※モブが出ます



あれから数日が経った。元に戻ったのかはわからないけれど、あの一件が起きる前と同じように、またジョークを言い合い笑い合う時間を過ごしている。相変わらず安室さんは結婚ネタのジョークが好きらしい。

今日も仕事終わりの夜遅い時間にポアロへ行こうと会社を出た時だった。三つ上の先輩に捕まり、何故か一緒にポアロに行くこととなってしまったのだ。ジーザス。

「へぇ、ここがなまえさんの通ってる喫茶店かぁ」
「あ、あはは…」

先輩の為強く出ることが出来ず、遠回しに断ったものの無敵状態のキャラクターに攻撃するかのような結果になってしまった。あまり会社で噂になりたくなかったのだけれど、腹を括るしかないらしい。せめて安室さんのいない時間帯なら、ただおいしいコーヒーや紅茶目当てで通っている体で話が出来る。…が、不運が重なりドアベルを鳴らし店内へ足を踏み入れると、輝く金髪の彼がそこにいた。

「いらっしゃいませ。…おや、そちらの方は?」
「え、ええと…」
「なまえさんの会社の先輩なんです!コーギー先輩ってあだ名がついててー」
「私は呼んでませんけど…」
「今から呼んでくれていいよ?」
「遠慮します」

先輩は初対面であろう安室さんに明るく話しかけている。これがリア充の為せる技か、怖い。
いつものカウンターに通されはしたけれど、隣に座る先輩のリア充トークが止まらない。今日は安室さんと話せないだろうなぁ。

カウンター越しに見る安室さんの調理をぼんやりと眺める。私はメニューも見ずにサンドイッチと紅茶を頼み、先輩はまだ迷っているようだ。今日の変わったことと言えば先輩が隣にいることと、何故か数枚安室さんがお皿やグラスを割っていることだ。調子が悪かったりするのだろうか。

「これおいしいよ!なまえさんも食べてみなよ」
「えっと、食べたことあるので…」
「ほら!」

スプーンをこちらに向けられても困る。苦笑いでやんわり拒否をすると、先輩は渋々といった風にスプーンを戻した。ちなみに先輩が今食べているのはポアロカレーだ。

いつもは安室さんとお話しながら閉店までゆったりお話して、仕事の疲れを取って穏やかに帰ることができているのに。口が止まらないというわけではないけれど、ずっと話しかけてくる先輩は悪い人ではない。職場でもいつも気にかけて頂いているし、ミスも指摘して貰えるし基本的に朗らかでいい人だ。私が少し人見知りをしているだけで。

「安室さん、少しいいですか?」
「はい」

先輩の話を聞いていたら梓さんに呼び出され、安室さんが離れた所に行ってしまった。少し残念に思う気持ちには抗えない。肩を小さく落とす私に、先輩はゆるりと目を細めた。

「なまえさん、あの店員さんが好きなの?」
「えっ」

弾かれるように見上げた先輩の顔はいつもと変わらない。弧を描いた口元に細められた目元は、何かを見透かしているようだった。真っ黒な髪を無造作に跳ねさせた先輩の髪に店内のライトが照らされる。

「彼、アルバイターなのかな?」
「探偵と、バイト…をやっているみたいです」
「イケメンだよね。彼目当ての女の子も多いんじゃないかな?」
「そう、ですね…」

変わらぬ笑顔のまま紡がれる言葉は、現実を突きつけているかのようだ。
安室さんはかっこよくて人当たりが良くて、素敵な人だ。私みたいな女が呼び出しを食らうほど人気で、女性を虜にしている。わかっているのに、心に刺さる棘がなくならない。

「ねえ、俺にしておかない?」
「…へ?」
「イケメンではないけど、自分で言うのも何だけど悪い顔はしていないと思うんだ。定職に就いてるし、モテる訳じゃないから浮気の心配もないよ」
「…冗談ですか?」
「本気」

頬杖をつきこちらを見る先輩はにこりと笑顔を作った。特段ブサイクというわけでもなく、まだ比較的顔立ちは整っている方の先輩はひそかに職場で人気だ。が、それは恋愛的な意味というより弄られ役のようなもの。

現実的に考えると、これ以上ないお誘いではあるのだろう。神の造形物のような安室さんと私なんて月とハウスダストのようなものだ。
優しくて、お喋りではあるけれど気の利く人だ。そろそろ結婚も視野にいれなくてはいけない。ギャンブルもタバコもしていない。好条件ではあるのだ。

頭ではわかっているのに、言葉が出ない。脳内を埋め尽くすのは安室さんのことだけ。安室さんの笑顔が頭から離れない。一般女性の幸せを掴めるはずなのに、手が伸ばせない。ただ結婚がしたいわけではなかった。じゃあ安室さんと話すことができればよかった?もし、安室さんに良いひとが現れたら?

「…えっ」

ぼろりと涙が落ちる。引き金にでもなったかのように涙が止まらず、ぎょっと目を見開いた先輩は慌てているようだった。先輩に迷惑をかけるわけにはいかない。早く泣き止まなくてはいけないことくらいわかっているのに、涙は止まることを忘れたかのようにとめどなく流れていく。


「なまえさん!」
「あ、むろ…さ」
「こちらへ。…立てますか?」

有無を言わさず安室さんに支えられ、あっという間に既視感のある控室へ通されてしまっていた。覚束ない足取りの私を支える安室さんの掌の熱が、掴まれた腕越しに伝わっていく。大きくて暖かい手に、目が奪われた。

何故泣いてしまったのか、きっかけはわかっていた。安室さんの隣に立つ、まだ知らぬ女性のことを考えたことだ。あの柔らかい笑顔が特定の人に向けられる。肩や腰を抱き、愛の言葉を交わすのだろう。想像しただけでこうなってしまうとは、思わなかった。いつしかの女子高生のことを強く言えなくなってしまった。

この気持ちの名前がわからないほど鈍くはない。わかってる。わかっているけれど、認めたくなかった。だって、その名称を認識してしまったらすべてが終わってしまう気がした。

「何か、言われたのですか?」

差し出されたハンカチを恐れ多くも使わせてもらい、控室にある椅子に座らされた。泣き顔を見られたくなくてずっと俯いたままの私は小さく首を横に振る。先輩は何も悪くないのだと言葉で訴えたくとも、嗚咽の混じる声帯から言葉が発せられることはできそうになかった。

時計の音が、静かな空間に響く。先輩はどうしているのだろう。明日からどんな顔で会社に行けばいいのだろう。少しだけ落ち着いてきた頭で冷静に状況を整理し、いくらか治まった涙のおかげでなんとか言葉が紡げそうだとわかる。借りたハンカチは濡れてしまっていて、慌てて顔を上げた。

「すみません、ハンカチ…」
「構いませんよ。…後で、冷やさないといけませんね」

そっと目元に手が伸ばされた。締め付けられた心臓は、いつ壊れだすかわからない。射抜くように見つめられ、嫌でもこの感情に気づいてしまう。叶わない感情を、どう終わらせればいいのだろう。こんなに近くなければ、きっと諦められたのに。ここまで苦しくなかったのに。

「安室さんは、ずるいです」
「…え?」

以前、走って私を追いかけた安室さんが脳内を埋め尽くす。ただの常連客で、遠い存在ならここまで苦しくなかった。本気に考えてしまうような、真剣な瞳。掴まれた腕の熱を今でも覚えていた。

「こんな想い、気づきたくなかった…」

また、涙が落ちた。

安室さんが、好き。気づきたくなかった。ただのジョーク友達でありたかった。そうすれば、叶わない恋に苦しむことなんてなかったから。火照った頬に添えられた手をほどけない。空を閉じ込めたような瞳に、ぎゅっと心臓が握られる。あふれる気持ちに蓋ができなくなってしまった。

息を飲む安室さんは、見たことのない顔をしていた。どんな感情が孕んでいるのかわからない。今この場で好きだと言って、玉砕してしまえば楽かもしれないのに。幸せだった日々を失いたくなくて、この場に及んで未だしがみつく私は意地が悪いのかもしれない。

早く、言ってしまえば。この抑えられない感情を吐き出してしまえば。口を開いてもこぼれるのは空気だけで、こぼれた涙が頬を伝わる。ぐっと何かを堪えた後、安室さんは静かに口を開いた。

「なまえさん、僕は…嘘偽りなく、貴女が好きです」
「…うそ」
「ほんと」

ぐにゃり、視界が歪んだ。ゆっくり微笑んだ安室さんの瞳は熱を孕んでいるかのよう。以前のように何も拘束などされていないのに、身動きが取れない。愛おしそうに私を見るその瞳から、逃げられなかった。





2018/05/03