重すぎる愛に埋もれて

私はすごい瞬間を見てしまった。
それはそれはもう、ドラマとかでしか見たことないような瞬間だ。何もかも偶然なはずなのに見てしまった。
今のタイミングでお腹空いたのも偶然、入った店も偶然、座ったテーブルも偶然、すべて偶然。なのに私は見た。偶然入った店で、偶然座ったテーブルの近くで、この地方のチャンピオンにして私の先輩である人が女相手にコップのお冷やをぶっかけられてる一部を。
女は帰って、今そのテーブルにはチャンピオン様が一人座っている。
周りもすごい見ている中、店員さんが持ってきたタオルで呑気に水を拭うその人。


「なあ、隣来ない?ちょうど空いたから」


なんて声が聞こえた。誰に向かって言ってるんだこの人、と思いつつ私には他人事なのでお冷やを口に含む。


「君だよ。ナマエさん」
「ぶふぉ!」


水を吹き出す私を見て可笑しそうに笑いながら「汚いなぁ」と呟いた彼を二度見して、私は顔を引きつらせた。
まさか先輩がお呼びの人が私だと思ってなかったから予想外過ぎてリアクションが大袈裟になってしまう。


「わ、私ですか先輩」
「そーそー」
「いやあの…あんな修羅場見た後にその場所座る勇気ないです」
「じゃあオレがそっち行くよ」
「いやいや来なくていい!」


私が断ったにも関わらず、こちらに移動してきてまさかの目の前に座った先輩。私はどーすればいいのか戸惑う。


「いやー、まだ何も食べてないからお腹空いちゃったよ。何にするのナマエ」


戸惑う私をよそにメニューを開いて呑気な態度。


「…あの、名前で呼ばないでください」
「ひどいなぁ」
「あんな場面見たあとに名前呼ばれたくないでしょ誰だって。なんで呼び捨てなんですか」
「いいじゃんいいじゃん」


不愉快だ、正直不愉快だった。
私は立ち上がり、先輩を見下ろす。


「なんかお腹いっぱいになったんでもういいです」
「…ならオレも帰ろうかな」
「ついて来ないでください」
「冷たい後輩だな。宥めてくれよ」
「嫌ですよ」


断りを入れて店を出る。注文まだしてなくて本当によかった、そう思いながら歩いていたら隣に気配。


「…あの」
「ん?」
「なんでついて来たんですか?!」


平然とした態度で「え?だめ?」と言われた。私は大袈裟なくらい大きなため息と共に訝しげな表情をした。
本当にいい加減にしてほしい。いったいなんなの?なんで私について来るわけ?いつまでも隣を歩く先輩が、そろそろ嫌になってきて私は立ち止まる。


「あの…カルム先輩」
「ん?」
「さっきの心配してるなら、誰にも言わないですよ」
「ハハハ、そりゃどーも」


「でも残念。べつにその件は気にしてないから」と笑っている先輩に首を傾げたくなった。ならばどーして私について来るのだろう。


「ナマエは、オレがこんなことしなくても誰にも話さないって知ってるから」
「なんで言い切れるんですか」
「うーん、なんとなく」
「…」


なんなんだ、いったいなんなんだこの人。まったく何を考えているのか読めない。
女絡みの修羅場を目撃した私からすれば、この人は間違いなくさっきあの人と何かあったのは確かだ。
付き合ってるか定かではないが、そんなことがあった後になぜ私にそんな軽々と言えるのか。この人実は遊び人か?
なんて探りを入れるような目を向けるとクスクス笑われた。


「ナマエ、オレにさっきのこと訊かないね」
「聞いたところで私には関係ありませんので」
「冷たいなぁ…」


「でも、ありがとう」なんて苦笑いする先輩。
本当に読めない人で困る。何に対しての礼だ。


「ちなみにこれからどこ行くの?」
「いったん家に帰るんです。ご飯食べに」
「オレもいいかな?」
「自分の家に帰ってください」


自分が何言ってるのかわかってるのか。


「濡れてて寒いし気持ち悪いし。ここからだと家までかなり遠いからなぁ、空を飛んだら余計冷えるし」
「…」
「風邪引いちゃうかも」
「……」
「可愛い後輩に見捨てられて明日風邪で寝込むなんて噂流れたらすごい惨めじゃんオレ」
「わかりました!わかったからもう喋らないで」


すると途端にパァと明るくなるカルム先輩。はめられたとわかってるつもりだし、嫌なのは百も承知。なんなら風邪引いてもいいから家に帰れ、と言いたいけど…変な噂流されて私の名前が汚れるのは今後的にも宜しくない。私はめっぽう押しに弱いと染々思う、自覚があるから余計に疲れた。


「来てもいいけど勝手なことしないでくださいね」
「りょーかい」


本当にわかってるのか不安になってきた。
自宅までの道のりはそれ以上話すこともなく、家につくと電気を点けてカルム先輩をとりあえず招き入れる。中はそんなに散らかってないし、適当に座ってもらおう。


「バスタブ溜まってないんで、シャワーでよければ貸しますよ」
「え」
「あ、でも着替えがないのか…」


うーん、と悩む私に先輩が「ちょっと」ともの申してきて、悩むのを中断した。


「なんですか」
「男に風呂貸すってどーなの」
「風邪引いちゃうかもって言ったのあなたじゃないですか」
「いやいや!そこは暖房器具とか…」
「あー。うちまだ出してないんです」


そう言えば何か言いたそうな顔をした後、先輩は「…じゃあ、有り難く借ります」と大人しくなった。私だっていくら尊敬できる先輩相手でもお風呂なんて貸したくないですよ。でも家、何にもないから。


「着替えは…」
「いい、」
「そーですか。少しでも乾くように窓際に掛けときますか?ブランケットならありますから、使ってください」


幸い濡れてるの上だけみたいだし、と付け足すすと聞こえた小声は「後悔するなよ」と、まるで私に忠告するような言い方。
それはちゃんと私の耳にも届いていて、小さくため息を吐き出す。


「家に入れた時点で後悔してます。てゆーかあの店入るんじゃなかったって後悔してます」
「根本的なところ攻めてくるなよ」
「グダグダ言ってないで早く入ってください。ご飯なんでもいいですよね」
「え…ご飯までくれるの?」
「いったい何しに来たんですか先輩」


私はそこまで先輩の目に鬼として見えているのかと思うとちょっとショックだ。彼の背中を押してリビングから追い出し、彼が風呂に入ってる間に服をハンガーにかけて乾かしとこう、と計画を密かに練る。
ご飯なんてなんでもいいか…と残り物の味噌汁に火を点けて炊飯器を開く。ちゃんと二人分あるのを確認して冷蔵庫を開いて適当な食材を取り出した。一口サイズに切って炒め、醤油と味醂で味付け。うん上出来。
おかずを数品作ると、先輩の服を乾かそうと風呂場へ行った。


「せんぱーい、服…」
「ん?」


開けて後悔した。風呂上がりの先輩がタオルで体を拭いていた。私は即座に扉を閉めた。
やらかした!恥ずかしいっ…!


「開けるならノックぐらいしなさい馬鹿!」
「すみませんすみませんすみません」
「てゆーか開けて!」
「無理です無理です出てこないでください」


好意すら抱いていない、ただの先輩の裸を見てしまった。でもやはり、いくらただの先輩でも恥ずかしいという気持ちはあるわけで、私は先輩が風呂場から出てこれないように扉を押さえている。今先輩の顔をまともに見られない自信がある。
私が悪いのだ、これは私の油断が招いた結果だ。すみません先輩、不愉快な思いをさせました。


「ナマエっ、ちょっと!本当に開けて!服着てるから!」
「そーいう問題じゃないんです!」
「お前がそんなんじゃ…オレ、勘違いしそうになるだろっ!」


途端、力が抜けた、油断してしまった。
その隙に扉を開けたカルム先輩が私を抱き締める。背中に回される太い腕に、私は目を見開いた。見上げると、ポタポタと髪の毛から落ちた滴が私の頬に流れる。


「せんぱ…」
「あのさ、今日のあれ…フラれたんだよねオレ」


訊いてもいないことを話始めた先輩。私は抵抗も忘れて先輩を見上げる。


「今まで、特別をつくるのが怖くて…ずっと女を取っ替え引っ替えしてたんだ。皆、チャンピオンとしてのオレしか興味ないみたいだった」


強まる腕の力は、痛いくらいに私を強く抱き締める。


「でもお前は、…お前だけは変わらずオレをカルム先輩って呼んでくれた」
「せ、せんぱ」
「もう無理。我慢できないかも」
「ぇ」
「好きだ、ナマエ」


訳がわからなかった。いったいどーいう意味なのか、私にはさっぱりわからない。
説明するならもっと詳しく言って先輩。ねえ、唇塞がないで、息ができない。


「っん…ぁ…せんぱっ…」


抵抗しようと胸を押すが、その腕を掴まれる。私の掌を包み込むように握られたかと思えば、指をからめられ、ゆっくりと壁に押される。なんで私は口付けられてるのか、朦朧とする意識では理由すら考えられなくなって力が入らない。
膝が震え、立っているのも限界になって座り込む私の唇をまだ先輩は追い掛けてきた。


「っは…ナマエ」
「ん……ぁ…はぁ…」


いつの間に舌を絡めたんだろうか。もう、本当に理解できない、苦しくて仕方なかった。


「好き、好きだナマエ」


そう甘く呟いては唇に吸い付く先輩。息がしたいのにそれすら許してくれない先輩に視界が歪む。鼻で息をしようにもできなくて口を開いたら舌を入れられ、ねっとりとしたキスをされる。
もうどれくらい経ったのだろう、私には長く感じた口付けの時間は、途方もないように感じて、もう死んでしまいそうだ。ふわふわする意識の中、歪む視界でカルム先輩がやっと唇から離れたのを確認して息を一杯一杯吸い込む。


「ナマエ、可愛い」


額に柔らかい唇が触れた。いつもなら言い返すのだけれど、今はそれすらできない。言い返す余裕がない。
頬を撫でた後、先輩は首筋に顔を近付けた。


「っ…せんぱい…だめっ」
「ごめん。もう無理だ」


服の上から膨らみに触れた先輩。朦朧とする意識のまま力の入らない手で無駄とも言える抵抗をするが、優しく退けられた。


「ずっと好きだったんだ」
「やめっ…ぁ」
「他の女じゃ無理なんだ」


「ナマエじゃなきゃ…っ駄目なんだ」と弱々しい先輩。いつものおちゃらけた雰囲気はどこにもなくて、その表情を見ると何も言えなくなる。


「先輩…」
「カルムって呼んで」
「っでも」
「いいから」


服の隙間から中に手を入れ、ブラも容易く外される。駄目だよ先輩、味噌汁冷めちゃう。


「先輩…ご飯は?」
「カルムって…呼んでくれよ」
「先輩髪の毛、渇かさなきゃ…」
「なあ」


期待するような目で見ないで、優しく触れないで、優しく口付けないで。


「…カルム、んっ」


名前を言えば塞がれる唇。先輩はキスが好きなのかな?明日になって私の唇腫れてたらどーしよ。


「ナマエっ…好きだ」


一方的なその想いに、私はどう応えればいい?


「ぁん…カルムっ…」


苦しくて仕方ない、私は、どーすればいいのだろう。涙で歪む視界の中、私は彼を招いたことを後悔した。

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