長い階段を抜けた先に終わりはなく、前方に広がる湿原に目眩を覚えた。
ヌメーレ湿原と呼ばれるこの地は詐欺師のねぐらとも呼ばれ、日々騙し合いが行われる場なのだと試験官のサトツさんは告げた。ここを通らなくては二次試験会場まではいけない。
騙し合いをする動物をいまいち想像できなかった数分前の私は、こんなことが起きるとは思ってもみなかった。
突然、知らない男がぼろぼろの姿でサトツさんを指差し、偽物だと訴えた。そして、彼が引きずる人面猿こそが本当の姿であり、本物の試験官は自分だと。
偽物だというなら、今までついてきたこの人はいつから?そもそも、何故この湿原に来てから?何十キロも走っている間に割り込めたはず、それにこの人はどこから?
恐る恐る見つめた人面猿は、手足がとても細い。サトツさんも細いけれど、服で隠しているとは思えない。けれど、と必死に思考を巡らせている時だった。
本物だと主張する男の顔に、トランプが刺さった。
「ひっ……!」
思わず口元を手で覆った。血の気が引いていく。
血を流して倒れた男が脳裏に焼き付かないよう、目線を落とした。
顔面にトランプの攻撃を受けた男に対し、サトツさんは攻撃を受けることなくトランプを全て手で受け止めていた。男が倒れたのを見て逃げ出した人面猿に、平気な顔でまたトランプを投げるヒソカに息を呑む。怖い、指先がカタカタと震える。
「…ナマエ、見ない方がいい」
「くら、ぴか…」
死体を見せないように前に立ってくれたクラピカの背中に、少しだけ肩の力が抜けた。殺す必要なかったのに、なんで。
大きな鳥の羽音がする。そして、何かを啄む音がする。あれが敗者の姿だと、静かに語るサトツさんの声が頭に響く。
人や動物が死ぬところなんて見たくないのに、この試験では簡単に死んでいく。フードを深くかぶり直し、小さくクラピカの服の端を掴んだ。クラピカはそれを咎める素振りはなく、守るように前に立ってくれている。
こんな場所を、今から走り抜けなくてはいけないのかと、背筋が冷たくなった。
再び走り出し、ぬかるんだ湿原はどんどん体力を奪っていった。雨の日の山の中を走らされた時より足元が走りづらい。それだけではなく、霧がどんどん濃くなっていく。前の人がぼんやりとした影でしか見えないくらい。
騙し合う動植物、濃くなる霧のせいか離れたところで何度も叫び声が聞こえ始める。ドクドクと心臓が嫌な音を立て、怖いと体が震え始めた。大丈夫、すぐ近くにはクラピカとレオリオがいるし、何より私にはみーちゃんがいる。だから、大丈夫。必死に自分に大丈夫と言い聞かせ、手のひらに爪を立てた時だった。
ハッとしたクラピカが、私を自分の後ろへ乱雑に押しやった。それに驚いている間もなく、何かを弾く音が聞こえた。
「!」
「ってぇーー!!!」
腕の近くに何かが飛んできた。咄嗟に反応する前に、ぱらりと粉々になってしまった。一体何が、と慌てて周りを見渡せば、レオリオの腕に刺さったトランプに、クラピカの足元に落ちたトランプ。
そっか、さっき粉々になったのはトランプだったんだ。そして、きっとみーちゃんが助けてくれたのかな。
思考する余裕もなく、ぞっとする恐ろしい殺気が肌に刺さった。濃い霧の向こうから、ぼんやりとした人影がゆったりと近づいてくる。
「てめぇ!何をしやがる!」
一寸先も上手く見えない霧の中から姿を表したヒソカに、ごくりと唾を飲んだ。なれた手付きでトランプを弄る彼はにたりと笑い、人を殺した後とは思えない表情で飄々と告げた。
「くくく◆試験官ごっこ◆」
パラパラとトランプが彼の手の中を行き交う。そのトランプがいつこちらに飛んでくるのか、と目が離せない。
彼はトランプを弄りながら、ニ次試験までは我慢しようと思ったけれど、一次試験があまりにもタルいから、自分が判定するのだと語る。表情はにこやかだけれど、殺気は消えていない。
危惧していた事態が来てしまった。ヒソカは、とんでもなく強い。オーラを見ればわかる。みーちゃんの力無しでは勝てないことはすぐにわかった。
ヒソカを取り囲み、武器を持った人達が襲いかかる。ヒソカは、トランプ一枚で十分だと目を細めた。
まずい、あの人達みんな殺されちゃう。
咄嗟に止めようと声を出そうとしたけれど、うまく言葉が出ない。口から出たのはかすれた空気。そうしている内に、ヒソカは目にも留まらぬ速さで次々と人を殺していった。トランプ一枚で、人の頭を、腕を、体を紙のように。気分が高ぶっていくのか、笑うヒソカにぞっとする。殺しを、楽しんでいる。
「残りは君達4人だけ◆」
あれだけいた受験者が、たった一枚のトランプで、たった一人に殺された。カタカタと震える体を戒めるように手首を掴み、爪を立てる。
このままじゃ、殺される。みーちゃんの力で二人を守らなくちゃ。でも、そうすれば二人は二度と私に笑いかけてくれなくなる。村の人が、社に来た怖い人たちが私を指差し化け物と言った。二人に、嫌われたくない。けれど、死んでほしくない。怪我をしてほしくない。
知らぬ男がバラバラになって逃げるのだと言う。標的をバラした所で誰かが狙われ、殺される。
「今だ!!」
「っ!」
立ち尽くす私の腕を力強く引っ張ったその人を見上げれば、必死な表情のクラピカが私の腕を引いていた。女で一番狙われやすい私を、守ってくれている。さっきも、クラピカが庇ってくれた。二人になれば狙われる確率が上がるのに。
「……っクラピカ、逃げて!」
「な…っ!?ナマエ!?」
掴まれていた腕を振りほどき、クラピカが転ばないように、ドンと強く押した。こっそり背中につけたみーちゃんの髪に、ただ前に進むよう命令をする。こんな髪一本、霧の中気づくのは困難だろう。
濃い霧に構わず走り、隠していた長い木の杖を取り出す。姿を捉える前に、魔法を使うかのように杖を振る。それと同時に絶で視覚できない細い髪の繊維達をヒソカに向かわせた。
手首を、指先を、頭を、体を身動き出来ないように縛りつけた。霧が少し晴れて、ヒソカの姿がまた顕になる。先程とは違い、一人で対峙することへの恐怖が強く心臓を暴れさせた。私を見たヒソカは、にたりと目を細め口角を上げた。
「んん?君は……◆」
「…っ」
「ふぅん……動けないのはその杖、ではないね◆その杖には何の力も無い…」
ば、バレてる!
どんどん血の気が引いていくけれど逃げる訳にはいかず、ぎゅうと杖を握りしめた。いかにも魔法使いが使いそうな少し長めの杖。これはそれっぽいお店で買ったもので、杖自体に力がある訳では無い。もしもみーちゃんの力を使う時に、魔法だと意識を逸らす為に導入した師匠からの知恵だったのだけれど。
やっぱりこれほど強い人には、こんなフェイクは通じない。
ヒソカの身動きを封じた。けれど、ここからどうすれば?気絶をさせてしまえばこの場は収まるかもしれない、と新たにみーちゃんにお願いをしようとした時だった。
「その髪…かな?◆」
「ひっ…」
縛っているはずの右手が動いた。髪が切られたのだとわかり、急いでまた縛ろうとした時には既にヒソカが目の前にいて、私を見下ろしていた。
フードを掴まれ、猫のように持ち上げられる。目線を合わせられ、にんまりと笑うヒソカは面白いねと私に言う。細められた瞳に私が映り、ぞっと背筋が冷たくなる。みーちゃんに助けてと言ったらこの人を殺してしまうかもしれない。もう人を殺したくない。けれど、そうも言っていられない。
もう片方の手が伸びたのが見え、咄嗟にぎゅっと目をつむり身を固くした時。
「ナマエを離せぇ!!」
「ん?◆」
私を持ち上げるヒソカの腕を狙い、木の棒で立ち向かってきたレオリオに更に血の気が引いた。念能力者にそんな棒切れで勝てるわけがない。レオリオが殺されちゃう。
避けたヒソカは私を宙に放り出し、レオリオに視線を移した。落ちることよりもレオリオの安否で思考が埋め尽くされる。髪を1本引き抜き、レオリオへと飛ばす。そして、レオリオが殺されるほどの攻撃をされたら本人に弾くよう呪い(まじない)をかけた。
「ナマエっ!」
「く、クラピカ?」
なんでクラピカがここに、と混乱していると落ちる前にクラピカに抱き上げられたのだと気づく。クラピカを遠くに逃がすようにみーちゃんの力で飛ばしたはずだけれど、慌てて確認するとその念を込めた髪は切られていた。
クラピカは私を地面に下ろすと、片手で木刀を構え、もう片手で私を抱き寄せた。
「クラピカ、は、離して…」
「……」
カタカタと震えていると、殴りかかったレオリオに手をかけようとするヒソカの姿が見え、さっと血の気が引いていく。全身の毛が逆立つような感覚と共に、ぞわりと背筋が凍る。そして、ふわりと髪が浮かんだ。その時、ガツンとヒソカの頭に何かが投げられた。
釣り竿を持ったゴンが、少し霧の晴れた先にいた。ぐるりとゴンへ顔を向けたヒソカは、ゴンに興味を示してしまった。それを阻止しようと咄嗟に拳を振りかぶったレオリオが、ヒソカに、殴られ宙を飛んだ。
「…っ!!」
もうダメだ。みーちゃん、と小さく頭の中で名前を呼ぶ。ゴンの首元に手がかかる。けれどふと、レオリオにかけた呪いが発動していないことに気づいた。あの一瞬で殺すことはできたはず。だけれど、ゴンも殺さないとは限らないとフードに手をかけた。
すると、ヒソカはじっとゴンを見つめたかと思うと、にこりと合格だと告げた。
「キミたちも…合格◆」
再びヒソカの目に私が映る。殺意はなくとも無条件に恐ろしく感じてしまうのは、彼が強いからなのか。
ヒソカは誰かと電話をした後、レオリオを担いで霧の中へ消えてしまった。激しく鼓動する心臓と思考停止する頭がやっと現状を理解し、更に鼓動が早くなる。レオリオ、ぽつりとこぼしレオリオと共に消えた方向を呆然と見つめた。あんな危ない人の手にレオリオがいる、早く追いかけて助けなくちゃと頭の中で警鐘がなる。けれど体はガタガタと震え、立ち上がろうと体に力を入れてもうまく力が入らない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう
どんどん思考回路が混線していき目の前がぐるぐると回り始めた時、ぎゅうと強く抱かれたままのクラピカの手に力が込められた。
「…ナマエ、ゴン、無事か」
離れていく恐ろしいオーラからうまく思考が離れない。私はクラピカの方を見れずに、こぼすように「…うん」と答えた。
レオリオにつけた守りの呪いは、まだ発動していない。
まだ殺されていない、そのことにひどく安心した。立ち上がったクラピカは私に手を差し出し、立てるかどうか気遣ってくれた。手を煩わせないように自分で立とうと地面に手をつき必死に力を入れるけれど、どう頑張っても立ち上がれない。腰が抜けたとはこの状態のことを言うのだろうか。
試験官の人に追いつくには早く進まなくちゃいけないのに、足が言うことを聞かない。疲れているというよりは、指先がカタカタと震えているのが答えだろう。
「ごめんなさい…ちょっと立てなくて。先に行って」
眉を下げて、未だ震えの止まらない手を拳にした。爪を立てる握力もあまりないようだった。
怪我というわけではないからみーちゃんに治療して回復ができない。力が入るように身体強化?腰の抜けた状態に効くのだろうか。あまり働かない頭ではうまく答えが出ず、とにかくクラピカとゴンには先に行ってもらうことに思考を割いた。
すぐに行ってくれるだろうという憶測は外れ、私の前に背を向けてしゃがんだクラピカにぽかんとする。顔だけ振り向いたクラピカが、掴まれと私に催促をした。おんぶを、してくれるらしい。
「で、でも」
「ナマエを置いていく選択肢はない。背負う方が走りやすいのだが…抱き上げた方がいいか?」
「えっ」
抱き上げられる方が恥ずかしい!
カッと頬が熱くなる。重いし、迷惑になるくらいなら置いていってほしいと伝えるけれど頑なに拒否されてしまった。こちらに来たゴンに視線を向けると、じゃあ俺がおんぶしようか?と真っ直ぐな瞳で言われて言葉が詰まる。身長のあまり変わらないゴンに、そもそも年下の男の子におぶられる方が申し訳ない。
しぶしぶクラピカの背に体を預けると、しっかりと抱えられ視界がぐんと上になり、小さく悲鳴をあげてしまった。思わずクラピカにしがみついてしまい、彼の香りが近くなる。とんでもなく密着してしまっていることに、顔が沸騰するかのように熱くなっていく。
「あ、あの、ごめんなさい」
「私が勝手にやっていることだ」
「お、重くない…?」
「問題ない」
…クラピカは神様なのかもしれない。
人の温もりに触れ、助けてもらって、いくらか精神が安定したように感じる。まだ少し手は震えたままだけれど、壊れたようにドクドク鼓動していた心臓は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。…別の意味でまだ激しく鼓動しているけれど。
試験官も受験者も全員見失ってしまったけれど、レオリオのつけているコロンの香りで道を辿っていけるとゴンは言った。数キロ先までわかるよねと平然と言うゴンに、心の中でそれはゴンだけだと思う…と言葉を添えた。それに道筋のように動物の死体が転がっていた。ヒソカを狙い、殺されたのだ。ぎゅうと思わずクラピカにしがみつく腕に力がこもった。早く慣れないといけないのに、どうしても、あの村の森の動物たちや師匠の家の近くの森にいた動物たちを思い出してしまうのだ。
「…ナマエ、一ついいか」
ぽつりとかけられた言葉に反射で肯定すれば、少し間をおいて言葉が続いた。
「ヒソカと対峙し、四方に逃げた時…何故私と離れヒソカに向かった?二人で逃げることにより狙われる確率は高かったが、その為に自分を犠牲にしたのか?」
「…えっと、」
「あのままレオリオが来なければ、死んでいた可能性もあったんだぞ」
いつもより声のトーンが低く、いくらか抑えて私に問いかけていることが伝わってくる。おぶられていて表情はわからない。言葉を探す私を急かすことはなく、矢継ぎに言葉はかけられず静かな間が時間を止めた。
「…あのまま逃げても誰か一人は殺されていた。それが、クラピカとレオリオだったら嫌で…」
「だから、自分の命を投げ出したのか?」
…怒って、る?
静かに落とされた言葉のトーンは普段より低く、ぴりりと肌が痛い。どこに怒らせてしまう要素があったのかわからない。慌てて言葉を紡いだ私は口を開いた。
「こ、こう見えて私、結構強いんだよ」
「そういう問題ではないだろう!」
少し声を荒げたクラピカにびくりと震えた。どうしよう、怒らせちゃった。急にじわりと涙が滲み、必死に歯を食いしばる。ごめんなさい、と震え、思っていたよりも小さい声で言葉を落とした。形だけの謝罪こそ腹立たせてしまうと気づいたけれど、この他にどうすべきかわからない。
少しの間無言になり、クラピカの言葉をただただ待った。ぎゅう、とクラピカの腕に力が込められ、背負い直される。
「…二度としないでくれ」
そこに怒りの感情は感じられない。懇願するかのような、絞り出された言葉は脳を揺さぶった。
戸惑いながら肯定の言葉を慌てて返す。
でも、また同じ状況になったら。
私は約束を投げ出し、また同じことをすると思う。
クラピカに嫌われたくない。でも、それよりも失う方が怖かった。
大切な人が傷つく方が、怖かった。
今回は、運が良かった。髪を変形して、みーちゃんの力を全て開放しなければヒソカと渡り合えない。レオリオが途中で助けに来てくれなければ、こうしてクラピカが心配をしてくれることもなかったのだろう。
いつ、この関係が崩れるかがわからない。クラピカ、ゴン、レオリオに畏怖の目で見られるその瞬間までは、笑って一緒にいたいな。
2019.07.01