「降谷さん」
「駄目」
「安室さん」
「他の男の名前じゃないか」

むすっとした降谷さんに心の中で自分じゃないかとツッコミを入れる。
降谷さんは、外では安室透として行動しているらしい。性格も変えているらしく、大したものだと思う。外ではそっちの名前を呼ぶように言われたのは記憶に新しい。
この攻防が始まったのは突然だった。お前はこの家に住んでいるのだから降谷じゃないか、と。何を言っているんだろう。


「あむ」
「違うだろ」
「ふるぴ」
「名前」
「透」

ぎろり、と目つきの悪い瞳で睨みつけられた。こわい。どうしてそんなに名前呼びにこだわるのだろう。今まで通り、降谷さんと呼んではだめかな。馴染んでしまった。

「お前は俺の家に住んでいるだろ?」
「無理やりですけどね」
「お前は宅配が来ても出てはいけないけれど、もし宅配が来たとするする。俺宛の荷物だ。判子はない。なまえはなんてサインを書く?」
「そりゃ…降谷さんの…名字を…」
「だろう?つまりお前は降谷なんだ」
「何を言っているんですか??」

ついに降谷さんの頭が壊れた。じとりと降谷さんを見るも、彼は真剣な表情で私を見つめている。デジャヴュを感じた。

「……零さん」
「…ああ」

そんな、幸せそうな顔をされたら。名前で呼ばざるを得ないじゃないか。
とろりと溶けたように目が細められ、言葉が溶かされたように感じた。降谷さんはずるいなぁ。相当好き勝手しているのに何も言えない。


降谷さんは完璧な人だ。そりゃあ人間なのだから弱点だってあるけれど、ほぼ無いに等しい。勉強も運動も人当たりも人心把握も、料理もギターも何もかも。本当に彼は何でもできる上にかっこよくて頭の切れる賢い人だ。
お兄ちゃんも同じくらいすごいけどね。

だからこそ、降谷さんは何故私を選んだのかと悩むことが何度もある。運動音痴だし勉強は苦手だし、人見知りだし騙されやすいし料理もできない。音楽はギターの得意なお兄ちゃんにドレミを教わったくらいだ。

美人で頭も良くて器量もよくて、それこそ降谷さんほどとは言わないけれど完璧で綺麗な女の人に出会っているはず。なのに、何故私を選んだんだろう。降谷さんは浮気をするような人じゃないし。

「どうかしたのか?」
「いえ」
「嘘だな」

その言葉に肩がはねたのも、彼は見逃さない。突き刺さる視線から逃げられず、逃げ道のない空間に小さくため息をついた。降谷さん、いや、零さんに勝てるはずがないのだ。

「零さん、なんで私と付き合っているのかなって」
「…は?」

声色が変わった。これは誤解をさせてしまった、とあわてて手を振り否定を表す。どんな顔をしているのか見るのも恐ろしく、目も合わせられないまま言葉を連ねた。錆びた鉄のような脳の回転では、単語がぽろぽろと落ちるだけ。

「ち、違うんです。私なんかより綺麗でかわいくて頭も良くて、なんでもできる完璧な人たくさんいるのにって…」
「俺はそういう女と付き合いたいと言ったことがあったか?」
「な、ないです…でも、降谷さんなら、もっと……選べたのに」

自分で落とした言の葉が深く胸に突き刺さる。滲む涙は零れはしなかったものの、ツンと鼻を刺激する。

降谷さんの隣に立つのにふさわしいのは、容姿端麗で成績優秀で才色兼備な女性だ。私みたいな才色兼備の正反対のちんちくりんは、似合わない。

たまにはそういう女の子と付き合いたいのかと思った時期もあったけれど、降谷さんはそんな人じゃない。だから余計、謎が深まるんだ。

「名前」
「う、いひゃい」

ぐっと片頬を引っ張られる。手加減はされたとは思うけれど、いかんせん彼は元から力が強い。力が強い人の手加減は、虚弱には懇親の一撃なのだ。

ヒリヒリする頬をさすっていると、思っていたよりずいぶん距離の近い降谷さ、…零さんの顔があった。零さんは優しく微笑み私を見下ろしている。

「なまえだから、好きになったんだ」
「…んん?」
「そりゃ、彼女の理想とかあったけどな。…でも、俺が好きになったのはなまえだ。」

恋人繋ぎのようにするりと指が絡められる。柔らかい手つきにびくりと震えると、すぐ耳元から零さんの声がふりかかる。

「それに、充分なまえはかわいいよ。こんなかわいいやつはそうそういないからな、人間国宝に指定したいくらいだ」
「あ、ありがとうございます…?」
「ほら、そういうところ」

零さんが終始優しい顔をしている。自分がかわいいとは思えないけれど、戸惑いながらお礼を言うとぷすりと頬に指で突かれる。

「ドジで忘れっぽくて騙されやすくて、気を使いすぎだし出来ないことも多いけど…それも引っ括めて愛してるから安心しろ」
「は、はぁ…」

なんかさらっとすごいこと言われた。急に沸騰したように顔が熱い。きっとにこにこしているだろう零さんの顔が見れず、私はずっと握られたままの手を見つめていた。

「それに…お前は、俺が絶対に守るから」

声の色が変わった気がした。急に強く手に力の込められる。痛くはないけれど、思わず零さんを見上げると、見たことのない顔をしていた。

悲しそうな、辛そうな、でも固い決意を持った真っ直ぐな瞳。その瞳に滲む色の正体を私は知らない。




2018/04/25