風も距離もあるというのに、舎房の方角から確かに耳に届いた正気を疑う人の声。直後敷地内には警鐘が鳴り響き、方々の建物にぽつぽつと明かりが灯り人影が現れ始める。

詳細は分からないけど非常にまずいことだけは確かな事態に、溢れ出しそうになる余計な感情を抑え込みながらまだ人の気配を感じる小さな格子窓の奥と監獄内を交互に見回していると「おい、川に何か見えたぞ」と横から尾形さんの声。急いで双眼鏡を下ろしもう一つの双眼鏡が向けられている暗闇にじっと目を凝らしていると、突如黒一色だった網走川の対岸に無数の灯火が出現した。そしてその正体を探る間もなく、肌が痺れるほどの衝撃で川に掛かる鏡橋が吹き飛ぶ。

「え…?」

思わずこぼれた声が咎められることはなかった。その後橋と共に飛び散った思考をかき集めてようやくそれが防衛戦の下準備だと気付いたのも束の間、闇夜に溶け込んだ網走川に刹那生まれた光と夜空に響いた橋の爆破に次ぐ轟音によって、再び頭の中はぐちゃぐちゃに散らかる。

「は、やっぱりな」

瞬く光が照らす4隻の船からの砲撃で堅牢な塀が崩れ落ちていく光景から目を背けるように見た先には、ひと際濃い影として感じ取れる尾形さんの存在。その声色はとても冷静で、どことなく嘲笑の色を孕んでいた。

「ここで答え合わせか。結局、俺たちの動向はあの女狐を通して鶴見中尉に筒抜けだったってわけだ」
「……なに、を」
「青森の大湊要港部の司令官は鯉登少尉の父親鯉登海軍少将だ。鯉登少将と鶴見中尉は鯉登少尉の陸軍入隊前から懇意な間柄でな。あの駆逐艦もその伝手で動かしたんだろう」

おおみなとようこうぶとかくちくかんとか分からない単語ばかりだけど、尾形さんが言う“答え合わせ”が彼女を指していることだけはすぐに分かった。分かってしまった。追い打ちをかけるように尾形さんの言葉は続く。

「こんな状況、十中八九鶴見中尉が俺たちを利用しようとした結果だろう。面会なんぞできるわけもないのっぺら坊に会うため監獄に潜り込むとなれば、新月の夜になることはまあ見当もつくからな。
だが俺たちが今夜を侵入の決行日に決めたのは網走に着いてからだ。それなのに旭川で消息を絶った俺たちの数か月後の網走到着を大した誤差もなく把握し、大湊要港部の駆逐艦4隻を引き連れて今夜網走川に潜伏。

第三者からの不確かな目撃情報と憶測だけでここまでのことをやってのけたとしたら、情報将校の割には随分と当てずっぽうが過ぎるとは思わんか?」
「そっ」

そんな、と漏らしかけた言葉を飲み込む。真実かどうかはとかく、そう思うのが自然だということは十分理解できた。

記憶に新しい、私の無事を祈ってくれた彼女の声と姿が頭の中で繰り返される。漠然としていたはずの言葉にどんどん意味が生まれていく。
こうなることを知っていて、余計なことをするなと警告したんだろうか。もしこれが本当にインカㇻマッさんの手引きの上で行われているのだとしたら、その見返りは何なのか。この先に彼女はどんな展開を望んでいるのか。
気付けばあれやこれやと湧き上がる疑問に溺れそうになっている自分がいて、意識を現実へと引き戻す。ここで私がそれを考え込んでも何も得られない。

「大方、杉元たちがのっぺら坊から金塊の在り処を聞き出し脱出したところを取り押さえる腹積もりだったんだろう。だが監獄内の騒ぎで計画の頓挫を察知、混乱に乗じてのっぺら坊とアシㇼパを捕らえる作戦に切り替えたってところか」

淡々と状況を整理していく尾形さんの言葉をなんとか頭にねじ込んでいる間に、連続していた破壊音が止まった。心をかき乱されたまま今一度双眼鏡を覗き込んだ先には、身を隠す必要がなくなった船上で網走川に小舟を下ろそうとしている兵隊たちの姿が。
これで終わりではないことを実感してずしりと胸が重くなる。直後「移動するぞ」とかかった声に顔を上げると、先程まで隣にあった気配を少し離れた場所に見つけた。

「さっさとしろ、恐らくここにも兵士が来る。トンネルが使えなくなったなら脱出経路は正門になるはずだ、退路を確保するぞ」
「え?で、でも第七師団が、鶴見中尉が狙っているのがのっぺら坊とアシㇼパさんなら、ここに来る必要なんて…」
「これだけ派手な大立ち回り、当然軍の中でだって黙認されることじゃない。どんな言い訳をするつもりか知らないが、『鶴見中尉の、延いては鯉登少将の行動は正当なものだった』と“生き残った奴ら”が口を揃えて証言すれば、後はどうにでもなる。軍っていうのはそういうもんだ」

一段と低まった声が告げた内容に、薄々勘付いてはいたこれからここで始まろうとしていることをしかと理解して、身体の末端がすっと冷えていく。

「……見張り小屋の、人たちは」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ、親切ぶって警告でもしに行く気か?見つかった途端に撃ち殺されるぞ」

至極真っ当な指摘をされては、もう何も言い返せなかった。私に彼らを救う力はない。──なら、何ができるのか。


“常に冷静に、自分の身の安全を優先して行動してください。そうすればきっと、この夜の先で大切な人と再会できるはずです”


半日前に聞いた彼女の声が頭の中に響き渡る。
インカㇻマッさんが今回の件にどう関わっているのかも、彼女の言葉の真意も、私にはまだ分からない。でも、ここで立ち止まっているわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない。私は私にできる精一杯のことをするためにここに来たんだ。

蠱惑的な声を手のひらに食い込んだ爪の痛みで振り払い、草木を揺らす音を追って足を踏み出した。


***


持ち場を離れることもできず眼下の光景をただ眺め続けるしかない看守たちと、背後から忍び寄り着々と彼らを無力化していく兵士たち。轟音と共に空高く打ち上がる眩い光たちが作る陰に身を隠してその目を掻い潜り、正門の前を通り過ぎて南東の塀の角に辿り着くまでの間に、網走監獄の混乱は激化の一途を辿っていた。

光と音と匂いによって勝手に共鳴し始めた古い古い記憶に引き込まれそうになる頭を振り払い川岸に見つけたのは、三尺強ほどの高さの櫓。周囲や梯子を上った先にある足場に動く影はなく、足元に落ちている不自然な人影を近くで確認してみれば既に事切れた看守だった。先に第七師団が来て仕事を終えたのだろう。
居住区と離れているからか、塀の向こうにも人の気配は感じられない。記憶が正しければこの先にあるのは船着き場と倉庫、それから教誨堂という建物だった気がする。

「チッ」
「なにか?」
「双眼鏡が壊れた」
「…は?」

死体を確認していると背後から聞こえた発言に驚き振り返ればなるほど確かに、持ち上げられた双眼鏡は硝子の反射が一つしかなくなっていた。もう片方の具合はよく見えないけど、衝撃が原因だとしたら恐らく無事では済まないだろう。

このタイミングで装備を壊した?あの尾形さんが?いや、それとも寿命…?確かさっき見た時は──なんてあれこれ考え始めようとする頭に「時間がねえ、寄越せ」と的確な指示が割り込み、出された手に急いで首から外した双眼鏡を渡した。そうだ、今は余計なことを考えている暇はない。
私から受け取った双眼鏡を首にかけ直すと尾形さんは櫓の梯子に手をかけ、もう片方の手で近くの茂みを指差す。

「俺が監獄の中に集中している間、そこに隠れて周囲を見張れ。俺が下りてくるまで誰も櫓に上がらせるな。
……任せたぞ」
「っ、はいッ」

尾形さんに頼られた。こんな時だというのにそれだけで単純な心が奮い立つ。
力強く頷いた私を確認すると今度こそ梯子を上り始めた尾形さんから離れ、指定された塀のそばの茂みに身を潜める。視界に問題がないことを確認してから一度深く呼吸をすると、腰に携えた短刀を抜いた。刃に塗った毒に触れないように、ゆっくりと。


尾形さんにチャンスをもらって、私なりに考えた。
計画通りに事が進めば、今回の作戦に尾形さんと私の出る幕はない。でも何かあった時には、尾形さんは狙撃で監獄内にいるアシㇼパさんたちの脱出を援護することになる。近くで銃声が上がれば山小屋の看守たちは当然音の発生源を探し当てようとするだろう。山では綺麗事を言ったけど、そうなれば彼らの相手をするのは第七師団ではなく私の役目だった。

銃を持った男たちを素早く確実に無力化する手段なんて、私には限られていて。だからアシㇼパさんや杉元さんたちには内緒で、偵察や手伝いの合間を縫って山で材料を集めで毒を煎じた。アシㇼパさんから学んだ狩りのための矢毒じゃなくて、昔ここに来る前に教わった、人の命を奪うための毒を。

当然いつもの矢は使えないので、当時使っていた短弓に近いものを手に入れられないかこっそり土方さんに相談してみたけど、やはり今も一般的なものではないとのことで相談してからの短い期間では手に入らず、結局毒は短刀に塗り付けることにした。対象への接近が必須な上に何人分まで毒の効果がもつか不安は残るけど、体内に矢尻を残してアイヌの人たちに迷惑をかけるよりはずっといい。


風は変わらず強く吹き続けている。それにも増して聞こえてくる騒動を背に人気のない周囲を警戒しながら盗み見ていた櫓の上の人影が、不意にわずかに揺れ動く。降り注ぐ轟音の合間を縫って間髪入れず耳に届いた破裂音に、何か動きがあったのだと身を固くした時だった。



杉元ォ!!──

──え…?」

音で溢れかえった高い塀の向こうから、かすかに聞こえた気がした声。
咄嗟に顔を上げ耳をすませば雑音の中にまだ気配を感じるも、それ以上はなんと言っているのか、そもそも本当に彼女のものなのかも分からず、頭上から不規則に落ちてくる乾いた音ばかりが一層主張を強めていく。

そうしているうちに、声は完全に消え去って。動揺を消しきれないままわずかな理性で見張りを再開し、知りたいことを全て教えてくれるはずの彼をひたすらに待っていると、やがて煙の匂いと共に音は止み、ようやく影が地上に降りてきた。
駆け寄りたい気持ちとは裏腹に力の入らない足でただ身体を支えていたら、風に靡く外套が茂みを前に立ち止まった。頭上から注ぐ赤い光に照らされた顔を、葉陰から見上げる。

「もういい、出てこい」

自分の重心がどこにあるのか不確かな感覚の中立ち上がり、言われるがままに茂みを抜け出て重い足を動かし彼の前に立つ。制御の利かない頭がぐるぐる思考を回し続けて考えがまとまらない。

「…お、がた、さん」
「話は後だ、行くぞ」

掴まれた腕が監獄から離れていく。もつれそうになる足を立て直しながら、ようやく形を成し始めた思考を口にする。

「尾形さん。さっき、さっきアシㇼパさんの声が、」
「キロランケと合流して正門から脱出したのを確認した。白石も一緒だ」

待ちに待った言葉のはずなのに、アシㇼパさんの無事がわかって嬉しいはずなのに、首をもたげたのはまた別の不安。一向に始まらない話の続きに焦燥感がせり上がってきて、耐えきれず口にする。

「す、杉元さんとのっぺら坊も一緒なんですよね?
……尾形さん?」
「……」
「尾形さん、ねぇ」
「……」
「っ、尾形さんッ!」

自分が発した声の鋭さにさらに狼狽える私の前で尾形さんが歩みを止め、こちらへ振り返った。見慣れたはずの双眸の底の知れない黒さにぞわりと背筋が粟立つ中、頑なに閉ざされていた唇が開く。


「杉元は死んだ」

突きつけられたのは、絶対に考えないようにしていた言葉だった。
頭上から冷水を浴びたように血の気が引いていく。「のっぺら坊もだ」と続いた声は空っぽになった頭の中でふわふわと揺蕩い、生唾を飲み込もうとした喉は小さく引き攣るだけで終わる。

「正門の先にある建物の裏で二人が頭を撃ち抜かれたのが見えた。狙撃手は仕留めたが……間に、合わなかった」

私の視線から逃れるように顔を逸らして、声を詰まらせて、尾形さんは何を言っているんだろう。ううん、違う。理解できるはずなのに、頭が受け入れようとしない。こんなところで時間を割いている場合なんかじゃないのに。

「……これ以上の話は後だ、師団の連中に櫓にいる姿を見られたかもしれん。監獄の騒動が落ち着く前に俺たちも脱出するぞ」

一呼吸の沈黙の後、取り戻された冷静な声でそう言ってまた歩き出そうとする背中に、咄嗟に声をかけていた。

「私、見てきます」

再びこちらへ注がれる尾形さんの視線。音もなく私を射抜いた目は昏く冷たく、感情を抑え行動しようとしている彼に対してどれだけ愚かな発言をしているのか指摘されたようで容易に気圧されそうになってしまう。でも、ここで引き下がる訳には行かないとぐっと耐える。

「…バカ言うな。いまさら行ってどうなる」
「と、遠くから確認しただけですから。もしかしたらまだ息があるかもしれません。だったらまだ助かるかも……!」
「……俺の話を信じないのか?」

私の腕を掴む力が強まる。尾形さんの問いかけも、大人しく従えと警告する己の中の声も丸ごと否定するために、目を閉じ首を左右に振る。

「違います。尾形さんは、杉元さんが頭を撃たれたところを見たんですよね?昔聞いたことがあるんです。頭を撃たれても急所さえ外れていれば生き延びることがあるって。
杉元さん、そういう生きる力がとても強い方なんです。だから、だから今行けば間に合うかもしれなくてっ、」
「なまえ」

静かな声に肩が跳ねた。動揺を隠す余裕もなく顔を上げると私の腕を握り締めていた力がふっと緩まって、導くように腕を引かれたまま真っ直ぐにこちらを射抜く二つの瞳と対峙する。

「俺から離れるな」

とても大切なことを言われたと思った。けど、今は一刻を争う。杉元さんの命がかかってる。早く、早く動かないと。
視線から逃げるように顔を下げ、私の利き腕に触れ続ける逞しい手を空いている手にそっと取れば、あっけなく腕は解放された。短刀を慎重に鞘に収め、今度は両の手で大きく厚く少し温度の低いその手を包み込む。

「大丈夫、尾形さんは先にアシㇼパさんたちと合流してください。近くで確認して……ダメだったら、すぐに向かいますから」

発した言葉の恐ろしさに小さく震える声には気付かないふりをして、見つめていた手をそっと放した。尾形さんは、何も応えない。
どんな表情を向けられているのか確認する勇気はとうとう出せず終いで、背を向け先程は見過ごした正門へ走り出す。

アシㇼパさんたちが脱出した今なら、鍵は開いているはず。広場の先にある見間違えようのない建物の裏に回れば、そこに杉元さんとのっぺら坊がいる。

大丈夫、杉元さんなら、きっと大丈夫。大丈夫だから。


不安や恐怖を払拭することに夢中になっていたせいだろうか。何度目かに大きく踏み込んだ片足がずるりと横滑りして、足を掬われた身体が斜めに傾いた。しまった、と思うと同時に、唐突な下腹部への衝撃が私の身体を強制的に前へと押し出す。
喧騒が遠のく。鼓膜を大きく震わせた銃声は、とても遠くから聞こえた気がした。



──?」

時の流れが変わったように、ゆっくりと身体が倒れてていく。咄嗟に手と膝を地面につき、崩れかけた上半身を支える。

お腹の、腰の付け根の辺りがやけに熱い。背中側から思い切り殴りつけられたように感じたそこを触るとじっとり濡れた感触が伝わってきて、視線を落とせば変色した上着とべっとりと液体のついた手が暗がりの中でも見えた。
わかったような、わからないような、認めたくないような──ああ、頭が回らない。呼吸が浅く早くなり、堪らず口を開いて酸素を求める。

考えろ、落ち着いて考えないと。早く杉元さんのところに行かないと。
大丈夫、意識はある。立て、私。立って。

自分に言い聞かせ手を地面から離した瞬間、背筋に走った違和。瞬発的に振り返ろうと捻った腹部が激しい痺れに襲われ身体がバランスを崩した直後、今度は側頭部に衝撃。一瞬ぶつりと意識が飛んで、次に視界いっぱいに広がっていたのは今まで見下ろしていた地面。
こめかみの辺りから何かが顔へ伝い落ちてきてこそばゆい。拭い取りたくて持ち上げようとした腕はやたらと重く動かない。

なんで。どうして。荒い呼吸を繰り返し意識が遠のきそうになる感覚に抗いながら、とにかく動かなければ、と躍起になって力を込めやっとのことで身体を転がすと、わずかに何かに乗り上げる。目をやった先にあった脚絆を上へと辿れば、丸い銃口越しに私を見下ろす尾形さんと目が合った。

時間が止まったような感覚の中で闇に溶け込みかけた顔を眺めていたら、尾形さんはふと銃口を下げ、そのまま何を言うでもなく私の脚の付け根の辺りを跨いで膝をついた。どこにあるか分かっていなかった利き手が膝小僧に踏みつけられる。痛い。同時に、反対の手が自分の身体の下敷きになっていることに気付いた。引き抜こうとしたけど、今度こそ少しも動かせる気がしない。
そんな私を放置して尾形さんは私の上着を割り開き、ズレた鉢巻きを外してそれぞれの下をじっと眺めた後、自らの髪を撫で付けながら「……まあ、いいか」と呟いた。なにもよくない。もう一度視線が交わって、大きな目の縦幅がほんの少し狭まる。

──結局お前にとっても、俺はこの程度の価値でしかなかったわけだ」

やっぱり何のことだか理解できないのは、ガンガンズキズキと喧しい頭のせいなのだろうか。
見慣れているはずのその顔を見ていたら、唐突に強い欲求に駆られた。衝動のままに両腕を持ち上げようとした努力はやはり実ることはなく、実行に移せない身体がもどかしくてたまらない。

諦めきれずにもう一度力を入れようとしたら、熱いだけのはずだった脇腹に激痛が走った。逃げることもできず歯を食いしばり耐えていればすぐに痛みは和らいで、残った鈍痛を受け流しながら呼吸を整える唇に何かが触れる。
濡れた指の腹の感触が薄皮の上を滑り、鉄錆に似た匂いが鼻腔を貫く。それから上下の唇をなぞり終えた指が離れたかと思えば頭を掴まれ、同時に尾形さんの顔が今までにないくらいに近付いて、唇に柔らかくてあたたかいものが重なった。指よりもずっと柔らかくて、あたたかいものが。

唇の神経が研ぎ澄まされる。少しだけカサついてふにふにしたそれが一度離れまたすぐに押し付けられたかと思えば何かがぬるりと唇を割り入ってきて、熱く質量のある物体が口の中で激しく蠢く。押し潰される唇も硬い肉が好き勝手に暴れ回る口内もちょっと痛いし、おまけに時折り互いの歯や鼻がぶつかるものだから堪らず眉根に力が入る。息ができなくてだんだん苦しくなってきた。でもどうすればいいのか分からないから、早く終わってほしいとひたすら願う。


─一瞬か、延々か。
最後に舌の粘膜を奥から先まで優しく擦り上げられて背筋がほんの少しぞわっとしている間に、とうとう尾形さんの顔が離れていった。何もしていないのに全身がどっと疲れ果てていて、ようやく一人きりになれた口の中の唾液を飲み込み久方ぶりに酸素を取り込むけど、どれだけ呼吸を繰り返しても胸の苦しさは消えない。頭とお腹の鈍痛も和らぐどころかじくじくと主張を強めていく。

瞬きの度に端から黒が浸食していく世界で、尾形さんと見つめ合う。すっかり見慣れた所作で前髪を撫で上げた彼は満足げに深い吐息を漏らすと、隙間から這い出た舌で濡れた唇を舐め上げた。その目と口元がゆったりと弧を描く光景がかなしくて、殊更に胸が締め付けられる。


ねえ尾形さん、どうして。

頭に浮かんだ声を言葉にする前に、全てが黒に塗り潰された。


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