乾いた手のひら

戦況ははっきり言って、芳しくない。戦線離脱していく人は止まらない。幕府と接触する天人は増える一方。勝ち目は薄いとさえ思う。火を見るよりも明らかだ。
 噂では幕府は天人と手を結ぶとかなんとか。必死に媚びへつらう顔はなんと醜悪なのだろう。耳障りの良い甘やかな言葉で言ったら順応、客観的に言えば妥協――私から言わせれば、クソみたいな屈服だ。言い方くらいなんとでもある。しかし誇りにしてきた侍の信念という真っ白な雪原に、国自ら泥まみれの靴で踏んづけるのか。

 (最近は天人を見かける方が多くなってきたな)
 
 荷台に水やら食料やら詰め込んで戦場へ向かって進んでいく。行商人のふりをして話を聞くのだ。そこそこの重さのそれを押していくと、ギイギイ音を立てていた。下剤を一盛りしたそれを手に取ってもらうためなら、何でもやってやる。
 
戦場に近づくにつれ、鉄の錆びの匂いが鼻の奥深くまで染み付いている。地面は血と肉と泥が混じり合っている。最初は誰だって踏むのにためらうのに、いつから屍を踏みつけても平気になっていったのだろうか。
 違和感。
 ――やけに静かであることに気づく。汗が、ツーッと頬を流れ、地面に落ちてシミを作っていった。胸騒ぎがする。

(もしかして、戦争は終わった?)
(だとしたらこの静かさも納得がいく。一体何が起きているの?)
 
 遠くからふらつく人影がこちらに歩いてくるのが見える。刀に手をかけ、固唾を飲んだ。
 ボロボロの戦装束で、揺れる黒髪の、その人は。

「小太郎くん?」
「――ッ、!」

 声にはならなかったけど、唇はたしかに私の名前を呼んだ形をしていた。戦場らしい血と汗と埃の匂い。ひどく傷ついている様子だった。呻き声にも似た唸り。瞳の色は雨の日の濁流を思わせるほど澱んでいた。唇はひび割れ、余命いくばくもない病人のようだ。軽口を叩き合えそうにもない。らしくない。只事ではないとすぐに悟った。

 どうしたの。
 何があったの。
 何をされたの。

 色々浮かんだけれど、口に出せた言葉は何一つなかった。私は見ていることしかできなかった。ただ、ただ、見つめていた。彼は座り込み、やがてポツリポツリと話し出した。語り出す度に声が震えていた。体も震えていた。

 戦争は終わったこと、松陽先生は斬られ、何一つ取り戻せなかったこと、兄含め三人以外の門下生は亡くなったこと、三人は袂を分かったこと、そして――先生を斬った人物のこと。
 彼はすまない、と何度も独りごちた。

 正直、まだ実感が湧かなかった。聞き間違いであってほしかったし、タチの悪い冗談であって欲しかった。だけど現実は一つしかなくて、たらればもクソもなかった。私が危惧していた未来は起こった。それも、想像以上に最悪なもので。痛ましいだとか、悲しいとかでは言い表せられない。重っ苦しい事実だけがそこに横たわっていた。彼がひたすら謝っているのは、なんだか違うと猛烈に思った。
 
 窶れたまなこが私に向けられる。くたびれているけれど、虚ろではない。確かに輝きが宿っている。傍から見れば強いだろう。
 
 (――ああ、だけど)
 (この人は、また、ひとりぼっちに)

 あんなに綺麗だったのに。あんなに眩しかったのに。
 彼の髪に手を伸ばす。艶やかな黒には色素の薄いものが混じっており、滑らかだった手触りが失われ、梳かそうとすると所々ほつれてしまい、パサパサに痛んでいた。
 やつれ果てた手負いの獣のようだった。どうしようもなく、ふつふつとやるせない気持ちが湧き上がっては消えた。恨む相手は誰だろう。幕府? 天人? 私の家族を奪い、目の前のこの人をこんなふうにさせた幕府も、きっかけを与えた天人も、何一つできない私も、みんな、嫌いだ。
 
 やってきたことすべて水泡に帰したのだ。残った道は逃亡のみである。昨日の昨日まで国のために剣を奮っていたのに、今や国から切り捨てられた塵芥だ。端っこに寄せられてポイだ。もうじき処刑も行われることだろう。為政者の無情さはすでに知っていた。

 私たちはこの戦争で、数え切れないほど多くのものを喪いすぎた。こぼれ落ちた大事なこと、忘れたくないこと、そのすべてを拾いあげてやらねば、私たちは二度と人に戻れないだろう。

 小太郎くんは、半ば諦めたように、優しい手つきで私の頬をなぞった。珍しく意志の弱い瞳だ。ふざけるな、勝手に諦めようとするな! アンタは、こんなとこでくたばる人じゃないでしょう。私が、それを聞いて、すんなり何ともないふりをして、全部隠して生きていくとでも思っているの。
 彼の長いまつ毛が伏せられ、顔に影を作った。涙脆いのに、ひと粒の涙すら出ないのだろうか。出さえすれば、私はきっと掬ってやるのに。
 
 「なァ」
 
 私の名前なんてありふれた響きだろうに、彼はこわごわと、けれども大切そうに呼んだ。硝子細工を壊さないように、壊さまいとするように。潤んだ目を瞬かせ、梅干しを思いっきり食べたような顔をしながら、問うた。
 
「これでも、俺の味方でいてくれるのか」

 柔らかいものは、すべて置いてきた。燃えた。はずだった。だけどいくら思い返さまいとしようと、捨てきれないものがあった。服に染み付いた汚れみたいに、いつまでもチラつく。鼻の奥がツン、と酸っぱくなり、喉奥から目頭にかけて熱い物がほとばしった気がした。彼の頭から手を離し、慌てて目頭を抑える。ぱた、ぱたたと溢れてしまうものを瞼の裏に流す。
 
 (私は、)

 手を取れば、戻れなくなるのはわかっている。それでも良い。胸に残る柔らかいものをこの世に取り留めるには、これしかない。生きるためには必要だ。
 はて、他に道はあるのかと一瞬思考を巡らせ――すぐにやめた。仕方ない。もとより、このバカのそばが私の定位置だ。今更どうこう言える話じゃない。ただ一つ確かなのは、私もコイツも、とびっきりのバカであることで。
 
 つまるところ、やはりバカ同士は惹かれ合うのだ。理想バカとそれを盲信するバカ。今にも泣き出しそうなバカ放っておけないバカは私だった。飛び抜けた夢想家バカが死なないように、いつか刺されないように、いくらでもそばにいよう。たとえ小太郎くんが宇宙規模で嫌われようと、私だけは彼の側に立つと決めたのだ。彼が天井の木目を数えるのなら、私も一緒に数えよう。藺草の列をなぞってもいい。とにかく、このままにしてたまるか。
 
 私は小太郎くんの手を取った。もはや迷いは無かった。
 
 だって約束してしまったものだし、覚悟は疾うの昔に決まっていた。


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