啼歌



 たくさんの愛情をくれる恐ろしい人だった。それと同時に苦しんでいたことも知っている。その事を私には伝えて来ないところが愛情でもあり、拒絶でもあったのだと思う。あくまでそれが憶測であるというのは、既にもう、真相を知る人物が居ないからだ。

「初めまして――では、無いんでしたね。改めて。ジェイド・リーチです」
「……、……ヒヨ・シュラウドです。初めまして」
「おや……シュラウドということは、貴方はイグニハイドの?」
「多分、ジェイドさんが想像しているイグニハイドのボスと、今のボスは違うと思いますから、前のボスの娘……です。実の父ではないですが」
「はぁ。……イグニハイドに居た貴方がオクタヴィネルにいらっしゃるのは何か理由がありそうですね」

 貴方が私を逃したんですよ。――とは、言えなかった。私とジェイドさんを見守る他の人たちがハラハラとした表情で此方を見詰めている。その中で私と、そして対面に立つジェイドさんだけが異端だ。お互い笑みを貼り付けて探り合いをしている真っ最中。ジェイドさんからはありありと「警戒しています」といった様子が見て取れた。なんとなく、懐かしい気分だ。想いが通じてから――いや、ここに来てから何度も季節を巡ったわけでもない癖に、懐かしくて泣きそうになる。私はジェイドさんの視界からいち早く消えられるようにと足を引いて直ぐに部屋を出た。



 好きな人に嫌われるってきっとこういう気持ちなんだろう。失恋の曲、を聴いたら私も登場人物の主人公になれそうだなぁと呑気なことを考える。部屋に戻って泣きに泣いて、気が付いたら眠っていた。時計を見ると既に月も真上まで上がっている時間帯。重たい身体を持ち上げながらフラフラと甲板に出てぼうっと海を眺める。
 ジェイドさんが敵のユニーク魔法に当たってしまい「記憶喪失」になった事を知った。ここ数年の出来事を忘れているようで、彼の記憶からはぽっかりと私の存在が消えている。――ただ、それで良いような気がした。神様が居るのなら、私と出会って苦しんでいるジェイドさんを助けようとしているのだろうな、と、ふと考える。アズールさんに「きっとジェイドさんは直ぐに仕事のことを覚えるだろうし、忘れたままで良いと思います」と告げたらセダムちゃんもメイちゃんも必死になってそれを否定してくれたけれど。でも「私のこと、忘れた方が……楽になれると思うんです」と告げて、頭を下げて。

 船にぶつかる波の音を聴く。
 
 さぶん。さぶん。

 闇のようだ。そこが彼の世界だった。――例えば、この闇に呑まれたら彼の考えていることが少しは分かるだろうか。綺麗だとか汚いだとか、私には良く分からない。知らなくて良いですよ、とも言われた。好きな人のことを知りたいと思うのはいけないことだろうか。

「――っ、なに、をしているんですか!?」

 甲板の柵を乗り越えてふわりと浮こうとした私の腕を伸ばし、引き寄せた体温が音を立てる。板の上に、人間の身体が二つ重なった。切れ長の瞳を見開いて、私の腕が痛いくらいに掴まれる。痕が付くような強さで腕を握られたことって、そういえば無かったなぁ。いつだって彼は私を大事にしてくれていたのだと改めて感じる。

「何をしようと、していたんです!」
「……、え?」
「人間の貴方が夜の海に潜るなんて自殺行為、ッ……どう、してですか……と問うのは愚問ですね。僕の所為だ。アズールたちの様子から見ても、僕と貴方がただの“仲間”で無かったことくらい分かります」

 もしかしなくても、彼は私が死のうと思って甲板の柵を蹴り飛ばしたと思った?……あ、そうだ。今のこの人は私に翼があることも知らないのだった。目の前で必死に訴えるジェイドさんの姿を見ながらゆるりと首を傾げて見せる。

「ジェイドさんが知らないヒトの命を必死になって救うなんて変ですね」
「っ……僕は、恋人であった人間が死のうとしているのを見ても止めないような奴だと?」
「はい。少なくとも今は恋人じゃないから」

 私を抱き留めたままで居るジェイドさんが唇をぎゅっと噛み締めた。珍しい表情だった。いや――私の前で見せることはあるけれど、少なくとも初対面の人を相手にしてこんな顔をするジェイドさんは居ないだろう。なんだか知らない人を相手にしているようで、私はそっと彼の身体から離れた。

「どうして、なのか。僕も知りたい」
「……私を止めたこと?」
「そうです、僕と貴方のことを教えてください。そうしたら、その通りにできるでしょうから」

 その通りにする?
 私にはその意味が理解できず、思わず瞬きを数回繰り返してしまう。きっと、この人のことだから今までのことを事細かに伝えたら“今まで通り”のように振る舞ってくれるのだろう。起きるのが遅いと顔に掛かった髪を避けて少し笑う仕草も、夜になると私の背を撫でて慈しむ表情も、ジェイドさんのことだから完璧に熟してくれる。
 
「ジェイドさん」
「……はい」

 少しだけ緊張した表情を浮かべたこの人が姿勢を正す。その姿を見て私は笑った。

「私のこと、忘れてください」

 記憶を無くしたのに、腕を引いた。救ってくれた。もうそれだけで十分だった。あぁ、この人は何度でも私を救って、そして助けてくれる。だから今度は私がこの人を助ける番だ。触れるのが罪だと自責の念に囚われて欲しくない。苦しんで欲しくない。私にはこの思い出だけで十分だ。そっと胸の奥に仕舞いたい。
 ゆっくりと立ち上がりながら今度こそ私は柵に背を付けて、彼に微笑み――そして、海に落ちた。長い腕が私を捉えることはない。寸のところで掠めた指が夜空を掴む。

 貴方の翼を他の人間に見せたくない。と、呟いた彼の声が耳に残る。暗闇の中で魔法を解いて大きく羽ばたかせた。
 海の中では涙が涙ではなくなるから、地上で流す涙は貴重なのだと教えてくれたジェイドさんの言う通りだ。波打つ海に指を掬い入れたら暗闇に溶けて消えてしまう。涙も無かったことにしてくれる。翼を羽ばたかせながら膝下までを海に付けて、それから私の足が二本であることを悔やんだ。海に潜れたら涙も海に変わるのにな。

 ばしゃん――!

 後ろから大きな水飛沫の音がする――と、思ったら。巨大な影が水面を這い勢いよく私の方まで向かっている。
 
 まさか。うそ。なんで?

 困惑している私を他所に影が水面に現れる。水に濡れた髪が頬に張り付いていた。久々に見た彼の、本来の姿だ。

「ヒヨ」
「……、こんなの、ジェイドさんじゃない」
「逃げないで」
「知らない人を追い掛けて来るなんてジェイドさんじゃない。違う人、」
「すみません。もう全部、思い出しました」
「へ、?」

 ぱちくり、私が目を瞬かせている隙に海の中から腕が伸びた。私の首に回って、身体を寄せられる。膝下まで入っていた私の身体はあっという間にびしょ濡れだ。――それでも嫌な気がしないのは、怖くないのは。目の前にジェイドさんが居るからだ。眉をきゅっと顰めて私を抱き寄せるジェイドさんの身体は普段より一層冷たかった。

「……思い出した、って?」
「そもそも大魔法士でもない人間が放ったユニーク魔法、効果時間などたかが知れているでしょう」
「っ……! そ、れ、分かってて!?」
「いえ。……解けたから分かっただけです」

 ジェイドさんの言葉が、波を打つように静かだ。普段から感情的な訳ではないけれど、彼の周りに居る人間なら誰だって気が付くくらいには。

「どうして“私のことは忘れろ”などと?」
「…………」
「……ヒヨ、大事な話です」

 彼の長い尾鰭が私の身体に巻き付いた。つるり、とした表面のようで、月の光に反射する綺麗な鱗が指に当たる。

「私のことを好きだと思う度に、ジェイドさんが傷付いてるから、」
「誰がそんなこと?」
「……ジェイドさん」
「一度も、言ったことなどありませんが?」
「……わかります、言われなくたって」

 それくらい、わかる。愛した男の苦しむ姿さえ分からない女だと思われているのだろうか。不服だ。

「じゃあ、私が記憶を失ったらジェイドさんは私に“恋人でした”って言いました?」
「えぇ、当たり前でしょう」
「本当は?」
「……、……はぁ。そう、ですね。どうでしょう」
「……それと一緒です」

 多分、一緒に居ない方が幸せになれたんだと思う。私はジェイドさんの首に腕を回しながら、頭の天辺まで海に潜り込んだ。腰をぐっと抱かれて直ぐに水面上に出されてしまう。私の顔も、きっと彼と同じように髪が頬に張り付いているだろう。水滴がぽたぽた、と髪から垂れた。涙の味がする。

「違います。……僕が本当のことを告げないのは、その方が貴方は幸せに暮らせるからです」
「何も違わないじゃないですか。……私も同じ気持ちで“忘れてください”って言ったんですから」
「貴方と恋人で居ない方が、僕が幸せだと?……、っ、はは。く、っは……面白い、ことを、言いますね」
「真剣な話をしてるんですよ……!?」

 夜の海にジェイドさんの笑い声が響く。それはそれは、本当に可笑しい話をした時のような表情で。まるで子供みたいに笑うんだな、なんて驚いてしまう。けれどもそれも直ぐに収まって小さく息を吐き出した後に、不器用にも口角を上げたジェイドさんが私の頬を撫でながら言った。

「貴方と付き合うことができて、僕ばかりが幸せだ」

 ……それは、私の台詞なのに。

 でもそれだと、私もジェイドさんも、二人とも幸せだということになってしまう。――もう、なんでかなぁ。私も幸せな想いをしているって、どうやったら伝わるんだろう。
 海に投げ出した羽を魔法で小さく纏めて、それからジェイドさんに擦り寄って、私は彼に初めて抱き締められた日を思い出しながら泣いた。
 月が少し欠けた、十三夜が見える夜の話だ。