花の匂いで噎せ返っても

ゼファーによってかろうじて繋ぎ止められていた家族の糸はぷつりと切れた。エンデヴァーは以前にも増して怒りや焦りを抑えきれなくなっているようだった。電話口に怒鳴るエンデヴァーの叫ぶ声に母が身を竦ませる。

日が射さなくなってしまったように家の中は暗くなり、台所で電話をする母の怯えた声が気になった俺は恐る恐る部屋を覗き込む。そのあとのことは熱さでよく覚えていない。目を覚ましたら視界は半分になっていて、母はどこにもいなくて、エンデヴァーは以前のクソ親父へと戻っていた。―――いや、歯止めの利かなくなったエンデヴァーは、前にも増してひどい有様だったようにも思う。止める人間がどこにも居なかったからだ。

俺は怪我の増えていく自分の体を見下ろして、今は居ない母やゼファーのことを思い出す。
入院する母には会えない。会いに行けない。
死んだゼファーには会うことができない。どこにもいない。

自分にとってのゼファーは、母や俺を庇い守ってくれたヒーローだった。ゼファーが自分の父親だったら、とそう考えたこともある。ゼファーが父親だったら、苦しい特訓を強いることはないだろう。俺を殴ったりしないだろう。そんなことを、ゼファーがいなくなってから何度も想像していた。その度に胸が締め付けられるような感覚を抱え、毎日眠りについていた。

あれから長い月日が経過した。俺たちは全員、ゼファーの死に向き合えないままだ。

冬美姉が思い出話をするようにゼファーの名を出す。その度に家は暗い雰囲気になって、冬美姉は昔を思い出して涙ぐむと小さく謝った。俺はゼファーが花を植えた場所によく目を向けていたが、いつの間にかそれもやめてしまっていた。あの優しい人を思い出すことが苦痛になっていた。

中学三年の冬、推薦入試で人より早く進路が決まっていた俺がランニングから帰ると、慌てた様子で冬美姉が玄関にやってきた。一体何があったのかと尋ねる俺に、冬美姉は言った。

「ゼファーの子供が、雄英に入学するって・・・・・・焦凍と同級生って書いてある」

俺は言葉を失って固まる。冬美姉に差し出されたスマホのニュースに目を通すと、こう書かれていた。

『―――ゼファーの子供が、雄英高校のヒーロー科に合格したという情報が確定。同学年には現NO.2ヒーロー・エンデヴァーの息子も。かつてゼファーはエンデヴァーのサイドキックとして契約していた過去があり、二人の子供が彼らの出身校で机を並べるというのは感慨深いものがある。ゼファーの子供についての詳細は不明。父親と同じ“個性”を受け継いでいるのならば、サイキックヒーローの復活もそう遠くないだろう―――』

それから数時間後、帰宅したエンデヴァーに初めて自分から声をかけた。理由はただ一つ、あのニュースが本当なのか、デマじゃないのか、エンデヴァーは知っていたのかどうか。
矢継ぎ早に質問を繰り返す俺に、エンデヴァーは淡々と答えていった。

ゼファーの子供が雄英に入学するのは事実で、
そいつはゼファーと同じ“個性”を持っていて、
これまでずっとヒーローになるための訓練をしていて・・・・・・

何かが崩れる音がした。エンデヴァーの言葉も届かない程、俺は・・・・・・、
俺は――――――

雄英に入学した直後、個性把握テストで自分のすぐ後に計測した生徒が、ゼファーの子供だと俺はすぐに気がついた。

あの人と同じ赤い瞳が、“個性”の使用時に色を変える。何度も見たことがある、物を浮かす“個性”の使い方。その後ボール投げで負傷した別の生徒を甲斐甲斐しく手当していたそいつが、手の平から突然植物を発生させるのを見た。

更衣室へ入ってきた金髪の生徒の手には青いバラがあり、肘が特徴的な生徒が不思議そうに声をかける。

「どうしたそれ」
「実操さんに貰ったのさ。彼女、植物を創り出せるみたいだよ」
「ゼファーにそんな力あったか?」
「操作するのは見たことがあるけど」
「似たようなもんか」

ロッカーの扉を握る手に自然と力が入る。

―――違う。

ゼファーの“個性”じゃない。ゼファーは植物の成長を操作する力はあったが、植物自体を無から作り出すことは不可能だった。なら、ゼファーの子供が使っていたのは誰の“個性”だ。

決まってる。母親の“個性”だ。

使用できる環境が限定的だった植物操作という力を、自分の好きなときに使えるようになる“個性”。
超能力の“個性”を、サポートする力。
弱点を補う“個性”。

(ゼファーも同じだったんじゃないのか)

どす黒い感情が体の中に溢れ出し、抑えきれなくなる。ロッカーを閉じると思いのほか強く、大きな音を立てた俺に両隣の二人が驚いたようにこちらを見た。「・・・・・・悪ィ」と言ってカバンを手に更衣室を出る。

教室へ向かう途中頭にあったのはゼファーとそいつの子供のことだった。

エンデヴァーの行動を非難していたくせに、俺たちを庇っていたくせに、自分だって同じことをしてるじゃないか。“個性”婚なんて倫理観の欠落した前時代的発想を・・・・・・。

「私は確かにゼファーの子供だし、彼と同じ“個性”も使える。だけど、ゼファーじゃないし、彼の代わりでもない」

更衣室の外から聞こえたゼファーの子供の発言を思い出す。強く握りすぎた拳は感覚が無くなっていた。爪が立てられた手の平の痛みだけしか分からなかった。

吹っ切れたような発言がただ、癪に障った。あいつがこれまでどんな人生を歩んできたのかは分からない。ゼファーが死ぬ前、死んだ後、どう生きてきたのかを俺は知らない。
そこまではエンデヴァーに聞かなかった。
正直、どうでもよかった。

あいつはなんのしがらみもないように、なんの不自由もないように笑っていた。自分はゼファーの代わりではないと、吹っ切れたように堂々とゼファーの“個性”を使っていた。父親の望んだ道を進まされているというのに、笑っていた―――。

ゼファーの子供が俺のような教育がされなかったのは、ゼファーが死んだからだ。そうだろ? だからそうやって笑っていられる。もしかしたらゼファーはエンデヴァーのような、暴力による教育はしなかったかもしれないが、仮にそうだとしても覆らない事実がある。

“自分よりも優れたヒーローを作り出す”
そのためだけに、俺たちは生まれてきたんだ。


体育祭を控えたある日、俺はゼファーの子供に声をかけていた。“個性”の影響なのか、こいつからはいつも花の香りがする。十年前の庭に咲いた花を思い出し、苦々しい思いがした。ゼファーとは違う長く白い髪は記憶にある母によく似ていて、どうしてこいつは俺の神経を逆撫でばかりするのかと心の中で思う。

細い体型の割にお盆に大量の飯を乗せてきたことには驚いたが、特に言及することもなく向かい合って食事を始めた。それからすぐに質問を投げかける。“個性”について、ゼファーとは違う能力について。

「ゼファーの“個性”とまるっきり同じって訳じゃなさそうだな」
「・・・・・・他の血が混ざれば“個性”も変質するでしょ」

その発言で、俺は確信した。正直言えば、ゼファーがエンデヴァーのようなことをするはずがないと、そう考えていた自分が、確かに存在していたのだ。

「全部、ただの偶然なんじゃないか」
でも、そんな淡い期待は消え去った。

―――そうだ。

ゼファーに子供が居ると知ったとき、そいつがゼファーと同じ“個性”を受け継いでいると知ったとき、同じヒーローを目指していると聞いたとき、俺は失望していた。

俺にとっての良い人だったゼファーは、実際はクソ親父と相違ない人間だったのだ。

その子供は、そんなことにも気付かずにいる。
父親の敷いたレールに疑問すら抱かずに生きている。

俺は違う。古臭い思考で俺たちを支配しようとする父親の言いなりになんてならない。

「お前とは違う。父親の道具にはならねえ」

宝石の赤が光を鋭くさせてまっすぐに俺を貫いてくる。ゼファーとは似ても似つかないその温度の無い瞳の色も、顔立ちも、醸し出す雰囲気もなにもかも気に入らない。

かつて俺が望んだ場所に居る人間が、急に憎らしく映ってたまらなかった。

―――俺はこいつを負かしてやりたい。
父親の力を使わずに、父親の力に頼りきっているこいつに勝ちたい。

そうすることで、今もまだ俺の記憶に色濃く残っているあの人の存在を、全て消せる気がする。あの笑顔も優しさも、瞬きのように一瞬で過ぎ去ったあの穏やかな日常も何もかも、

実操卯依に勝ったら、全て振り払える。


「―――どこ、見てるんだ・・・・・・!」