壁に飛び散った赤黒い液体、口を開けたままの男の死体。ふいに、その姿に兄の姿が重なった。

「…っ!」

必死に夢から覚めた私は目の前に広がる空間を少しずつ飲み込んでいく。カーテンの隙間から溢れる太陽の光、柔らかいベッドに温かい布団。遮光カーテンのおかげで睡眠が妨げられないけれど、今日ばかりは早く目が覚めてほしかった。あんな、最悪な夢を見てしまうなんて相当疲れているのかもしれない。

そう、あの出来事は昨日の話だった。もっと警察の事情聴取で拘束されると思っていたけれど、私はずっと眠っていたから詳細を知らない。安室さんが警察の人をくるくる言いくるめ、事情聴取も早々に終わっていた。一緒に帰宅したけれど、私にとって恐ろしいのは帰宅後待ち受けているだろう零さんからの説教だった。何時間も怒られるか何かされるだろうと覚悟を決めていたのに、怒られるどころか待っていたのは謝罪の言葉。

ごめん、とぼやくように、呟くように何度も謝られた。存在を確かめるかのように私の頬に手を滑らせ、泣き出してしまいそうな表情でずっとそう言うのだ。怪我はない、車と衝突をしたから後日病院で検査をするくらい。樫塚さんに渡された飲み物に睡眠薬が入っていたとコナンくんに言われたときは目眩がしたけれど、後遺症が残るようなものではなかった。
零さんが謝ることではなかった。私が気をつけていれば、コナンくんは危ない目に遭うことはなかった。お兄ちゃんにも零さんにも、知らない人から貰ったものに口をつけるなと散々言われていたのに破った私が悪い。それに、ちゃんと行く前に零さんに声をかければよかったのだ。…まさか樫塚さん、本名は浦川さんで事務所の殺人事件の犯人だとは思わなかったけれど。

「…あれ?」

首筋の痛みを気にしながら時間を見ようと枕元に手を伸ばすも、あの硬い機械が見当たらない。ついでに言えば昨日一緒に寝たはずの零さんもいない。零さんは気づけばどこかに行っているし、何日も帰ってこないなんてことはよくある話だから気にしないけれど。

夜、少し暴走した零さんに襲われかけたことを思い出す。リビングに置きっぱなしかもしれない。それにしても、首筋が痛い。行為には至っていないけれど、ひたすら跡をつけられたりがぶがぶ噛まれた気がする。

ふらふらしながらリビングへと行けば、どこかへ電話をしていたらしい零さんが振り返る。すぐ通話を終えた零さんは優しく微笑んだ。

「おはよう。よく眠れたか?」
「嫌な夢見ましたけど…眠れました。あの、私のスマホ知りませんか」
「ああ、これか?」

やはりリビングに置きっぱなしだったらしい。零さんに手渡され、画面を見るとバッテリー残量は赤色に変わっていた。あれ、昨日見た時は充電いっぱいだったのにな。ゲームか動画アプリか何かを開いたままだったっけ。充電器に繋ぎながら確認するも、ブラウザとSNSアプリのみ。うーん、まぁいいか。

「ほら、顔洗ってこい。朝食用意してるから」
「はぁい」

なんだか零さん、すっきりしたような顔をしている。昨日は闇を滲ませた目をしていたのに、憑き物が落ちたかのよう。言われるがまま洗面所へ行けば、首筋についた跡に言葉を失った。歯型にたくさんついた鬱血痕。パジャマから出る肌には必ず跡がついていて、嫌でも目に入るそれらは顔に熱が集中した。

「零さん!!の!ばかっ!!」
「ん?」
「こ、こんなにつけて!痛いし!外出られない!ばか!」

朝食の用意をしている零さんにタックルをする勢いで突進し、首元のそれらを指差すと零さんは楽しそうに笑った。なんにも楽しくない!

「襲わなかっただけいいだろ」
「よくない!ばか!」
「ちょっとそこは噛みすぎたな、ごめん」

ごめんとは言っているけれど、とっても楽しそうだし満足そうだ。ぽかぽか叩くけれど、鍛えられた筋肉はびくともしない。むしろ叩いている私の手が痛い。恥ずかしくて涙が出てきた。

するりと零さんの指先が噛まれたところを撫でた。びくっと大きく反応してしまい、更に顔が赤くなってしまう。じっとそこを見る零さんの瞳には、何が滲んでいるのだろう。少なくとも、昨日見た辛そうな色は見えなかった。

「…お詫びになんでも言うこと聞いてください」

むっすりと拗ねながら言えば、すんなりと了承の言葉が返ってくる。なんでも、なんて軽率に使っていい言葉ではないのは零さんもわかっているはず。本当に、本当になんでも言うことを聞いてくれるらしい。

なんでも、と自分で言ったもののすぐには思いつかなかった。噛まれた跡は確かに痛いけれど、嫌いだから噛んだものじゃない。好き、って感情表現の一つだって知っているからすごく怒ってるわけではない。拗ねた程度だというのも、きっと零さんにもお見通しなのだろう。

なんでも、なんでも、なんでも。頭の中でぐるぐると単語が回っていく。欲しいものを買ってもらうのは違う気がした。零さんになんでもしてもらえる。今日だけはわがままを許してくれるかな。ううん、きっと零さんはいつでも許してくれるけれど。私が許してないだけ。

「…じゃあ」
「うん」
「今日、一緒に…いてほしいです」

蚊の鳴くような小さな声で俯きながら言葉を絞り出した。警察のお仕事も、安室透としての活動でも忙しい零さんにこんなわがまま言っていいのだろうか。だって、こんなに忙しいのだから一日も休める日だなんて好きなことをしたいに決まってる。やっぱりだめだよね、と慌てて顔を上げればぎょっとした顔の零さんが私を見ていて思わず退きそうになる。

「おま、えは…」
「や、やっぱりだめでした?ごめ、」
「はぁー…」
「ひょわーっ!!」

のしかかるように抱きしめられ、思わず逃げようとしたけれどがっしり拘束をされてしまって逃げられない。つま先立ちになり、強く腕の中に閉じ込められた。同じ柔軟剤の匂いに、首筋にかかる吐息。沸騰どころか蒸発してしまいそうだ。
リップ音と共に首筋に唇が落とされ、頭がショートした。もうだめ、と目尻に滲んだ涙が一つこぼれた。

「…いつも、我慢させてごめん」
「突然どうしたんですか…零さん」
「もっと…わがまま、言っていいんだからな」

そんなこと言われても、たくさんわがまま言っているのになぁ。
しばらくして落ち着いたのか、息を吐いた零さんにようやく解放されると肩の力が抜けた。その瞬間を狙ったかのようにひょいと抱き上げられ悲鳴がもれる。一気に見下ろす形になってしまい、バランスが取れず咄嗟に零さんの首元に腕を回す。おそるおそる零さんを見つめれば、なんだか楽しそうだ。

「さ、朝食にしようか」
「え、あの、このまま?」
「一日一緒ってご所望だからな」

え、まさか一日このまま?
離れようと肩を押してみるけれど、やっぱりびくともしなかった。






2018/06/08