「すき」
ぽろりと俺の口からこぼれ落ちた言葉に、静かに目を見開いていく彼女。日差しを反射して水面みたいにきらめく瞳には、似たような表情が移り込んでいるに違いない。
言うつもりなんてなかった。ただ2人きりで他愛もない話をしていたら、信頼で満ちた温かな眼差しを浴びていたら、すっかり形を憶えた小さなつむじを見下ろしていたら。胸の奥がむずむずとたまらなくなって、“それ”が勝手に喉を這い上がって飛び出してきたのだ。つまりこれは事故。咄嗟に言い逃れを試みる。
「ちがう待ってあの……そう、隙! キミは隙がありすぎるよって話!」
直前の会話の内容をかすりもしない言い訳に、自分でもバカかと思う。でも一刻も早くこの件を有耶無耶にしたくて、真面目な表情を取り繕ってビシッと人差し指を立ててみせれば、彼女は少し考えるように口を閉ざし、それから寂しそうに笑った。
「……そう、ですよね。えへへ……私ったら恥ずかしい。杉元さんも私と同じ気持ちでいてくれただなんて糠喜びしちゃって」
「好きです」
===
アシㇼパさんが見つけた獣道を進む中、頭の中では先ほどの出来事が延々と繰り返される。何度思い返してみても、あまりに都合が良すぎる記憶。もしかして全部夢だったんじゃ……? なんて背後を盗み見たらすぐ後ろにいた彼女と目が合った直後素早く視線を逸らされてズンッと胃が沈んだが、そのまま前方を確認してから再びこちらに焦点を定めて、気恥しげな微笑みを返してくれた。あ、これ夢じゃねえわ。
つまりなんと本日をもって俺と彼女は、その……こ、恋仲、に、なったらしい。あの時の己の言動については思い出すたびにバカアホマヌケと罵倒し口を縫いつけてやりたい衝動に駆られるが、あんな事故でも起きなければこの想いにこんな形で報われる日が来たとは到底思えないだけに、結局は己を憎み切ることもできずアシㇼパさんが飛び越えた地面に這う蔓をブチブチと蹴り払う。今からでもシラを切って無かったことにするべきか? なんて考えも浮かんだものの、そんな噓を口にするにはまだあと1歩、いや100歩くらい踏ん切りがつかずにいる。
だけど俺は──俺たちは今、やり遂げなければならない旅の途中にいる。その足枷になることは俺はもちろん彼女も望んでいないことは明らかで、余計な気を遣われないためにも2人の関係についてアシㇼパさんたちに打ち明けるつもりはまだない。彼女もさっきはともかくここまでいつもと変わらない態度でいるから、きっと同じ考えなんだろう。
だからそう、何も変わらない。ただお互いの気持ちを知っただけ。そう結論を出してなんとなーく振り返ったらまた目が合って、おかしそうに小さく笑い返してくれた表情を見て目尻の筋肉が溶けた。好き。大好き。なんだか身体がものすごく軽くなった気分だ。今飛び跳ね出したらまずいかな。まずいよなあ。
===
日が傾く前に偶然辿り着いた山間の小さなコタン。アシㇼパさんの口利きのおかげで、今夜はここで一夜を過ごすことが決まった。以前の件があって最初こそ手放しに喜ぶ声は上がらなかったが、アシㇼパさんの「このコタンには違和感を感じない」という確信めいた保証と、小樽のコタンのように老若男女が活き活きと生活する光景を見ているうちに、警戒は徐々に薄れていった。
一宿一飯をお世話になる家も決まりそれぞれが思い思いの時間を過ごす中、俺はといえば、村の子供たちに誘われて空き地で的撃ちの遊びに付き合うアシㇼパさんを端で丸太に腰掛け眺めていた。柴草を束ねた的を練習用の弓矢で難なく射止めてみせたアシㇼパさんは一瞬でその場の羨望を集め、強請られ仕方なくといった態度ながらも優しい眼差しで弓の指導をする姿に、いつかの小樽の村での光景が蘇る。
そんな中ふと広場の奥に彼女を見つけて、心臓がドクンと脈打つ。確実にこちらに近付いてくる歩みに喜びが湧き上がるが、“今まで通り”が脳裏を掠めた途端急に自分がこんな時どんな反応をしていたか分からなくなって、結局地面を凝視して狼狽えるうちにそばに辿り着いた影に、ちょうど気が付いたよといった風に顔を上げて微笑んだ。……俺今ものすごく野暮ったいな。
「隣、座ってもいいですか?」
「もちろん」
平然を装ったまま隣に腰掛ける気配のこそばゆさに身をよじりたくなるのをじっとこらえていたけど、いざ並んで座ってみればいつも心地良く感じていた人1人分もない距離に切なさを覚えて、もっとそばに来てくれていいのにと思ってしまった。だって彼女と俺は恋仲で、恋人同士なのだ。つまり唯一無二の親密な間柄なわけで、だからもっと身を寄せあってそれで──それで?
はたと疑問が頭をもたげる。恋人同士ってどんなことするんだ?
当然何も知らないわけじゃあない。場所も時間も関係なしにあけすけに視線を交わしては、隙あらば揃ってどこかに消えてた村のやつらとか、町にいる相手と貴重な休日の度に逢い引きを試みたり、なけなしの給料で買った絵葉書と入れ違いに故郷から届いた手紙をボロボロになるまで読み返し、最期まで懐に忍ばせていたやつらとか。当人たちには何より尊い時間だったと理解できるが、現状で倣うにはどれもピンと来ない。
一番その関係に近かった梅ちゃんと過ごした日々をざっと思い返してみたりもしたが、互いを将来の相手として意識こそすれど実際は幼馴染以上の関係に進むことはなかったので、この場で参考にするにはあまりにも淡く清らかすぎる。
ならとりあえずは今まで通りに……と思っても、もはやその今まで通りが分からない。昨日まで彼女とどんな風に接してたっけ? どんな話題で話をしてたっけ? 二十余年生きて初めての状況に、膝に肘を立て組んだ手に口元を押し付ける。
落ち着け俺。何も難しく考える必要なんてない、心で感じろ。そもそも彼女と何がしたい?
接吻したい。
バカおまっお前馬鹿何考えてんだこのドすけべ野郎。いやでも待てわかる、接吻、接吻なんだって。隊で回し読みされてた春画にあった口吸いみたいなネロネロチュウチュウするやつじゃなくて、いつぞや読んだ小説の中で西洋の騎士が夫人に愛の誓いに口付けたように、やましい気持ち抜きでただお互いの一番柔らかい場所を触れ合わせて存在を感じたあ゙〜やめだやめっ!
……頭使って真面目に考えろ。ほら、隣にいる彼女に対してどうしたいんだよ。
抱きしめたい。
…………まだ、まだちょっと早い。物事には順序ってもんがあんだよ。少しはマシなこと思い付けよあんぽんたんが。
──じゃあ手を繋ぐだけなら?
自問自答の末に頭の中に瞬いた閃光にカッと目を開く。それだ。それなら何度もしたことがある。当時は仲間として手助けのために掴んでいたけど、今回はそうじゃない。ただ意味もなく手を繋ぐ。触れたいから。うわそれすげえ恋仲っぽい。
にやけそうになる口元を無理やり真一文字に引き結んで、目標をちらりと盗み見る。そう遠くない場所に置かれているきれいな手。日々の頑張りが滲んだそれが見た目よりもずっと柔らかくスベスベしていてほんのり温かいことを、俺は既に知っている。
俺さっきまで何してたっけ。汚ねぇもん触ってなかったよな……? 体勢を変えるついでの体でそれとなく手のひらを外套に擦り付けてから丸太に添えて、一拍の後、焦がれる体温に向けて滑らせていく。存外すぐ指先に触れたソレがピクッと跳ねた感触に一瞬で後悔が生まれかけたが、それ以上の反応はなく、沈黙が続く中で小指と小指が触れ合う面に燃えるような熱を感じる。
行け。行くんだ俺。荒ぶる鼓動が彼女に聞こえていないことを切に願いながら、意を決してその手を握ろうと手を伸ばし──
「杉元ォ!」
「まだ何もしてませんッッ!!」
鋭く名前を呼ばれた瞬間飛び跳ね弁明を叫ぶ。と同時に何かが頭上を飛び越えていくのを視界の端に捉え、反射的に振り返り背後に建つ家の裏に消えていく細い棒を確認する。
「? そっちに矢が飛んでいくから気を付けろと言うつもりだったんだが、当たらなくて良かった。お前たち、遊びでも弓矢は慎重に扱え。取ってくるから少し待っていろ」
「あ、俺取ってくるよ」
自然と浮かんだ善意を咄嗟の言い訳にして、返事を待たず矢の消えた場所へ足早に向かう。心臓がドクドクうるさい。でもお陰で頭は正気に戻って、あんな人目のある場所でするようなことじゃなかったと反省する。あのまま手を握っていたら、彼女はどんな反応をしたんだろう。優しい人だから振り払われるなんてことはなかっただろうけど、それでも万が一にも拒まれていたら間違いなく当分の間立ち直れなかった。ありがとうアシㇼパさん、また助けられちまったぜ。
幸い、矢は回り込んだ家の裏ですぐ見つかった。先の削られた茎を拾い上げてさあ戻るかと振り返った矢先、数歩離れた場所に彼女を見つけて全身が硬直する。なんでこんなところに。ひょっとして一緒に探そうとわざわざついてきてくれたんだろうか? だとしたらちょっと、いやすごく嬉しい。
容易に浮ついた気持ちのままに「見つかったよ」と持ち上げて見せれば微笑みが返ってきたけど、そのぎこちなさに小さな違和感。「戻ろっか」と続けて数秒待っても返ってくるものがないことで、違和感が確信に変わった。
緊張した面持ちで周囲を窺い、それからやや眉尻の下がった上目遣いを向けてくる姿に胸がムズムズする。なになにどうしたのぉ〜? なんて猫なで声を上げていくらでも見守っていたい心持ちではあるが、アシㇼパさんたちを待たせすぎるわけにもいかないともう一度声をかけようとしたところで、可憐な唇がうっすらと開く。
「杉元さん……あの、お願いがあって」
「うん」
考えるより先に承諾してしまった。おねがい。昨日まで会話の一部でしかなかった単語にキュンと感情が昂る。なあに? 何でも言ってみて。今まで以上に君の願いを叶えてあげたくてたまらないんだ。まだ口にするには勇気が足りない本心を眼差しに込めて、じっと耳を済ませていたら。
「手を、握ってもいいですか?」
「うん。……え?」
二度目の承諾の後、遅れて言葉の意味を理解する。想定外のお願いにうっかり漏れ出た間の抜けた声に、彼女の表情にさっと焦りが浮かぶ。
「す、すみません変なこと言っちゃいました! やっぱり今のは忘れてくだ」
「しようすぐにいまおねがいしますぜひ」
必死かよ。突き出された傷だらけの厳つい手を見下ろして冷え切った気持ちは、それを包み込んだぬくもりに一瞬で塗り潰された。
店先に並んだばかりの餅みたいにきめ細かな肌とじんわり体温を分かち合った後、導かれるがまま手のひらと手のひらが重なって、しなやかな指が日に焼け節くれ立った指の隙間からなまめかしく生え折れ曲がる様に、くらりと眩暈を覚える。抗えない衝動にその手を握り込む。柔らかい。すべすべしてる。俺の手の皮、硬すぎて痛くないかな。あったかい。いや熱い。なんかじっとりしてきた。ぜってぇ俺の手汗じゃん。嫌じゃないかな。嫌だよな。でも離したくない。
取り留めのない思考で頭がぐるぐるかき回されていたところで、指先にわずかに力を込められてはっと我に返る。
「急にごめんなさい。その、せっかく杉元さんと気持ちを確かめ合えたから、ちょっとだけ、特別なことをしてみたくなっちゃって……」
まつ毛を伏せてしどろもどろに説明する彼女を穴の開くほど見つめる。かわいい。世界で一番かわいい。
嘘みたいにあっけなく手に入った奇跡。同じように一瞬で消え去ってしまう気がして、失いたくないばかりに本音を隠して何もできなくなっている俺とは違う、彼女からの目に見えるまっすぐな好意に心が震える。包み隠さず向けられる愛情がこんなにも満ち足りた気持ちにさせるなんて、随分と長い間忘れてしまっていた気がする。
俺も言いたい。してみたい。思いが通じ合ったからできること。彼女がしてくれたみたいに、好きを率直な言葉に乗せて──
「接吻していい?」
違うだろっっ!!
「ごめん間違えた……その…………抱きしめても、いい……かな……?」
欲に抗いきれず転び出てしまった本音に、何重にも衣を着せ改めて尋ねれば、彼女は大きく見開いていた目をくすぐったそうに細め、花が咲いたような笑みを浮かべる。
「嬉しい」
「俺も」
思った先からだだ漏れの声も今となってはどうでもいい。遠慮がちに俺の胸に手をついて身を寄せてきた彼女の華奢な背中に手を回す。鼻孔を擽った心落ち着く香りを鼻息を潜め胸いっぱい吸い込めば、こちらが抱きしめられているかのような安堵が全身を包む。
外套の上からでも感じる、彼女の温もり。生きている証。愛しくてどうしようもない気持ちのまま両腕に力を込めれば、甘えるように頬を胸に摺り寄せ返してくれて、今の俺と彼女は心と心で繋がっているんだと理解する。
ああ、こんな思いを俺なんかがまだしてもいいんだろうか。気を抜けば涙が出そうなくらい幸福で胸がいっぱいで、少しだけ恐ろしい。いつかどこかでまた失ってしまったら。そんな考えが脳裏を過り安全な場所へ置いておきたいと強く思うと同時に、もう二度と手放せないことも確信する。この感情を、なかったことにするなんてできない。
一瞬、あと一瞬だけ。それを何度も繰り返し、やがてどこからか漂ってきた食欲をそそる匂いをきっかけに、名残惜しさたっぷりに腕を解いた。胸の重みが消えて半身を無くしたようなもの寂しさを覚えるなんて、自分でもどうかしていると思う。
「……ありがとう」
「私こそありがとうございます。すごく……すごく、幸せな気持ちです」
そう言って見上げる微笑みに、愛しさに溶けきれなかった切なさを見つけてドキッとする。俺も同じ気持ちだよ。でもこれ以上は本当に離れられなくなってしまいそうで、軍帽の庇を目深に下げて空元気に「さあ、戻ろうか」と踵を返そうとしたらつん、袖を引かれ、丸い爪を辿れば躊躇いと恥じらいが滲む瞳。俺の命に代えても末代まで守り通してみせる。
「あの……あと、できれば……ちゅ、ちゅーも……」
ごきゅりと生唾を呑んだ音が頭に響いた。今のは幻聴か……? 自分の耳を疑い固まっていると陰る表情。全力で首を左右上下に振って主張すればほっと安堵の表情に変わり、意を決したようにキュッと目を閉じ、顎を上げて唇を尖らせる。幻聴じゃなかった。こんなにかわいいままよく無事に生きてこられたね。俺びっくりだよ。ところでちゅーってどっちのことだろ。普通は口吸いの方だけど、この子そういう話に疎いんだよな。そこがまたいいんだけど。うん、きっと接吻のことだな。そうに違いない、そうであってくれ。でないとこっちがどうにかなっちまう。
もう迷いはない。手の中に簡単に収まってしまう肩を包み、愛らしい形にピッタリ嵌るように角度を変えながら、吸い寄せられるように顔を近付けていく。先端に神経を集中させたくて目を閉じたら早すぎて距離感が掴めなくなったので、そーっと薄目を開けてみる。
突き出されたまま震えている桃色の唇。プルプル瑞々しくて見るからに柔らかそうなそこに狙いを定め、限界まで絞った唇をそっと押し当て──
「っ」
「ひゃっ」
嫌な予感にばっと振り向けばいつからそこにいたのか、独特の髪型をしたアイヌの子供がフリチン姿で指をしゃぶっていたもんだからビクッと肩が跳ねる。同じく気付いて慌てて俺の胸に顔を隠してしまった彼女からは見えない位置で、こちらを凝視し続けている子供に手の動きで向こうに行くようにと伝えると、顔色一つ変えずにどこかに立ち去って行った。
ほっと一息ついたものの、空気は台無し。仕切り直していいかな。でも今の子供が他の誰かを連れてくる可能性も否めない。非常に、ひっじょ〜に心苦しいがここは諦めるしかねえかと小さくため息を吐いた瞬間、ふにゅり、頬に柔らかな感触がして。骨がすっかり錆び付いたように、硬くぎこちなく首をねじる。目が合う。耳まで赤い、わらってる ふにふに あかい やば
「え、えへへ。すきあっ」
遠慮もクソもなく甘く柔らかな果実に吸い付いた。
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