気づけばそこは、森の中だった。
視界一面に生い茂る木々は見慣れぬものも多く、遠い場所からは聞いたことのない生き物の声がした。私は何をしていたのだろう。この場に至るまでの記憶がなく、思い出そうとしてもぽっかりと穴が空いたようで、手がかりもない。これは夢なのかもしれない。この場にいても何もないから、当てもなく前へ前へと進んだ。空が小さく見えるほど伸びた木々の隙間から、太陽の光が伸びていく。途中出くわした動物は、うさぎのような猫のような見た目のものだったり、犬のようなたぬきのような…とにかく、夢のような生き物達ばかりだった。
夢の中でこれは夢だと認識するのは不思議な気分だ。植物で切ってしまった腕や手には多くの傷がついていて、夢なのにじんじんと痛んだ。森の中を彷徨うなんて、どんな深層心理があるのかな。起きたら夢占いでも調べてみよう。どんどん増えていく傷と、体を動かすのが困難な疲労感は現実的で、夢の中とは思えなかった。
これは、夢の中だ。だって、スマホもポーチも鞄も何もかも持っていない状態でこんな場所にいる説明がつかない。服はぼろぼろで、靴も片方が脱げて川に落としてしまった。こんな状況、夢以外にありえない。夢、夢だから。だから崖から落ちてもこれは夢で、目が覚めたらきっと怪我もなく、いつものベッドで目が覚めるはずだった。
『……っい、たい…』
崖から落ちたのは、生い茂る植物で足元が見えなかったから。足はズキズキと刺されているかのようで、体中が痛かった。救急車、と連想するも手持ちに連絡機器はない。人間、あまりにも痛いとうわ言を言ってしまうらしい。ぽろぽろと溢れる涙を拭うこともできず、身動きも取れず私は声を漏らすだけ。痛い、と呟いても痛みがなくなるわけでもなかった。
私はこのまま死ぬのだろうか。そう考えると、ぎゅうと心臓が握られたような心地になった。本当に、人間死ぬ時は一人なんだなぁ。
意識が遠くなっていく。木々の音も生き物の声も耳を通り抜けていく。死を受け入れ手放した意識の中、人の声がしたような気がした。
暖かい。何かに包まれているかのように、体中がじんわりと暖かい。水の中にいるかのような不思議な感覚だった。そして、そこから引き上げられるように意識が浮上した。
重たい瞼をゆっくり上げて視界に映ったのは、見知らぬ景色。自分の知っている場所ではない。広がる木造の天井に、木のにおい、硝子のない窓。おとぎ話に出てくるような、現代の家とはかけ離れた内装にドクリと心臓が音を立てた。
誘拐、殺人、事件の文字が頭を埋め尽くしていく。慌てて起き上がろうとすれば、体中に激痛が走った。今までに感じたことのない痛さに、思わずうめき声が溢れる。痛みと同時に聞こえたのは、ベッドの軋む音。私はやっと、自分がベッドに寝かされていることに気づいた。
『(ここは…どこ?)』
落ち着け、冷静になれ。
頭にそう言い聞かせるが、尋常ではないほど心臓が激しく音を立てている。頭に響くほどの鼓動は冷静さを奪っていく。動けない体で目線だけ動かす。天井や壁には古びた木の板が使われていて、真新しいものではない。開け放たれた木の窓からは青空が見えた。
ベッドは病院のベッドというより、一般家庭にあるもののようだ。カントリーなベッドと称するのが一番わかりやすい。布団は薄く、その上に毛布がかけられている。
私の体は拘束されていない。それどころか、包帯やガーゼで手当がされている。そこまで考え、私は意識を失う前のことを思い出した。確か、崖から落ちたんだ。つまりこれは、夢ではない?それとも、夢から覚めた夢なのかもしれない。
「ーー!」
こちらに近づく足音が聞こえた後、部屋の扉が開けられた。優しそうな女性だった。ワンピースに腰にエプロンをつけたその姿は、本当に物語に出てくる村人のようだった。髪を一つにまとめている女性は、私と目が合うと花が咲いたように笑った。
「!〜〜!ーーー〜…」
『…?あの…』
彼女が、何を言っているかわからない。掠れた声を必死に絞って言葉を紡ぐが、彼女にも伝わらないようだった。そして、彼女の言葉を必死に聞き取っても何を言っているのかわからなかった。英語でも、独語でも…アジアのものでもない、気がする。とにかく何を言っているのかわからない。
「ーー?〜〜〜〜!」
一人増えてしまった。また同じように物語に出てきそうな服を着た、人の良さそうな男性だ。私を見ると、女性と同じように嬉しそうに笑顔になった。
そして男性は言葉が通じないことを知ると、ばたばたと部屋を出ていってしまった。そしてすぐに彼は紙と書くものを持って、戻ってきた。
彼らは、私を助けてくれたらしい。ここはとある村らしく、村の名前も書いてくれたけれど不思議な文字で書かれていた為読むことはできなかった。その村を囲む森の中で、私は倒れていた。
ここが夢なのか現実なのかわからない。どちらだとしても、助けてくれた彼らにきちんとお礼をしなくては。体を起こして必死に頭を下げると、とんでもなく慌てた彼らに止められてしまった。とても心配をされてしまっているらしい。
手は無事だったらしく、手渡された紙に日本地図を書いてみたけれど、覚えがないらしい。次に世界地図を書き、日本の位置を指さしたけれど何故かこれも彼らには伝わらなかった。ただ、私の意図を汲んでくれたのか、男性が地図を持ってきてくれた。古びた地図が広げられ、描かれた線に目を見開く。
そこに描かれた世界に、私の知る場所は一つもなかった。
顔から、体から血液がなくなっていくような感覚がした。頭が一瞬で真っ白になる。彼らが嘘の地図を出したとは思えない。痛い、心臓が痛い。体中が痛い。
帰れない。漠然とそう感じてしまった。だって、知らない。こんな地図、見たことがない。どこにも私の知る国がない。添えられた文字も何もかも、覚えがない。異世界にでも飛ばされたのかな。せっかく飛ばされるなら、夢小説みたいに好きな世界にトリップしたかった。
まだ夢である希望が捨てられない。女性が作ってくれた野菜のスープが、温かくて優しくて、おいしくて。滲んだ涙が静かに流れた。
…あれ?そういえば、体がどこも痛くない。
2018/03/23