直毛ストレートになりたい。

 元から特筆するほど、何かずば抜けているものがあるわけではない。
 人並みに体を動かすのが好きで、人並みに勉強が苦手で、強いていえば手先が多少器用であることだろうか。昔から繕い物をしたり、折り紙で遊ぶのも決まって私だった。兄の物の扱いがあまりにも下手だということも相まって、細かさを問われる仕事は主に私の領分だ。しかし勉強はからっきしな私とは違い、兄は机にかじりつくことができるので、世の中はこうして均衡をうまく保っているのだと思う。

 ――そう。二度言うが、世間はこうして均衡を保っているのだ。天は二物を与えずとは言い得て妙で、良いものと釣り合うように必ず悪いものも付け加える。できた神様だこと。
 しかしながら、与えられたものに不満を持つことだって、当然ある。
 たとえば、この癖っ毛のように。

 「やっぱり、きれいねえ」
 
 人並みにきれいなものは好きだ。
 目の前には高く結ってあるポニーテール。はらりと弾むたびに、光がうつろぎ艶やかさを際立たせる。私の何気ない一言は思っていたよりも響いたようで、前の少年からはん?と返ってきた。
 
 (ほんとに、いつどう見てもサラツヤストレート。それに比べ、私のはなあ……)
 
 くるくると自分の髪の毛を指に巻いてみてはため息をつきそうになる。私は全く正反対、晴れの日でも要注意なボンバーモジャモジャだ。私は癖っ毛であって、断じて! 天パではない。雨の日は不規則にうねるし朝の準備は人一倍時間がかかるし、めんどくさいことこの上ない。
 だから目の前のサラツヤストレートを見る度、私はいやでもコンプレックスを自覚することになる。
 しかし教本に向かっている彼はそんなことも露知らず、呑気にそうか、とか言ってくる。腹立たしくなって髪を指でくるくるしてやると、絡むことなくちゅるんとほどけた。なんなのこの天然ストレート。

「アンタっていったい何使ってるの? TSUB○KI? HIMAW○RI? あ、もしかしてヅラなんじゃ」
「ヅラじゃない桂だ!!」
「ごめんて。……それにしても、ほんっとうにきれいねえ」
 
 ポニーテール部分に櫛を滑らせてみると、すぐに毛先までよどみなく流れた。艶のある黒髪は女の私から見てもいっとう綺麗で、村塾中の女子はみな一度は羨ましがったことがあるほどだ。我らが村塾一の秀才はようやく教本を机に置いて私の方に向いてくるので、若干の名残惜しさを感じながらも、彼の髪から手を離した。

「一通りはいじってきたけど、一番きれいだと思うよ」
 事実、一回は村塾中の子たちの髪をいじってきた。松下村塾の髪狂いとは私のことである。編み込み、お団子なんでもおまかせあれ。ヘアゴムなんてなくても筆一本でまとめてみせる。ゆるふわならばさーやんだが、サラツヤといえば小太郎くんだ。松陽先生は殿堂入り。先生の髪は光を溶かした絹糸のように、太陽の光を受けてその色にきらめく。持ってきた野菜を喜ぶ笑顔もポイントが高い。持ってき甲斐がある。

小太郎くんの口元がふっと緩んだ。
 
女子おなごはずいぶんと髪に情熱をかけているんだな」
「だいじだもん。女の命って言うでしょ」

 私とて、いつまで経っても山遊びしているような子どもではない。女の子らしく、髪とか、身だしなみが気になるお年頃なのだ。あーあ、私もストレートがよかった、としょっちゅうこぼすくらいには、全世界の直毛が羨ましい。私にもその遺伝子がほしかった。しかし残念ながら我が家は由緒正しき癖毛一家で、婆ちゃんも父ちゃんも兄ちゃんも私もみんな癖毛だ。こちらを訝しむ様子の小太郎くんはきっと由緒正しき直毛一家の出なのだろう。ちくしょう。

 わざとらしく髪を指に巻いてみせると、彼はああ、と察したような顔をした。
「ほら、癖っ毛なの」
「銀時といっしょか」
「天パと一緒にしないで。癖っ毛と天パは別物ですぅ〜。あいつのは性根の悪さが毛根まで滲み出ているの。私のは違うの!」

 私は! 決して! 天パじゃない! 人のだんごを横取りするヤツと一緒にしないでほしい。確かに雨の日は毛量が二倍になるし小太郎くんの髪が死ぬほど羨ましいのは一緒だけど、モテない理由を髪質のせいにしている輩とは違うのだ。

「同じようなものではないか。それにパーマをかけずに済むのだから良いだろう」
「ウッワ……」
 ――この人、地雷をドンピシャで踏み抜いてきやがった。
 
 小太郎くんは認めた方が楽だ、だとか、ゆるふわパーマとか今流行りで良いではないか、だとかほざいてくる。「フルコンボだドン!」という副音声も付いてきそうなほどの暴言(本人は無自覚)の達人だ。だから天パじゃないって。パーマになりきれないから困ってるんだよ。
 このままだと小太郎くんはいつか、というか絶対癖っ毛の同志に殺される。将来夕方のニュースで友人の顔を見るのは御免こうむりたい。もっとも、通り魔に刺されるどころか、特定の誰かの恨みを買って刺されそうだけど。

「それにストレートにもストレートの悩みがあるのだぞ。汗をかけばぺちゃんこになるし真っ直ぐすぎてボリュームが出ない……痛い! 痛い!」
「小太郎くんそれ他の人には言わない方がいいよ私はべつに気にしないけど特に銀時くんね」
 
ガッ! とうんうん頷く小太郎くんの肩を掴む。驚いたのか、小太郎くんの瞳は五百円玉みたいに大きく見開かれており、ぐらりと揺れて、澄んだ色がよく見える。心なしか冷や汗をかいていて、どんどん顔が青ざめていった。でもきっとなんで私がこう言うのもわかってないのだから、本当にタチが悪い。
 あのね、ゆるふわパーマになれるのは一部の運の良い人たちだけだよ。あとそれ、悩みじゃないから。ただの贅沢ね。

 そう言ってやおら手を離してやると、小太郎くんはむう、と擬音がつきそうな感じで頬を膨らませた。それで女の私よりも様になるのだから、神様はきっと女子力の配分を間違えたのだろう。

「むうじゃない」
「俺は正論を言っただけだ! それ以上憎まれ口叩くなら毛根もねじ曲がってしまうぞ!」
「正論でも耳障りなときはあるの! てか毛根ねじ曲がってねーし! ハゲさせんぞ!」
「暴論じゃないか! 髪だけじゃなくて性根も曲がっておるぞ!」
「曲がってねーよ! うねってんだよ!!」

 ギャアギャア騒いでいると、小太郎くんはすぅーっといたずらっぽく目を細めた。何かが込み上げてきているようで、頬が柔らかに吊り上がり、半開きの口は白い歯を覗かせている。得意げな笑みだ。こういうときは、たいてい良いことがない。問題児二人に隠れがちだが、彼も立派なクソガキなのだ。喧嘩っ早いクソガキたちに挟まれているからマトモで常識人っぽく見えるだけで、本人はとんだ電波野郎である。堅物そうな外見が余計そのイメージに拍子がかかる。詐欺だ詐欺。訴えたら勝てる。

「なァ」
「やだ」
「人の話を聞けェ貴様」
「アンタが言うのそれ」
「俺もお前の髪、いじってみて良いか」
「えー」
「えーとは何だ」
「小太郎くん不器用じゃん……」
「お前と比べればみなそうだろう」
「そう? ま、どっちでも良いけど」
 
 むしろ新鮮だ。しかし今の髪の長さでは縛っても小さいしっぽくらいにしかできないので、そこは小太郎くんの腕の見せ所である。こちらに移動してくるので、少しスペースを作って後ろを向く。髪を自分以外の人に結ってもらうのは二年ぶりで、それが母でないことは初めてだった。
 
 束ねようとしているのか、髪が軽く引っ張られる感覚がする。
 ふいに、小太郎くんが尋ねてきた。

「髪結いになりたいのか?」

 かみゆい。
 私にはほど遠いような響きだと思った。
 
「……考えたこともなかった」
「俺はてっきり、お前は髪結いになりたいのかと思っていたぞ」
「全然。いじるのは好きだけど、生業にしようとはしなかったかも」

 侍という、立派な志を持った彼を目の前にすると、特別なにかの目標を持っていない自分が、少しばかり恥ずかしくなる。そりゃ、この寺子屋には現に私と同じような、農民の子どもたちが先生に師事していることだって知っているし、優しい彼らは決して私を笑うわけがないことは、痛いほどわかっている。けれど自分の小さすぎる夢を語るには憚れる気がして。
 道場破りして今では立派な門下生の晋助くんといい、一番古株でサボり上等の銀時くんといい、彼らは日々己の剣を鍛えている。それなのに何の志も持たない自分が、ひどく、みじめのように思えた。
 目標を持っていない自分が恥ずかしければ、大切な仲間さえも疑ってしまう己の|性《さが》も恥ずかしくなる。そうして私はいつもわずかな後ろめたさを抱えているのだ。
 (――ほんとうは、ぼんやりとある)
 なんとなくだけど、ここを卒業したら、家業を手伝うのだと思う。そんな日常がずっと続けば良いと思う。
でもここではっきり言葉にしないと、私はたぶん、この先胸を張って言い出せない。
 そう思って私は、はく、と息を吸い、

「痛いんだけど!?」

 まずは頭皮の不快感を訴えた。

「む、すまぬ。長さが足りなくて。引っ張ってるんだが」
「アンタが引っ張ってんのは私の頭皮!髪どころか頭皮だから!」
 
 ミシッ。
「今変な音したよね」
「いいいいや、そんなことはないぞ。断じて」
「いやあるでしょ。髪からしちゃいけない音がしたよ。アンタ何か隠してるよ」

 恐る恐る後頭部を触ってみると、小さなしっぽどころか、モジャがモジャモジャボンバーしている有様だった。コレどう結んだの? ひもがかわいそう。こうにはならなくない?

「仕方ないだろう、長さが足りぬのだから」
「こうにはならない。ならないったらない。てかほどけそうにない」
「どれ、任せてみろ」
「アンタに任せたらもっとひどくなるでしょーが」
 
 整うどころか、レベルMAXの乱れ髪じゃないか。身の回りのことは一通りできるそうだけど、やっぱり細かい作業は苦手のようだ。いやホントにどういう結び方をしたらこうなるの。ため息が出そうになる。

「はぁ……伸ばすか……」
 伸ばせば多少やりやすくはなるだろう。頭皮まで引っ張られることもないだろうし、何より元から伸ばそうと思っていたのだ。
 
 ため息混じりでどうにか解いて髪を整えていると、小太郎くんは満足げに笑っていた。付き合いが長くなってきたとはいえ、まだまだこの人の考えていることがよくわからない。銀時くんや晋助くんなら分かるのだろうか。少なくとも私よりは仲が良いはずだろうし。
 つーかこれやりにくいな。あ、やっと解けた。
 
 ふいに、清らかな瞳がまっすぐ私を見ていることに気づく。目尻がかすかに下がっており、機嫌の良さそうな口元はうっすら弧を描いていた。その顔はいつものふざけている様子よりも大人っぽくて、私は思わず息を呑んだ。

「俺は好きだぞ」

 ――とくん、と。
 心臓が大きく跳ねた。何なら目眩もした。
 
 うん、あの、癖っ毛のことよね。誤作動よね。
 返事をしようにも、胸の高鳴りが落ち着いてくれない。口を開けば心臓が飛び出てしまいそうだ。必死に口の裏側の肉を噛む。喉はとっくにカラカラ。声が裏返ってしまう。唾を呑む。急激に上昇していく体温が、他人から見てわかる形なのか心配になってきた。何かが弾け飛びそうなのをじっと堪えて、不自然にならないよう口を開く。

「っ、ハイハイ」
「ミーコと同じ触り心地でな」
「猫と一緒にすんのかい」

 (まったく、この人の天然には困る!)

 危うく勘違いしてしまうところだった。笑顔といい、口ぶりといい、何とも思わせぶりだ。将来刺されるとしたら、きっと原因は痴情の縺れだろう。それ以外にあり得ない。小太郎くんは暴言の達人ではなく人たらしの達人だ。間違いない。
 まともに顔なんか合わせたら、いよいよときめいたことがバレてしまう。ぜったい揶揄われる。いや、変なボケをしかけてくるかもしれない。どちらにせよ、避けたい。というか、避けなければならない。

「あーもう、お手本見せてあげるから、後ろ向いて」

 結局私は面はゆい気持ちになって、志にも満たない微かな願いを手遊びに込めるようにした。小太郎くんはポニーテールばっかりしてるのでハゲるハゲるぜったいハゲる。ハゲハゲの実でも食べれば良いんだ。ハゲ。……ハゲのゲシュタルト崩壊が起きそうになるからやめておこう。
 答えがわからないものにぶち当たった時は単純作業だ。目の前のものに集中できるから、何も考えずに済む。
 
 絹糸のような黒髪に櫛を何回か通し、くるりんぱして、髪の束を均等に三つに分けて編んでいく。
 こうして見ると、光の加減でほのかな青みが浮いてくるので、つくづく彼の黒髪は墨よりも繊細な色をしていると思う。つやつやとしているから、一見|射干玉《ぬばだま》のようにも思えるけど、改めてみると烏の羽に似ている。

 「こっち持ってて」
 はらりとこぼれる一筋すら鮮やかな黒だ。
 人並みにきれいなものは好きだ。しかしそれくらいで気が治るものか。私ばかり振り回されて、なんだか、気に食わない。三つ編みをしながら、変な意地みたいなものふつふつと湧き上がってきた。
いつかその澄まし顔を剥がしてやる。私はある意味での意趣返しも込めてつぶやいた。

「やっぱさ、小太郎くんっていつか刺されそう」
「急に何だ?」
「刺されるね。痴情の縺れでグサッと行かれるよ」
「なっ、俺はまだサチコさんに手を出していないぞ!」
「てことはする予定はあるんだ。サイテー。聞きたくなかったなァー」

 近所の人妻に劣情抱いてんのかよ。確かに向かいの二つとなりのサチコさんは美しい人だ。惚れるのもわかる、わかりたくないけど……と言いたいところだが、バカだ。散々言ったけど、この人はただのバカだ。真っ直ぐなのが髪と理想くらいしかない。甘味野郎とヤクルコ野郎と仲良く三馬鹿できるのはこいつしかいない。

「そんな刺されそうな小太郎くんのために、私が一生、味方でいてあげます」

――だけどそんなバカに、絆されているのも事実で。
 つまるところ、私は小太郎くんに辛い目にあってほしくないのだ。前に、彼が一人で広く高い天井を見上げているのを見たことがある。確か、先生も銀時くんも晋助くんもたまたま居なかった日だ。ぼんやりと木目を数えるそのさびしさには見覚えがあった。狩りに行っている父と兄の帰りを待つとき、婆ちゃんが町の方まで出掛けているとき、家でひたすら鶴を折る私に似ている。
 何といえば良いのかわからないが、小太郎くんが一人ぼっちなのを見ていると、私までなんとなく寂しくなる。だからなるべく刺されない、人に囲まれるような生活を送ってもらえると、うれしい。
 今は小太郎くんの顔こそは見えないが、きょとんと心底不思議そうな顔をしているに違いない。わからなくても良いと思った。私だけ分かれば良いことだ。
 
「まさかサチコさんのことがここまで伝わっていたのか」
「ねえホントなの? 友達のそういう事情知りたくないんだけど」
「しかし味方とは悪くないな。旦那さんに追われた時は匿っておくれ」
「なに人を巻き込もうとしてんだ。ハゲさせんぞ」
「味方なのだろう?」

 耳朶を打つ声音が、あまりにも切実でなければ。優しい響きをしているものでなければ。……私は無かったことに、できたのだろうか。
 不誠実なことだと知りながらも、私は視線をずらして畳の目を見る。|藺草《いぐさ》が整列している数を数えれば、多少気も紛れるはずだ。そうでもしないと、心臓が再び誤作動を起こしそうだった。

「……そうだよ」
「ふははは! よろしく頼もう」
「はい、こっちも持ってて」

 思いっきり引っ張ってハゲさせれば良いものの。彼は私がするはずがないと十中八九踏んでいるのだろう。余裕というものを感じる。小太郎くんは後から入ってきたのに、私の方がまるで後輩みたいだ。
持ってもらってた髪も含めてまとめれば、ファッション誌で見たヘアアレンジそっくりになった。

「できたよヅラ子ちゃん」
「ヅラ子じゃない、桂だ!!」
「ヅラ子もいけるって」
「おや、綺麗にできていますね」
 
 柔らかい声が落ちてきた。松下村塾ストレート選手権殿堂入りの松陽先生だ。

「松陽先生!」
「先生!」

ひまわりみたいに背が高い先生が、ふわりと微笑んだ。興味深そうな様子で、まじまじと小太郎くんの髪を見つめている。ふふん、存分に観察してほしい。力作である。

「君は手先が器用ですね」
「そ、そうですか? えへへ」
「感心しましたよ」

 自分の口元は、きっとだらしなく上がっていることだろう。直球な褒め方をされるとは思っていたものの、直接聞くと照れるものがある。

「あのね、先生、えっと……」
「どんな夢でも応援しますよ」

花がほころぶようだって、男の人に言う例えではないとわかっているけど、先生の笑顔はまさにそんなふうだった。大きい手のひらが私の頭を撫でる。剣を握る人の手だ。ご存知の通り、松陽先生はこの塾の中で一番強い。勝てると贅沢は言わないから、いつか私も互角になれるくらい強くなりたい。頭からやわい熱が伝わってきて、どうも先生は全てのことを見透かせるみたいだな、とどことなく思った。注がれる眼差しはどこまでも穏やかで、春の日の昼下がりのようだった。

 (いつまでも、健やかでありますように)

 私と小太郎くんは、顔を見合わせて笑った。考えていることもきっと一緒で、それさえもおかしくて、もっと笑った。刻一刻と主張しつづける心臓の音が、やけにうるさくて。勘違いしても良いかな、とさえ思ってしまう。年相応な笑顔から少しばかり目を逸らし、胸中にうずまき始めた想いに気づかないふりをした。
 
 一ヶ月後、半年後、一年後の、その先。
 その頃になれば、私の髪も伸びて、兄も物の扱いが上手くなって、小太郎くんはべちょべちょのおにぎりを握ってて、銀時くんと晋助くんは相変わらず喧嘩をしているのだろうか。
 いつか来るべき輝かしい未来は、晴れやかで、笑顔が溢れる日に違いない。

 ……そのときになったら、私も素直に、味方でいてやると、はっきり言えるのだろうか?





ざらついた風が頬を撫でる。不快だ。焦げ臭い匂い。赤い火の粉が、桜みたいに舞っている。
 
 安っぽいビニール袋が手から滑り落ちた。ドサリ、と音を立てたかどうかは、覚えていない。ごろんと野菜が地面に転がったのを、ただもったいないなぁとぼんやり見つめていた。
 
 見上げなくても、炎、炎、炎。
 濃紺の空には鮮やかなまでの朱がうねりをあげていた。黒煙が数時間前まで喋りあった学び舎、剣を交わしあった道場を包む。何もかもが明るく、炎はより一層勢いを増した。何かが崩れる音がした。ぐしゃりと和紙を揉み潰したように、塾舎が潰えた音だった。
 
「どう、して?」

 いつものように、おすそ分けをしに来ただけだった。婆ちゃんから「先生のとこに持ってって」って頼まれて、余った野菜を渡しにきた、だけ、なのに。いつもと変わらないはずだった。なに一つ。先生の笑みだけはいつも通りで、それ以外は見知らぬことばかりだった。
 先生が連れ去られたことなんて知らない――と躊躇なく言えたなら、よかったけれど。

 燃え盛る学び舎を。
 泣き叫ぶ仲間の声を。
 頬を滑り落ちた熱の塊を。
 置いてけぼりの野菜の色を。
 遠くで鳴き続けるフクロウの声を。
 罪人のように縛られた先生の手を。
 薄情な月の明るさも。
 ……あいにく、よく、覚えている。



それから、私は剣を取った。
 迷いは無かったと言えば嘘になる。けれどそれ以上にあの出来事は剣を取る理由には十分すぎた。
 
 一体どれほどの血が流れれば、あの日々が戻ってくるのだろう。柔らかなものはすべて置いてきた。あの火がすべて根こそぎ燃やし尽くしてしまった。
 |軟《やわ》いところを思い返そうとすると決まって、積み上がった仲間たちの亡骸が繰り返し私に訴えかけてくる。

 死んでいった同志を弔いたい。
 無くしたものを取り戻したい。
 そうでなければ、そうでなかれば、捧げたものに見合わない。
 
「髪結いさん、終わりんしたか」
 禿の子の声で我に返る。
 
「……ああ、はい! こんな感じでいいですかね」
「ええ感じでありんす。まあ、髪結いさん、お疲れでありんすか?」
「あ、バレました? どうも疲れが取れなくて。お菊さんは鋭いですね」
「最近は何かと物騒でありんす。お気をつけて」

 ――物騒の原因、目の前におりますよ。
 彼女はしっかり休んでおくんなんし、と形の良い眉を下げて声をかけてくれた。私は櫛を箱にしまいつつ、身体中の血が顔に集まってくるのを感じる。見てわかるほど顔に出ていたのか。言われてみれば、ちょいと疲れが溜まっているのかもしれない。反して思考は止まるところを知らない。

 (ここら辺に出入りする|天人《あまんと》は十七人)
 (新型の銃が百二丁、くすねて|機械班《サブローさん》に回すか)
 (お菊さん話によると天人はここでのんびりティータイムするから得物は持たない)
 (奴らの茶菓子に下剤でも盛るか?ううん、噂を流した方がいいかも)
 
 (鋏と刷毛と鬢付け油……よし、揃ってる)
 
 箱を閉じ、風呂敷で包む。
 
「じゃ、失礼しました」
「また来週も頼みんす」
 
 去り際に禿の子に飴玉をやると、パァーっと目を輝かせた。頭を撫でてると案外触り心地が良くて、かつての少年を思い出した。今では顔も朧げ――と言いたいところだが、あいにく飛び交う噂のおかげで忘れるどころが、印象は強まるばかりだ。
 
 のれんをくくる。
 外ではすでに見世を出しているようで、ギャーギャー騒ぐ声が聞こえた。うるさい。ここらへんでは聞かない声だ。ぼんやりと聞いていると、私と同い年くらいの青年が遊女を取り合っているようであった。見たことがある顔だな、というか、見覚えしかない。剣を出すなバカども。出入りしている天人がまだこの時間帯とはいえ、無謀すぎるだろ。って、おっ、選ばれたのは晋助くんでした。
 
 そろそろ視線を外そうと思っていたら、鈍い輝きを帯びている天然パーマがこちらを向いた。その髪は松陽先生と同じく太陽の光を受けてきらめいている。赤い死んだ魚の目がじと、と私を見つめる。
 
「んだよねーちゃんさっきからジロジロ見てて。相手してくれんのか? 見せてやるよ俺の」
「しねーよ天パ。見せなくていい。私だよ私。顔をよく見やがれ」
「あ゛ァん? 見せてやるっつーの。てかワタシワタシ詐欺ですかコノヤロー、今更流行んねーんだ、って、げ。テメーかよ」

 見知った銀色のモジャモジャは、途端にモジモジし出した。

「エッ、や、あのさ。お前、いつから」
「アンタが指を差してたあたり」
「序盤じゃねーかよ!」
「……どんまい。もっと良い人いるよ」
「何でテメーに慰められなきゃいけねーの?!」
「その。私はいいと思うよ、銀時くんのそーゆーとこ」
「それって振られるやつゥ! 振られるやつだからァ!! バッキャロー!! 下手な慰めが一番心にくるんだわ!!!」

 やかましい甘味野郎は相変わらずやかましいままだった。天パが心なしか萎びれている様子を見て、何とも言えない気持ちになる。

「ほら! 晋助くん昔からモテてたし! しょうがないよ」
「それは慰め? 慰めなの??」
「銀時くんもモテてたよ! 切り替えてこ!」
「優しい部活の先輩かテメーは。つーかその事実俺知らないんだけど。嘘? 優しい嘘なの?もーなんかこの子ゴリゴリ心削って来るんだけどォ!」

 あいにく失恋(?)の慰め方は分からない。見かけた時にさっさと遠回りしておけばよかった。見物するものじゃない。遠くの山を見つめていると、肩を叩かれた。

「久しいな」
「小太郎くん」

 久しぶり、と述べると、懐かしい黒髪がひょこっと間に入ってきた。昔は髪を高く纏め上げていたが、今は片方に垂らしている。ハゲるのを気にしているのだろうか。どことなく、顔もあまり覚えていない病弱だった母を思い出す。
 
「ヅラァ、こいつどうにかしてくんない? グサグサ刺してくるんだけどォ」
「なっ、いつの間にそんな不良娘になったのだ! お父さんはそんな娘に育てた覚えありません!」
「アンタに育てられた覚えないよ」
「言っただろう、やはり銀時と仲良くなるから性根からねじ曲がるのだ」
「「ねじ曲がってんのはテメーの性癖だよ!」」

 もはや何一つ関係ないし、NTRは擁護できない。侍らしからぬ性癖を掲げるな。知りたくなかった。

「ところでNTRとはねっとりとろろライスのことだろうか」
「純情ぶんなよテメー」

 二人の言い合いを聞いていると、なんだか昔に戻ったみたいで、私は笑いが込み上げてきてしょうがなかった。
 ひと通り笑ったあと、ふと、兄の所在が気になった。文では元気そうだったが、そろそろ顔も見たい。

「そういえば兄ちゃんはどこ?」
「おー、アイツなら確か角んとこの茶屋にいたな」
「ありがと」

 銀時くんはポリポリ頭を掻きながら教えてくれた。茶屋へ急ごうとして何歩か進み、突然、兄が「小太郎の部隊に入っている」と綴っていたことを思い出した。手を振り、声をかける。
「あ、小太郎くん。兄ちゃんのこと、よろしくね」
「ああ」

 振り向きざま逆光になっていて、小太郎くんの顔がよく見えなかったけど、かすかに笑っていた、気がする。あの三人は強い。それこそ戦場を駆ける伝説になるほどだ。小太郎くんなら、兄の一人くらい大したことないだろう。それほど託していいと私は信頼しているのだ。

「どうか、健やかで」

 たん、たたんとリズムを刻んで足早に歩いた。人混みは実に良い迷彩になってくれる。私がこぼした一言も、すぐに埋め尽くした。

  ◎

「へえ、ありゃま! 黙って目を血張らせただけとか、変な客もいるものですねー。ああ、この前取り合ってた時の!……ぷぐっ、ごめんなさい我慢できなくて、あはははは、ははは! つまらないですよねえ、そりゃ。すみません、かんざし差しますね。うふふ、あははは、ははははははっ!」

  ◎

 戦況ははっきり言って、芳しくない。戦線離脱していく人は止まらない。幕府と接触する天人は増える一方。勝ち目は薄いとさえ思う。火を見るよりも明らかだ。
 噂では幕府は天人と手を結ぶとかなんとか。必死に媚びへつらう顔はなんと醜悪なのだろう。耳障りの良い甘やかな言葉で言ったら順応、客観的に言えば妥協――私から言わせれば、クソみたいな屈服だ。言い方くらいなんとでもある。しかし誇りにしてきた侍の信念という真っ白な雪原に、国自ら泥まみれの靴で踏んづけるのか。

 (最近は天人を見かける方が多くなってきたな)
 
 荷台に水やら食料やら詰め込んで戦場へ向かって進んでいく。行商人のふりをして話を聞くのだ。そこそこの重さのそれを押していくと、ギイギイ音を立てていた。下剤を一盛りしたそれを手に取ってもらうためなら、何でもやってやる。
 
戦場に近づくにつれ、鉄の錆びの匂いが鼻の奥深くまで染み付いている。地面は血と肉と泥が混じり合っている。最初は誰だって踏むのにためらうのに、いつから屍を踏みつけても平気になっていったのだろうか。
 違和感。
 ――やけに静かであることに気づく。汗が、ツーッと頬を流れ、地面に落ちてシミを作っていった。胸騒ぎがする。

(もしかして、戦争は終わった?)
(だとしたらこの静かさも納得がいく。一体何が起きているの?)
 
 遠くからふらつく人影がこちらに歩いてくるのが見える。刀に手をかけ、固唾を飲んだ。
 ボロボロの戦装束で、揺れる黒髪の、その人は。

「小太郎くん?」
「――ッ、!」

 声にはならなかったけど、唇はたしかに私の名前を呼んだ形をしていた。戦場らしい血と汗と埃の匂い。ひどく傷ついている様子だった。呻き声にも似た唸り。瞳の色は雨の日の濁流を思わせるほど澱んでいた。唇はひび割れ、余命いくばくもない病人のようだ。軽口を叩き合えそうにもない。らしくない。只事ではないとすぐに悟った。

 どうしたの。
 何があったの。
 何をされたの。

 色々浮かんだけれど、口に出せた言葉は何一つなかった。私は見ていることしかできなかった。ただ、ただ、見つめていた。彼は座り込み、やがてポツリポツリと話し出した。語り出す度に声が震えていた。体も震えていた。

 戦争は終わったこと、松陽先生は斬られ、何一つ取り戻せなかったこと、兄含め三人以外の門下生は亡くなったこと、三人は袂を分かったこと、そして――先生を斬った人物のこと。
 彼はすまない、と何度も独りごちた。

 正直、まだ実感が湧かなかった。聞き間違いであってほしかったし、タチの悪い冗談であって欲しかった。だけど現実は一つしかなくて、たらればもクソもなかった。私が危惧していた未来は起こった。それも、想像以上に最悪なもので。痛ましいだとか、悲しいとかでは言い表せられない。重っ苦しい事実だけがそこに横たわっていた。彼がひたすら謝っているのは、なんだか違うと猛烈に思った。
 
 窶れたまなこが私に向けられる。くたびれているけれど、虚ろではない。確かに輝きが宿っている。傍から見れば強いだろう。
 
 (――ああ、だけど)
 (この人は、また、ひとりぼっちに)

 あんなに綺麗だったのに。あんなに眩しかったのに。
 彼の髪に手を伸ばす。艶やかな黒には色素の薄いものが混じっており、滑らかだった手触りが失われ、梳かそうとすると所々ほつれてしまい、パサパサに痛んでいた。
 やつれ果てた手負いの獣のようだった。どうしようもなく、ふつふつとやるせない気持ちが湧き上がっては消えた。恨む相手は誰だろう。幕府? 天人? 私の家族を奪い、目の前のこの人をこんなふうにさせた幕府も、きっかけを与えた天人も、何一つできない私も、みんな、嫌いだ。
 
 やってきたことすべて水泡に帰したのだ。残った道は逃亡のみである。昨日の昨日まで国のために剣を奮っていたのに、今や国から切り捨てられた塵芥だ。端っこに寄せられてポイだ。もうじき処刑も行われることだろう。為政者の無情さはすでに知っていた。

 私たちはこの戦争で、数え切れないほど多くのものを喪いすぎた。こぼれ落ちた大事なこと、忘れたくないこと、そのすべてを拾いあげてやらねば、私たちは二度と人に戻れないだろう。

 小太郎くんは、半ば諦めたように、優しい手つきで私の頬をなぞった。珍しく意志の弱い瞳だ。ふざけるな、勝手に諦めようとするな! アンタは、こんなとこでくたばる人じゃないでしょう。私が、それを聞いて、すんなり何ともないふりをして、全部隠して生きていくとでも思っているの。
 彼の長いまつ毛が伏せられ、顔に影を作った。涙脆いのに、ひと粒の涙すら出ないのだろうか。出さえすれば、私はきっと掬ってやるのに。
 
 「なァ」
 
 私の名前なんてありふれた響きだろうに、彼はこわごわと、けれども大切そうに呼んだ。硝子細工を壊さないように、壊さまいとするように。潤んだ目を瞬かせ、梅干しを思いっきり食べたような顔をしながら、問うた。
 
「これでも、俺の味方でいてくれるのか」

 柔らかいものは、すべて置いてきた。燃えた。はずだった。だけどいくら思い返さまいとしようと、捨てきれないものがあった。服に染み付いた汚れみたいに、いつまでもチラつく。鼻の奥がツン、と酸っぱくなり、喉奥から目頭にかけて熱い物がほとばしった気がした。彼の頭から手を離し、慌てて目頭を抑える。ぱた、ぱたたと溢れてしまうものを瞼の裏に流す。
 
 (私は、)

 手を取れば、戻れなくなるのはわかっている。それでも良い。胸に残る柔らかいものをこの世に取り留めるには、これしかない。生きるためには必要だ。
 はて、他に道はあるのかと一瞬思考を巡らせ――すぐにやめた。仕方ない。もとより、このバカのそばが私の定位置だ。今更どうこう言える話じゃない。ただ一つ確かなのは、私もコイツも、とびっきりのバカであることで。
 
 つまるところ、やはりバカ同士は惹かれ合うのだ。理想バカとそれを盲信するバカ。今にも泣き出しそうなバカ放っておけないバカは私だった。飛び抜けた夢想家バカが死なないように、いつか刺されないように、いくらでもそばにいよう。たとえ小太郎くんが宇宙規模で嫌われようと、私だけは彼の側に立つと決めたのだ。彼が天井の木目を数えるのなら、私も一緒に数えよう。藺草の列をなぞってもいい。とにかく、このままにしてたまるか。
 
 私は小太郎くんの手を取った。もはや迷いは無かった。
 
 だって約束してしまったものだし、覚悟は疾うの昔に決まっていた。

癖っ毛とストレート

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