手を挙げ、有名人に興味のないような男に近づいて大丈夫なのかと周りは息を飲んだ。本人はにこりと笑っており、周囲の心配など気にも留めない。今まで静かに見守っていた勇利がヴィクトルの行動に慌て始めた。

そんなものは杞憂だと言わんばかりにヴィクトルはこちらにウインクをよこすと、今にも手を挙げそうな男の耳元に囁く。身長差のある二人はヴィクトルが屈む形で、こちらからは何を言っているのかは聞こえない。

一言二言、ヴィクトルの口が動いた。読唇術など心得ているものはおらず、一同は首をかしげるばかりだ。今まで怒りで真っ赤になっていた男は、ヴィクトルの言葉で急に顔色を変えた。目を見開き、真っ青になったかと思えば羞恥の色に染めていた。ヴィクトルはそれに満足し、にこりと笑いかける。そしてまた言葉をかけたかと思えば、男は煙を出しそうなほど顔を赤くしていた。

「ーーーっ!!諦めねえからな!お邪魔しました!」

男はばたばたと走り抜け、彼女を庇うように前に立つユーリに向かって言葉を投げたかと思えば風のように去っていった。

少し固まった空気は、勝生の母によってほぐされた。

「カツ丼用意できたばいね**」
「!てっ手伝います」

慌てて母の元へ駆けるなまえの後ろ姿をぼんやりと見つめるユーリは、あの男の言葉が残っているようだった。自分達の関係、それを表す言葉。今までスケートを理由に曖昧にして来たが、やはり白黒つけなくてはいけない。

優しい、理想のようなふんわりとした勝生の母に、頬を染めて彼女の手伝いをするなまえ。手伝いに関して褒められたのか、頭を撫でられ口元を緩ませていた。腰元まで伸びた髪がゆらゆらと揺れる。その様子に釘付けになっているのは自分だけではないことくらいユーリは気づいていた。

彼女はかわいい。他に何も出来ない代わりにと与えられたと言われてもおかしくないくらい、人形のようにかわいかった。その上性格が良く、おおらかだ。

なまえは自分を慕っているが、それは自分と同じ感情ではない。それでもいいと思っていたが、どうやらいけないらしい。

「ヴィクトル、彼に何言ったの?」

「ん?好きなら素直にならなきゃ伝わらないよーみたいなことだよ。もう赤の他人の癖に思い上がってるようだけど、とかね」

「…えっ!?なまえさんのこと!?」

「あんなんじゃ嫌われるだけだよね**。さっカツ丼食べよう勇利!」

それに、彼女にあんな顔させたことがあるのかい。幸せそうななまえの顔に歯を食いしばった男を思い出し、ヴィクトルは微笑む。なまえは過去のこともあり、ぼんやりとして鈍感な性格から恋に気づかせるのは無理だろう。ならば、と視線が向いたのはユーリだった。眉を寄せてなまえを見つめる彼の姿に、ヴィクトルはにやつく。楽しくなりそうだ、と。


2018/02/09