広い工房に、ドリルの音が響き渡る。作業用の革エプロンと革手袋、保護マスクを身に纏って一生懸命何かを作っている恋人を眺めながら、私はひとつため息をついた。
何を作っているのか、詳しい事は私も知らない。『ロクでもない事』に使う機械だって事はわかるけど、それ以上の事はいつも教えてくれない。こんな仕事に、私を巻き込みたくないから…って彼は言ってたけど、もう恋人である時点で巻き込むも何も無いんじゃない?って思う私が変なのかな。
「ねぇ、ちょっと休憩しない?お茶でも飲みながら、お話しようよぉ」
「…………」
「ねぇ、イーノックってばぁ!」
こっちが大声で訴え掛けても、気にすること無く知らんぷり。作業の手を止める事も無く、黙々と正体不明の何かを作り上げていく。集中すると、何も聞こえなくなるみたい。
折角遊びに来たのに、彼ってば作業ばかり。そりゃ、何も言わずに来た私が悪いのだけど。作業中に気が散ったら危ないって事だってわかる。でも、少しくらい構ってくれたって良いじゃない。
…あっ、そうだ。
「ねぇねぇ、イーノック!私の事、"ハニー"って呼んで!」
思い切って言ってみると、彼はずっと動かし続けていた手をピタリと止めて、おもむろにこちらを見てきた。保護マスクで表情は見えないけど、多分「また思い付きで何か言ってんなぁ」って思ってるんだろうなぁ。
別に、単なる思い付きってわけじゃない。この間、街中で仲睦まじい恋人たちが、お互いの事を「ハニー」とか何とか呼び合ってたから、良いなぁって思ったの。
確かに、こういう突拍子も無い事を言えば、こっち見てくれるかなって思いはあったけど…私だって、たまには甘く囁かれたいんだもん。
「何です、急に…」
「だって貴方、いつもそっけないんだもん。淡々と、マキシアって呼ぶだけで」
ちょっと意地悪っぽく言ってみると、彼は大きくため息をついて、仰々しい保護マスクを外した。
ふふふ!私の大好きな、イーノックのお顔!反射的にキスしたくなったけど、高身長の彼の唇に私の唇は届かないから、大人しくハグで留める事にした。
「別に、それで良いでしょ。何が不満なんですか」
「不満とかじゃないけど、たまにはラブラブカップルみたいな事したいんだもん。だから、"愛しのマイハニー"って呼んで!お願い…♪」
彼が私の甘え声に弱い事は、よく知ってる。だから、これでもかってくらいに甘ったるい声を出して、油が染み付いたエプロンに顔を擦り付けながらお強請りしてみた。
イーノック、どんな風に言ってくれるんだろ?いつもみたいに、淡々と言うのかな。ちょっと照れながら言ってくれたら、とっても可愛いんだけど。
あっ。それとも、からかうように言ってくるかな。それはそれで面白いけど…
「…嫌です」
「えッ」
「そんなの、オレのガラじゃありませんし。大体、バカっぽくて嫌いなんですよ…そういうの」
『バカっぽくて嫌い』わざわざ強調するように言い放ってきたその言葉が、頭の中でこだまする。彼の顔を見てみても、ただ当たり前の事を言っただけというような表情。冗談では無く、本当に嫌がってるんだっていう事実を突きつけられたようで、酷く悲しかった。
どうして、そんな事言われなきゃいけないんだろう。
世の中の恋人たちがしてる事を、ほんの少し望んだだけなのに。
「あの、そろそろ離れてくれませんか?作業に戻らないと、間に合わな…」
彼が全てを言い終える前に、その広い胸を軽く突き飛ばした。ほんの少し力を込めただけなのに、不意をつかれたからか長駆が大きくよろめき、大きな目がカッと見開かれた。
わかってない。私が貴方に自由に会う事も出来ないのを、ずっと我慢してるのも。どんなに我儘を言っても、普通の恋人たちがしている事は、あまり望まないようにしている事も。
何にも、わかってないんだ。
「もういい」
「は…?な、何が…」
「もう、イーノックなんて知らない!大嫌い!」
呆然としている彼を残して部屋に駆け込み、ベッドに沈み込んだ。途端、さっきまで堪えていた涙が一気に溢れてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった。
わかってない。彼は何にもわかってない。私の事何もわかってないから、あんな事言えるんだ。あんな淡々と、冷たい口調で…
…それとも。私の事、もうそんなに好きじゃないのかな。
嫌な考えが頭に浮かんで、違う違うと頭を振る。それでも、一度浮かんだものはなかなか消えてくれないもので、ずっと私の心を攻撃し続けてきた。
もしかしたら、何もわかってないのは私の方かもしれない。
彼が今、私をどう思ってるのか。ずっと愛してくれてるって疑いもしなかったけど、本当はもう疲れちゃったのかな。
だから、私の事を「ハニー」なんて呼びたくないのかな。休憩して私とお話する事すら、面倒くさいのかな。
…そうだとしたら、凄く悲しいよ。
次々浮かんでくる思考に飲み込まれそうで、泣きわめきたくなったけど、私は静かに枕を濡らし続けた。
工房にいる、彼の邪魔をしないように。
◇
…よし、ひと区切りついた。
パーツの取り付けを終えて、一旦休憩を取る事にする。蒸れて暑苦しいマスクと革手袋を外し、重い革エプロンを脱いだら、一気に身体が軽くなった感じがした。
いつもならこの解放感に少し気が紛れるものだが、今回ばかりはどうもダメだ。寧ろ、作業に集中している時の方が、幾分か気が紛れていたかもしれない。
さっきマキシアを怒らせてしまった事が、頭から離れない。「大嫌い」自体は拗ねた彼女の常套句だし、珍しいわけじゃない。だが、あの様子は本気で怒っていたし、悲しかったのだろう。大きな瞳に、涙が滲んでいたから。
何も、オレが鋭くて気付いたわけじゃない。彼女がわかりやすいだけだ。だからこそ、余計に罪悪感が生まれてくる。彼女を傷付けてしまった事への、罪悪感だ。
最初でこそ、「また思い付きで何か言ってんなぁ」とは思った。だが、どうやらそうじゃないらしい事はすぐにわかった。大方、街中で見た恋人がそう呼び合ってて、ずっと羨ましかったんだろう。それでオレの気を引こうとして、あんな風に強請ってきたんだ。この油が染み付いたエプロンに、顔を擦り付けてまで。
そこまでわかってるなら、呼んでやれば良かったと思われるだろう。
でも、こんなオレが言ったって可笑しいだけだし…何より、言う資格も無い。恋人らしい事もしてやれてない人間が、簡単に甘い言葉を囁いたところで、胡散臭いだけじゃないか。
…マキシア、どうしているだろう。ベッドに篭って、泣いてるかもしれない。
謝って、許してもらえるだろうか。いや、許してもらいたいなんて考えちゃダメだな。
自問自答しながら自室に入り、ベッドを見やる。真ん中ですやすやと寝息を立てる恋人の姿に、少し安心してしまった。
何を、安心してるのか。言い訳を考える時間が出来たからなのか、それとも彼女から告げられるかもしれない言葉を、今受け止めなくて済んだからか。
自分の情けない思考に呆れながら、マキシアを見下ろす。白い肌に、薄らと涙の跡がある。
やっぱり、泣いてたのか。それがわかった瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
普通の恋人のようにはなれない。互いに承諾した上で恋人になったものの、彼女だって年頃の女性だ。街中で浮かれた恋人達や、仲睦まじい夫婦を見れば、羨ましいと思うのは無理も無いだろう。
オレには、その感覚はわからない。そんな矮小な人間共の事なんて、至極どうでも良い。だが、彼女は天才でありなから、オレには無い『普通』の感覚を持ち合わせている。無理だとわかっていても、望んではいたいと思っていたかもしれない。
でも、マキシアの願いを叶えてやれる自信は無い。こんな仕事をしている以上、いつまでたっても難しい話だ。
そもそも、オレは『普通の愛』を知らない。アンタへの、溢れそうな程の黒くドロドロとした愛しか。
元より、彼女の求めている物を与えられない人間なんだ。
「…わかってますよ。オレのせいでアンタが、どんなに不自由しているのかくらいは」
口にするつもりも無かった筈なのに、言葉が勝手にポロポロとこぼれ落ちて行く。普段なら何も言わず、ただ彼女の言葉を聞くだけ。
でも、どうせ寝てるんだ。だったら、何も問題無いだろう。
「オレには、道行く恋人が羨ましいだとか、そういった事はわかりません。元来、そういうのには疎いタチでね。でも、アンタがその光景を見る度にソレを望んで、我慢しているであろう事は想像できます。アンタの事は、誰よりも理解してるつもりですから」
とは言え、本当に理解していたなら泣かせはしないだろうし、あくまで『してるつもり』でしかないのだが。
それは言わずに、マキシアの目尻の辺りを優しく撫でる。一瞬長い睫毛が揺れはしたが、起きる気配は無い。今起きられても困るから、少し安心した。
オレは、言葉にする事が怖い。自分の思考を、相手に知ってもらう事が怖い。見聞きした事を共有する事も、人間みたいに振る舞う事も怖い。それで、人生を間違えたのだから。
「"ハニー"なんて呼べないのは、こんなオレが言うと滑稽だから。離れて欲しかったのは、万が一アンタに怪我をさせたら、耐えられないから。早く作業に戻りたかったのは、早く終わらせて、アンタに構ってやりたかったから」
そのはずなのに、嘘みたいにスラスラと出てくる言い訳の数々に、思わず自嘲してしまう。
こんな事、マキシアが寝ている時に言ったって仕方無いのに。起きている時に言ってやれない自分の情けなさに、心底呆れる。
らしくない事を言うよりも、この方がよっぽどバカっぽいな。
「アンタが起きている時に、素直に伝えられない事。心底悪いとも思ってますよ。どうしようも無いくらい、アンタを愛してる。なんて、ベッドの上くらいでしか言えやしない。情けない男ですよ…だから、こういう事だって、今しか言えないんです」
美しい赤髪を指で掬って、形の良い額を露わにさせる。これからする事だって、彼女が起きていたら絶対に出来ない。オレがやったところで格好つかないし、笑われるだけだ。
でも、この時くらい。格好付けたって、罰は当たらないだろう。
「しかし、"ハニー"って呼んでなんて、軽く見られたもんですね。オレにとってアンタは、そんなもんじゃ足りないんですよ」
変に緊張して、筋肉という筋肉がギシギシ鳴り響く。一人喋りなんて滅多にしないし、本心を言う事自体不慣れだ。だからだろうか?いつも以上に筋組織が緊張しているように感じて、動く度うるさくてかなわない。
やっぱり、やめようか。いや、やらないと後悔しそうだ。伝えたい人が寝てるのに、何言ってるんだって話だが。
意を決してしゃがみ込み、布団を整えてやってからマキシアの顔を覗き込む。
そして、白くて眩しい額に軽くキスをし──低い声で、ゆっくり囁いた。
「…Good night,darling.」
言い慣れない言葉にむず痒くなるが、言い終えたのと同時に少し緊張が解れた。格好はつかないが、言えて良かった。
普通の愛情を望む、『最愛の人』。
どうか、アンタが良い夢を見られるように。
ささやかな祈りを捧げた後、寝息を立てるマキシアの頭を優しく撫でて、起こさないよう部屋を後にした。
〇〇
ギィィィ…ガシャン
───…………
な、な、な、な。
何よ今のーーーーー!!!!!?????
動く気力も寝る気力も無くて、ずっとベッドでぐだぐだしてたら、彼の足音が聞こえてきたものだから、驚かせたくて寝たフリしただけだった。
適当なタイミングで起きて、イーノックをびっくりさせて「参りました」って言わせてやる!そう思ってたのに、彼がポツリポツリと言葉を零し始めたものだから、起きるタイミングを見失っちゃった。
ちゃんと、わかってくれてた。私の気持ちも、求めているものも、我慢してる事も。それに、彼の気持ちだってよくわかった。ちゃんと、愛してくれてた。それが本当に嬉しくって、さっきまで怒ってた事なんてどうでも良くなったし、悲しい気持ちも吹き飛んじゃった。
だから、もう良いの。そう思ってたのに。
最後のあれは、一体何!?
彼が、寝てる私のおでこにキスをした。それだけで飛び上がりそうなくらい嬉しいのに、私の事を「ダーリン」って呼ぶなんて!
ああ、もう。あの時跳ね起きて、彼を抱き締めて、キスの雨を降らせるのを我慢した私を褒めて欲しいくらい!空気を読んだ私を、誰か褒めてよぉ!
…どうしよう。ずっとベッドでゴロゴロしてるけど、顔が熱くて治まる気がしない。
うう。今お部屋から出たら、絶対指摘されちゃう。でも、早く会いたくて仕方ないの。
私の、可愛いダーリンに!
もはや平常心を取り戻す事を諦めて、ベッドから飛び起きる。古びた扉を開けて工房に入れば、そこには新聞を読みながらくつろぐイーノックの姿があった。
「ああ、起きましたか…なんか顔が赤いですけど、熱でも出ました?」
「う、うるさいな!もう、貴方のせいなんだから!」
「は…?」
普通にするつもりが、咄嗟に突っぱねちゃった。さっきの事を思い出しちゃって、上手く取り繕えないの。
でも、彼はまだ私が怒ってるって思ってるからか、困ったようにわたわたしては、机の角に足をぶつけて悶絶し始めちゃった。
ああ、もう…ふふっ。
「…冗談だよ。もう怒ってないよ。ごめんね、困らせちゃって」
「あ、いや…オレも、すみませんでした」
バツが悪そうにしている彼の元へ駆け寄って、思い切り抱き締める。すると、彼も私を抱き締め返して、私の頭を撫でてくれた。
えへへ。これで、仲直り!
私の、大大大好きなイーノック!
折角だから、私も呼んであげなくちゃ!
「I love you,darling♪」
彼の目を真っ直ぐ見つめながら、はっきりと伝える。
一瞬の沈黙。賢い彼は全てを理解したようで、大きな目をまん丸にして口をパクパクしたかと思うと、真っ白な頬が真っ赤に染まり始めた。
どんな蜜よりも甘美で、愛らしくて、溶けちゃいたくなる人。確かに、"ハニー"なんかじゃ足りないね。
そんな貴方と、これからもずっと、二人だけの愛を注ぎ合えますように。