「安室さん大変ですよ」
「おや、どうかしましたか?」
「安室さんの作ったごはんじゃないと、おいしく感じられなくなったんです」

来店して開口一番に告げると、マネキンのようにそのまま安室さんはフリーズした。

事の発端は、友人ととある喫茶店で食事をしたときのことだ。前と何の変わらない喫茶店の食事だ。好き嫌いはあるものの、雰囲気の良い喫茶店は空気からごはんがおいしいぞと主張していたのだ。ネットでの評判は見ていないけれど、そこそこ人も入っていることから味の保証はできるだろう。おいしいと言う友人に仮面をつけるように同じ言葉を唱えた。頭を支配するのは、安室さんの料理。

安室さんの料理の方がおいしく感じたのだ。

「…嬉しいことを言ってくれますね。どうです?このまま僕のところに永久就職とか」
「あ、そのネタまだ続いていたんですか?」
「僕は本気ですよ?」
「安室さん、そのネタ気に入ったんですか?」

いつものカウンターの席に案内され、何も言わずにお冷が出される。何にしようか迷う隙もなく、しばらくして出てきたのは小さなお皿に載せられたガナッシュだった。安室さんはウインクに口元に人差し指を当て、秘密ですよと囁いた。うーん、イケメンだから許される技だな。

まだ何も頼んでいないけれど、安室さんは既に調理を始めている。出来るまでこれでも食べて待っていろということだろう。もう慣れてしまったサービスで出される試作品に舌鼓をうっていると、出てきたのはカルボナーラだった。あれ、このお店にカルボナーラなんてメニューあったっけ。

「お好きでしょう?」
「メニューにありましたっけ」
「特別にお作りしました」

わあ、これはファンも増えるわけだ。今は私と新聞を広げた男の人しかいない。男性は既に注文を終えている。余裕があるから作ってくれたのだろうか。カルボナーラを作る材料なんて、喫茶店にあるものだろうか。試作品を無料提供されること云十回、いや、もう三桁はいったかもしれない。このお店潰れたりしないかな大丈夫だよね?そもそも、そんなに緩くて大丈夫なんだろうか。

「…で、いつになったら来るんですか?」
「ん?」
「僕の所に永久就職しに来てくれるんですよね?」
「なんで決定事項になっているんですかね…もぐ」

フォークに絡めたパスタを口に入れた瞬間、電気が走ったような心地になった。おいしい!しつこすぎない、程よいソースにアルデンテなパスタ。少し大きめにカットされたベーコンに半熟卵が絡みついたこれは、国宝のようだ。

「安室さんって、料理もできて頭も良くて運動もできて。出来ないこと何もないんじゃないですか?」
「そんなことありませんよ。現に今、とても手を焼いている案件がありますし」
「ほう」

またしても気づけば彼は私の隣に腰をかけていた。勤務中なのにいいのかな。

「なまえさんが僕の想いに気づいてくださらないこと、ですね」
「金ヅル?」
「何故そういう発想になったんですか」
「冗談ですよ」

そう、冗談だ。私も、彼も。にこりと綺麗に笑みを作る彼に、ぽっかりと穴が空いていった。

何故だろう、こんな気持ちになるのは。



2018/04/09