プロローグ
「皆さん、おはようございます。『おはようレベリオ』の時間です。まずは天気予報からお伝えします。本日は晴れで、午後はところどころ雲が多くなるでしょう。最高気温は──」
リリーはまだウトウトしながら、ゆっくりトーストにかじりつく。ベーコンとレタスが乗ったトーストに牛乳。白いお皿の上には、ちょこんと小ぶりなブロッコリーとミニトマトが添えられている。うへえ、ブロッコリーにがてなんだけどなあ。ちらっとママの方に目配せすると、もうせっせかコップを洗っていた。リリーのちいさなため息は水の音に紛れて、特に咎められることは無かった。パパが帰ってくるころには食べられるって約束しちゃったし──パパはたとえリリーが食べられなくても怒ることはないだろうけど──がんばってみることにした。
ブロッコリーって、まず名前からして良くないわ。それに、青々としたまるまる一本の木みたいで、かわいくない。それでもおそるおそる、ブロッコリーを口に運ぶ。
リリーがもぐもぐと朝食を摂るあいだにも、ニュースはつづく。
「さて続きまして本日のニュースをお伝えします。現在の戦況についてです。女型の巨人の活躍もあり、マーレ軍は防御線を破り敵国南部の解放に成功し、敵軍は押し戻されていきました。敵国東部では激戦が続いていますが、マーレ軍が持ちこたえ、攻撃の多くを退けています。レベリオの皆さん、今こそ祖国マーレにご恩を返す時でございます。今日も一日、愛しき祖国のために働きましょう」
「次のニュースです。本日未明、中東連合の──」
まあたセンソー。
サクリサクリとトーストをかじり、ミニトマトを口に放り込む。
リリーが物心ついてからずっと、この国には常に軍靴のおとと硝煙のにおいがまとわりついていた。パパは帰ってきたと思ったらまたすぐセンソーに行って、また戻っては戦地に赴くのだ。おかげで教えてもらえるって約束したギターは相変わらず教えてもらえずじまいだし、ベッドの下のケースで埃かぶったままねむっている。
リリーは、パパとご近所さんで奏でる音楽が好きだ。お腹が満たされた夜――もちろん外出時間を守った時間――に決まって誰かがアコーディオンを持ち寄り、歌と踊りを楽しむ。パパはこのレベリオの中でも有名なギター奏者で、歌を生き甲斐にしている。その血を受け継いだリリーも同じく、暇さえあればあのちいさな大合唱を思い出すのだ。
その中でも、年に一度に行われるささやかなお祭りでよく演奏される「レベリオのポルカ」が、リリーはいちばんすきだった。
「それではここで一曲、ミラ・ボネの『進めよ、同志諸君』です」
ひゅっと、リリーは息をとめそうになる。おびえているのではない、好きなものが訪れるからだ。
トランペットから始まる前奏。歌声は、そう。耳だけじゃなくて、肌にも、その奥深くまでにも染み透るような。つややかで繊細なソプラノだ。いつまでも聴いていたい。いつまでもその音の中に浸っていたい。そう思えるような魅力が、ボネの歌にあった。歌詞はしょうじき、教科書に書いてあるばかりのことだけど、歌声とその旋律は心の奥まで届く。
ほんとうに、すてき。ため息が出るほどすてき。
どんなに甘いキャラメルや、どんなにきれいなお洋服よりも、すてき。本当はもっと色んな言葉で表したいのに、リリーはうっとりとしながら「すてき」としか言えない。
いつか、「レベリオのポルカ」がラジオにも流れて、ミラ・ボネも歌ってくれたら、きっと外の人たちもこの良さがわかってくれるはず──。
「リリー! 間に合わないわよー!」
ママの声がリリーを現実に連れ戻した。
──ああ、いけない、わたしったら! こんなこと、ぜったいに、誰にも言ってはいけないわ。エルディア人のくせに、夢見がちなんだから。
ママの、こういうのときの「間に合わない」はたいていまだ間に合えて、三回目の「間に合わない」がほんとうに間に合わないのだ。
急いで牛乳を飲み干して、「ごちそうさま!」とお行儀よく言ってから食器を片付ける。
変なこと考えちゃった。ふだんはこんなこと、思いつきもしないのに。リリーは急いで支度を始める。今日は熱もないことだし、学校に行かなきゃ。そろそろ準備しないと、本当に間に合わなくなってしまうわ。
リリーは鏡台の前に座り、じいっと自分を見つめる。ママ譲りの鳶色の目に映るのは、パパ譲りの赤い髪と、昔からほのかにあるそばかす。リリー自身は大好きだけど、クラスの子にからかわれるたび、ほんのちょっと、ちょっぴりだけユーウツ(すっごい落ち込んじゃうってことだっけ? 前に本で読んだの)な気分になって、リリーはもじもじと爪先を立てたりかかとをあげたり、足をブラブラ揺れさせたりしていた。
「リリー、支度は済んだの?」
「うん」
上の空で返事をすると、ママはへにょっと眉を下げてリリーの頭を撫でる。
「三つ編みがほどけているわ」
リリーは途端に顔に熱がこもった。わたしったら。リリーは直そうと思ったら、先にママが髪をササッと梳かして、丁寧だけど早く編んで、見事な三つ編みを作った。
「もう、ちゃんと気をつけるのよ? リリー、私のちっちゃなリリー、今日も頑張っておいで」
「はあい」
ハグをして、ママはリリーの柔らかいほっぺに口づけを落とした。リリーもママの頬に口づけを返す。もうママったら。わたしだって、普段はそういうことに気をつけてるんだから!
───コンココン。
特徴的なノック。今日はそっちの方が先なのね!
リリーは椅子から飛び下りる。腕章よし、服装よし、髪型よし! ママがそっと微笑む。
「ほら、マルセルくん達がきてるわよ」
「行かなきゃ! いってきます!」
「行ってらっしゃい、リリー」
ドアを開けると、廊下に少年が二人立っていた。リリーは小走りで駆け寄る。少し遅れてしまったわ。
二人は何か話しているようすだったが、リリーを見た瞬間、パァーっと顔を綻ばせた。
「おまたせ」
「遅えよバカ」
「うるさいチビ」
「二人とも喧嘩しない! 行くぞ」
「「チッ……」」
なんでポルコにこんなことを言われなきゃダメなのよ。
「行 く ぞ」
「「はあい」」
圧に負けて、しぶしぶ歩き出す。
やさしい方がマルセルで、少しいじわるな方がポルコだ。一つしか変わらないのに、自分より大人びているマルセルは素直にすごいって思うし、素直で物怖じしないポルコも羨ましいと思う。二人ともリリーの幼馴染だ。物心着いた時から、三人できょうだいのように育ってきた。ポルコはわたしのことをバカとか言うけど、わたしの方が背だって高いんだから! あのチビ! けっ!って思いながら、リリーはポルコのほうをにらむけど、ポルコはすぐそっぽを向いた。何あいつ。
リリーは、自分のことをレベリオの中でいちばん幸せな子どもだと思う。いちばんじゃなくても、十番には入ると確信している。目の下に散るそばかすはちょっとコンプレックスで、ギターはまだ弾けないけど、面白いパパと優しいママと幼馴染(ちょっぴり口が悪いやつも入れて)がいれば、リリーはじゅうぶん幸せだと感じる。でも、ちっちゃなリリーにだって、ちっちゃな悩みくらいはある。だけど、それでリリーが不幸せというのは、何か違う。
朝市を通って、水たまりを避けて歩く。派手な徴兵のポスターは光に当てられて、見えにくかった。花やら野菜やら、あざやかな色が目に映る。やわらかな朝日はまだ露の残る花をちらちらと照らし、風には新鮮で陽気な花の香りが混じっていた。パンが焼ける心地いい匂いもする。遠くで鳴る鐘の音、それにしゃべり声。あたたかく、ささやかな活気が収容区を包んでいた。
「今日の給食はなんだろうな?」
「パスタかな?」
「おれはスープだと思うぜ」
「じゃあ学校までかけっこしようぜ! 先についたほうが、パンを半分よこせよ」
「言ったね!」
なんてのことの無い一日。見上げれば飛行船も何隻か飛んでいる。
壁の向こうにセンソーが起きているとか、とてもじゃないけど信じられない。ああ、センソーなんて早く終わって、パパも帰ってくれば良いのに。そしたら、ポルカの弾き方だってわかるのに。
先をゆく幼馴染たちの髪が、光に透けてきれい。リリーも置いてかれないよう、ポルカの旋律を口ずさみながら、レベリオの街を駆けてゆく。風で髪が頬にあたってくすぐったくて、もっと地面を蹴った。
──いつまでも、この暮らしがつづくといいなあ。
もうすぐ五歳になるリリー・ヴェルナーは、そう思っていた。