賑わった船内は、酒場のようだった。見渡す限りの男の姿に、うっと口を押さえる。男臭いとはこのことか、という言葉にできない臭いがこもっている。既に酔いそうな私に対し、クラピカさんは変わらぬ調子でハンモックを用意していた。この船に何故ハンモックがあるのかという疑問はそっとしまう。クラピカさんがハンモックで過ごすのならば、私はどうしようと今一度辺りを見渡す。また声をかけられないように、深くフードを被って隅っこの壁のあたりで膝を抱えて過ごそう。空いていた隅っこを目指して歩を進めた瞬間、ぴたりと動きが止められた。既視感を覚えながら振り向くと、ハンモックを設置し終えたクラピカさんが私を見下ろしていた。
「どこへ行くんだ?」
「そこの、隅に…」
「また絡まれるぞ。ナマエもこれに乗ればいい」
「で、でも…一人分なのでは…」
「大きめに作られている、ナマエくらいなら入るだろう」
腕を掴まれたままハンモックの前まで誘導され、更には先に入るよう譲られてしまった。これ以上クラピカさんの迷惑になるわけにはいかない。うまく言葉が出ないなりに、必死に言葉を探すも見つからない。吃りながら視線をうろうろとさせていると、乗り方がわからないのか?と問われ私は慌ててハンモックに乗り上げた。…が、不慣れなせいでバランスを崩し、頭から突っ込んでいってしまった。クラピカさんの目の前で醜態を晒してしまった。もう帰りたい。死にたい。
「…大丈夫か?」
クラピカさんも、まさかハンモックに乗るくらいでこうなるとは思わなかっただろう。泣きそうになりながら私はなんとかクラピカさんの手を借り、ハンモックに寝そべることができた。ほっとしたのもつかの間で、横にクラピカさんが乗り込むと心臓がぎゅっと握られたような心地になる。美人さんとこんな狭い場所で二人きりというのは緊張する。
「あ、あの…クラピカさん」
「クラピカでいい。どうした?」
「狭くないですか?私、やっぱり…」
「特別狭くはないが…もう少しこちらに来たらどうだ」
「いえっ……」
自分にできる最大限の力で端によっているけれど、本来一人分のハンモックだ。本当に彼は狭くないのだろうか。一人で乗れば広々と使えるはずなのに、なんで私を一緒に乗せてくれたんだろう。出会って少ししか経っていないのに。出会ってから迷惑しかかけていないような気がする。助けて頂いただけでなく、こうして配慮までしてくださった。船内でただ一人の女だから、というわけではないはず。普通の船ならまだしも、ここはハンターを目指す強者の巣窟。帰れとも言われそうな私を、何故クラピカさんは助けてくれるのだろう。
この疑問を口にするには、勇気も心の余裕もない。クラピカさん、ちがう、クラピカは自分の鞄から本を取り出し表紙をめくる。がやがやと騒がしい船内に臆することも、眉をしかめることもなく変わらぬ調子で本を読み始めた。すごい。クラピカに見習って私も鞄から本を取り出す。クラピカの読む難しそうな本とは違って、私の本は短編集と辞典がついているもの。数年で日常会話以上に話せるようにはなったものの、難しい単語や言葉使いは未だ理解できていない。この本は、短編集だけれど言葉の意味がわかるようにページの隅に補足が書かれているものだった。師匠がどこからか持ってきたものだ。前の世界でいう、外人向けの本なのだと思う。
知らぬ言葉を頭に入れると同時に、霧のように日本語が消えていくのを感じる。この世界に来て、言葉をたくさん勉強した。不思議なことに、数回聞けばするりと覚えられた。けれど、いつの日か気づいてしまった。この世界の記憶が増えるほど、前の世界での記憶が消えていくことに。ハンター語を覚える度に、私は前の世界の言葉を少しずつ忘れていった。
「本はよく読むのか?」
「はえっ!?え、えっと…言葉を覚えるのに、読んでいます…」
「…遠い土地に住んでいたのか?」
「えっと…私、記憶喪失で…」
「記憶喪失?」
「言葉も、わからなかったので…まだ覚えている最中なんです」
記憶喪失、という設定でよかったのかな。異世界から来たことは絶対に口外してはいけない。こんなに助けて貰っているのに嘘をつくなんて、恩を仇で返すようなことしたくないのだけれど。師匠に言われた設定をそのまま言っているけれど、思えば強ち嘘ではない気がする。だって、私の記憶に前の世界のことは、もうぼんやりとしたものしか残っていない。思い出せば思い出すほど消えていくんだ。
「記憶喪失とは…大変だったのだろう」
「は、はい…」
「着くまでの間で、言葉を教えようか?その本、少し意味が違うものもあるようだからな」
「えっそうなんですか?」
「すまない、勝手に見てしまった。まずこの単語は意味があるものではなく物の名称だ。菓子メーカーの店の名前なのだよ」
「何か話が合わないなと思ったんです…」
だろうな、とクラピカは笑った。ああ、やっぱり本当に彼は綺麗だ。気づけば私も緩く口角が上がっていた。それにしても、訳の間違った本を読んでいたとは思わなかった。
クラピカの説明はとてもわかりやすかった。辞書のように補足が加えられ、自分で勉強するより知識が倍以上に身についた。頭が良いのだろう。そして、人の気持ちも察することができる。記憶喪失のことを掘り下げられたらどうしようという焦燥感は杞憂に終わったのだ。隠し事は、得意でない。顔に出ていたのだろう。きっと私が話を切り出さなければ、彼は聞いてくることはないだろう。聡明で博識な人だと思う。
出港からしばらくした時、私はびくびくと震え上がっていた。響く轟音、真っ白に光る外の世界は嵐の世界へと変わっていた。出港前のあの青空は見る影もなく、雷鳴の轟く災害が起きているかのよう。師匠の所にいた頃、雷の日が何度もあったとは言え、悪天候はどうも苦手だった。
脳裏に映るのは、雨の世界。空を裂く雷に、大雨の音が辺りを支配していた。どろどろになった土の上を走る足に、泥と濁った水が貼り付く。叫ぶ声は嵐に飲まれる。誰も助けに来ない。声も届かない。びちゃりと粘着質な音が後ろから聞こえた。転んだ私の視界は一変し、水たまりに映る森でいっぱいになった。違う、これは水たまりじゃない。どろりと濁った暗い赤と土を一緒に掻いても、起き上がることはできない。
もう、声は出なかった。
「大丈夫か?」
ばちん、世界が弾けた。過去の記憶から弾き出されたように視界が変わる。目の前には、こちらを覗き込むクラピカの姿があった。ぽかんと見返すと、彼は僅かに眉を寄せた。
「魘されていたぞ」
どうやら私は教えて貰っているにも関わらず眠ってしまっていたらしい。轟く雷鳴は意識を失う前と同じ激しさだ。恐怖で気絶したというわけでもなさそうだった。”力”の原因である髪を、一束握りしめた。確かに怖いけれど、眠ってしまう奴がいるか。
「すみません、教えて頂いていたのに眠ってしまって」
「それは構わないが…夢見が悪かったのか?」
「少し…」
全て夢だったらいいのに。翳る私の表情を悟ったのか、彼はそっと間を置いた。その間を縫うように雷が落ち、びくりと手が跳ねる。連想のように思い出す光景が脳を支配しないよう、強く拳を握りしめた。爪が強く掌に食い込む。その痛みが私を現実世界に繋いだ。
「まだこの嵐は続く。怖いのなら、眠った方がいい」
「…でも」
「私のことなら気にするな。最も、悪夢を見た後ならば眠れないだろうが…」
だいじょうぶです、と答えた声は震えていた。夢ではないあの映像が頭から離れない。芋づる式に思い出す悪夢の日々に、更に拳に力を込めた。逃げるように、正反対の楽しい記憶を渦から探し出す。襲う悪夢達の隙間からやっと思い出したのは、この世界に来て一番幸せだった頃のものだった。
血は繋がっていない。突然山に現れた私を、彼らは拾ってくれただけでなく家族のように迎えてくれた。言葉も通じない見慣れぬ服を着た私に言葉を教えてくれて、衣食住まで提供してくれた。そして、”力”を知っても怯えるどころか私を村から守ってくれた。まるで本当に彼らの子供のような、幸せな日々だった。
もう、戻ることはないけれど。
2018/04/05