あの事件?があった後、私はしばらくポアロに行かなかった。が、すぐに安室さんから鬼電が来て何度も心臓が飛び出た。こわい。

本気という安室さんの真意がわからない。ただ、あのぬるま湯のような曖昧な関係を続けていたかった。だってそれが、一番心の平和に繋がっていたから。だからきっといつものジョークだと頭に言い聞かせる。


私はお店の混む時間帯を狙って訪れた。行ったけれど空いていなかったと言い訳をするためである。悲しいことにタイミングがいいのか悪いのか、席が空いてしまい私は席へドナドナされていった。と言っても、忙しい安室さんとは軽く話をしただけで、頼んだ飲み物を持ってきてくれたのは梓さんだった。この前のことがあるから少し気まずい。それは彼女も感じていたのか、言いにくそうに言葉を探していた。

「あの…この前はごめんなさい、お邪魔しちゃって…」
「!ち、違うんです。えと…目にゴミが入っちゃって、見てもらっていただけなんです」
「え?でも…」
「目にゴミが!」

もにょもにょと何かを言いたそうだったけれど、私の勢いに負けたのか納得してくれた梓さん。いい人だ。

梓さんはかわいくて、私と同じくらいの年だ。優しくて少し天然で、素朴で素敵な女の人だ。ポアロの美人店員さんだと雑誌にも掲載されたほど。
横目で見えるしっかりと長い髪を巻いた綺麗なお姉さんや、かわいらしい黒髪の女子高生、ボブの女の子たちはみんな安室さんに釘付けだ。選び放題だ、彼にはその権利がある。

こんな何の取り柄もない私が、選ばれるはずがない。わかっていたはずなのに、その事実を理解するたびに胸がチクリと痛む。わかっているのに。優しいからジョークに付き合ってくれる。わかっている、はずなのに。

思い出すのは、この前の出来事。唇に触れた柔らかい感触。何度叫びそうになって、枕を投げつけたのか。未だあの行動の真意がわからない。けれど、真意を聞く勇気はなかった。

「お会計お願いします」
「えっもう帰っちゃうんですか?全然安室さんとお話とか…」
「いえ、いいんです」

戻りたいと思ったのがダメだったんだ。結論が出れば行動は早く、私は足早にポアロを後にしていた。

休日はいつもポアロに足を運んでいた。これからどうしよう。休日の人混みに飛び込むのは少し億劫だし、家に帰ってのんびりするのが一番かもしれない。少しずつ、忘れていけばいい。いい思い出だったと。



いつもの帰り道と景色が違う気がした。いつもの道を歩いているのにどこか違う。分厚い雲で覆われた空は暗く、あと数刻したら雨が降りそうだった。

「なまえさん!」
「!あ、安室さ…」

急に後ろから手首を掴まれた。大げさなくらい肩を跳ねさせた私の後ろで少し呼吸の荒い彼は、走ってきたようで衣服が少し乱れている。まだ勤務時間中のはず。なんでここに、と目を見開く。

「逃げないで…」
「!」

真っすぐに降りかかった言葉に目を見開く。じっと私を射抜く瞳から目が離せない。掴まれた手首が熱い。脳が警鐘を響かせる。これは踏み越えてはいけないラインを踏んでいると。

「貴女に会えないのは、耐えられない」
「……」
「この前のことが、原因ですか?」
「わたし、は…」

ぐっと近づく安室さんに、近づいた分退く私。手首を掴まれているだけのはずなのに、何故か逃げることができなかった。痛いくらいの視線が怖い。逃げたいと叫ぶ心をぐっと押さえつけ、掌に力を込める。

「もう、貴女の嫌がることはしません。ですから…」
「あ、むろ…さ…」
「貴女は、どうしたら僕の傍にいてくれますか?」

そっと、壊れ物に触るように肩を掴まれる。その手を振るほどけるはずもなく、激しく脈打つ心臓が安室さんに聞かれないよう願うばかりだった。

ここで、もう会わないといえばいいのに。安室さんの真意がわからないからとか言い訳せず、手を振りほどけばよかったのに。だって、なんでもできてかっこよくて優しくて完璧な彼に選ばれる人はきっと。私とは違ってモデルのように容姿が整っていて頭もよくて性格もよくて完璧な女の子。私じゃ隣に立てない。

それでも、少しの間だけでも。彼がそんな女の子に出会うまでの間だけでも。…彼の近くに、いてもいいのかな。許されるかな。

「また…前のように、お話したいです」
「…前のように、ですか」
「だめ、ですか」
「いえ、とんでもない」

急ににっこりと笑顔を浮かべた安室さんはどこか嬉しそうだ。先ほどの切羽詰まった切なそうな顔はどこへやら。にこにこと私に微笑み、気づけば手を握られている。あたたかい。これもまた、ジョークだろうか。

「…つまり脈はあるということだな」
「?生きてますけど」
「ふふ、脈拍でも測りますか?」



2018/04/22