epilogue.比翼の鳥



 こんなに、彼女に会わなかったことがあっただろうか。
 
 ジェイドは自室で療養している間、最後に見た弱りかけの雛鳥を何度も思い出していた。救助が駆け付けるまで、ジェイドとヒヨは地面に横たわりながらお互いの息だけを確認して、生きている事への安堵を喉の奥で飲み込んだ。それは、己の命が無事だった事への安堵ではない。お互いが生きていること、それが重要であった。「……じぇ、どさ」と呂律の回ってないヒヨの声に肝が冷えたことを思い出す。なんですか、と返事をするより前に彼女がうとうとと船を漕ぎながら「ねむ、くて……わたし……」など、まるで最後の言葉のように言うので彼女を眠らせないように、必死に身体を揺らしてしまった。覚えているだろうか。覚えていたら、あの時にあんなことを言うなんて酷いと罵ってやりたいくらいだ。

 ジェイドが久々にグローブを手に嵌めてオクタヴィネルの正装を纏っているとノックもせずにフロイドが扉を開けた。

「あー、ジェイド。今日から動いて良いんだっけ〜?」
「えぇ。……監視役、ご苦労様でした」
「ほんっとにね。ジェイド、目離すとすーぐ動こうとする」
「ふふふ、動けるうちに動かないと身体が鈍ります」
「とか言って、うみどりちゃんに会いたかっただけじゃねーの?」

 的を得た質問に、ジェイドは微笑みを浮かべただけで答えない。しかしフロイドにとってそんなことは予想の範疇だったのか「まきがいちゃんに聞いたけどまだ寝てるってよ」と直ぐに次の言葉を紡いだ。
 約10日間の休養は随分長いものである。有給休暇ですと告げられたアズールの声に頷いたものの、全く気晴らしにはならなかった。彼女と会えないことがジェイドへの罰であり、逆もまた然り。ヒヨの主治医は「その方が治りも早くなりそうだろう?」とやや雑に注射針を入れて来たのを思い出す。その言葉通り、ジェイドは予定より4日も早くベッドから解放されたわけなのだが。
 フロイドが開けっぱなしにしている扉を潜り、通い慣れた道を行く。久方振りの扉をノックすると中からメイの姿が現れて「お願いします」と優しく微笑みながら小さく会釈をし、外で待ち構えていたフロイドが腰を抱いて手を振った。二人の後ろ姿を見送りながら、ジェイドはベッドの上で呼吸を繰り返すヒヨを見詰め、ベッドサイドの椅子に腰掛ける。

「…………」

 目元に掛かる髪を指先で退かす。
 あわよくばこれで起きれば良いと思ったが、その手付きは自然と優しいものになる。まさか本当に瞼が開くとは思わず、ジェイドは僅かにその瞳を開きながらなんとか起床の挨拶を送った。

「おはようございます」
「じぇ、ど、さ……?」
「えぇ。その通り、僕はフロイドではありません」
「っ、っ――! あ、ぅ、ジェイド、さ……!」
「あぁほら……骨を折っているんでしょう。あまり激しく泣いてはいけません」

 そう言いながら、ジェイドの瞳にも薄っすらと膜が張っている。お互い人伝てに生きていることは知っていたが、実際に止まらぬ鼓動を繰り返す相手に触るのはあの日以来初めてのことだった。ジェイドなんて「生きている」だけでは信用ならず、あのアズール相手にユニーク魔法まで使ってしまったのである。セダムが困ったように笑いながら「……生きてるよ」と言うので、疑い深い自分は優しい彼らが彼らが甘い嘘を吐いているわけではないのだと、そこで初めて確信した。
 拭っても拭っても溢れる涙をグローブに吸わせながら、ジェイドが眉を下げて口角を上げる。あぁ、最初はまず叱ってやろうと思っていたのに。胸の中でそんな言葉を転がして雛鳥が落ち着くのをひたすら待つ。嗚咽が小さくなって来た頃、ヒヨが目元を赤くしながら「……生きていて良かった、」と笑うので、厳しい言葉なんて全部無視して、思わず覆うように抱き締めてしまった。

「愛しています」
「っ……!? ぁ……わた、しも」
「……言って」
「……私も、愛してます、……ジェイドさん」

 ユニーク魔法を使わなくたって、分かるくらいの甘ったるさだった。舌の上で転がしたら歯が溶けてしまうのではないかと錯覚する程度の。抱き締めると香って来る、彼女らしい日向のような香りを胸いっぱいに取り込みながら身体を離す。

「合併症は?」
「起きてない、です。大丈夫」
「……最悪は死に至る怪我であるという自覚は?」
「そんなの、切り傷でも同じことが言えちゃうんですよ」
「程度の問題です」

 減らず口を咎める為に頬を摘むと観念したように目元を落とし「私の人生で一番の大怪我です、今のところ」なんて言うので「今のところではなく、確実に人生一番の大怪我になるでしょうね」と告げると、ヒヨが伺うようにジェイドの琥珀色を見詰めて、それからゆったりとした動作で腕を伸ばす。頬を撫でながら、彼女が言った。

「自分のこと、責めていますか?」

 誤魔化すのも、嘘を吐くのも得意であるのに。ジェイドは一拍の間を作ってしまった。そうしたら彼女は全てを悟ったように頷いて頬から指を滑り落としながら視線を逸らした。

「私がジェイドさんのユニーク魔法を使えたら良かったのにな」
「そうしたら、彼は母親に会えず報われないまま消えて行ったのでしょうね」
「ジェイドさんには私の魔法を授けますよ」
「僕があのような夢を見せられると?買い被り過ぎです」

 数秒の沈黙。
 ヒヨが、ぽつりぽつりと零した。

「その、腕の怪我」
「……はい?」
「私の所為ですよね。そもそも、皆を巻き込んだのも私ですし、」
「辞めなさい」

 言葉の吐露と共に、ヒヨの瞳からも涙が溢れた。唇をきゅっと噛んで、自分の手で涙を拭う。

「みんな優しいから、誰も私を責めなかったけど、」
「…………」
「それが辛かっ……!」

 事件に巻き込まれた時から、そして今日のこの時まで。ヒヨがずっと抱えていたこの感情を否定することはできない。それでもジェイドは肯定することだってできなかった。

「、すみません……っ」
「……それではもし、あの日、彼を見付けたのが貴方ではない誰かだとして。ヒヨが言うように貴方は巻き込まれた身とします。同じことをした人間を貴方は責めますか?」
「……っ、……」
「良くも悪くも、此処はそういう場所。僕たちは毎日、死と隣り合わせで生きているんです。原因がなんだったかなんてどうでも良い。要は自分と大事な人の命があればそれで良いんですよ」

 その言葉は中々的を得ているようで、けれどもヒヨには納得がいかなかった。それはきっと未だ自分が子供だからだろうと分かっている。だからこそ口を噤んだ。「……でも、腕は私の所為、」と言うのでジェイドはわざとらしく大きな溜息を吐きながら自分の前髪をぐしゃりと潰した。

「……格好が悪いので言いたくなかったですが、」
「……?」
「あの時、瞬時に貴方を庇う選択を取ったことを一番驚いているのは僕のはずです」

 フェイがヒヨに拳銃を向けた時、考えるよりも先に身体が動いたことに衝撃を受けた。普段は如何したって何かを考えてからではないとあまり動けないタイプであるのに。檻の中に閉じ込められたヒヨが溢れんばかりに目を見開いてジェイドを見上げたあの表情を見ながら痛みよりも先に安堵が襲ったことは自分だけの秘密にしたかった。

「本当なら、その怪我も代わりたいくらいなんですよ」
「かわ、りません」
「ふふ。……えぇ、そう言うでしょうね」

 自己犠牲とも取れるような彼らの会話は。しかしどうして、少しだけ意味が違う。――……二人して我儘なだけなのだ。相手が傷付くくらいなら自分が傷付けば良いのに、と願うそこには己だけが満足する傲慢さとエゴが含まれている。そんなことをされたら相手がどう思うかなんて考えていない。自分が楽になる方法を伝えている、だけ。

「貴方の怪我が治り次第、首輪を選びに行きましょうか。鳥籠も設置しなければなりませんね」

 赤くなった目元をスルリと撫でながら乱れた前髪を直そうともせずにコツン、と額を合わせた。

「……そんなことをしたって、貴方はあの時のように自力で出て行ってしまうのでしょうけれど」

 ヒヨはその返答に答えず、ジェイドの唇に噛み付いた。久方振りのお互いの温度に、ジェイドも夢中になりながら貪るように舌を絡ませる。数分そんなことを繰り返し、お互いの唇が銀の糸で結ばれた頃、ヒヨが可笑しいものでも見た時のような表情で笑みを零した。

「私たち、比翼の鳥みたい」

 二羽が常に一体となって飛ぶとされている、中国の鳥。翼も瞳も、一つずつしか持たないとされている伝説の鳥は一羽では何もできない。まさに、ジェイドとヒヨはそれのようであった。ジェイドが居なければ、ヒヨはとっくに命を捨てていただろうし、ジェイドもまた同じこと。
 二人で生き延びようと慣れないことをしたのは比翼の鳥が力を合わせて空を飛行する行動と大差がなかった。

「ジェイドさんの背負うものが増えちゃいましたね」
「……貴方もですよ、ヒヨ」

 ――そもそも、そんなものは大分前から。

 お互いの鼓動を求めるように、二人は再び熱い口付けを交わす。舌の上に残る甘ったるさが、その日はこびりついて離れなかった。