どうか残さず、骨までお召し上がりください



 赤いテーブルクロスの上に鎮座しているカラトリー。白い皿の上にはパプリカソースが散りばめられ、白魚のマリネを引き立てる。ヒヨはそれを見下ろしながら対面に座るジェイドの言い付けを思い出していた。

 入り口の警備員に荷物検査をされたところまでは普段通りだったように記憶している。この部屋に入った瞬間、ジェイドの笑みが消えた。ヒヨの腰を抱いて、普段よりピタリと身体を寄せて来るものだから顔をぽっと染め上げたのは過剰反応ではなかっただろう。しかし、そのまま賑わう客人を置いて部屋の扉を出たジェイドが手洗いに促しつつ『決して、出て来た料理を食べないでください』と耳元で告げて来た。その頃には普段通り、彼の表情には笑顔が戻っている。
 パウダールームに入り、口紅を塗り直した。謎の緊張感。ジェイドの張り詰めた空気がそうさせるのだろう。ひとつ深呼吸をしてから廊下に出て腕に絡み付いた。浮付いているわけではなく、彼が「できるだけ近くにいろ」と目線で訴えて来るからだ。

「大丈夫です。直ぐ終わらせて帰りましょうね」

 こくん、とひとつ頷いて、食堂に入る前にふと後ろを振り返ったら入り口は厳重に閉じられていた。警備員がひとりも居ない。マフィアの運営するダイニングに警備員が一人も居ないことがあるだろうか?有名人が多く集まっている会場の入り口だと言うのに?ドレスの奥に隠した翼が畏怖を語るように小さく震えた。
 席に付いて、ウェイターがドリンクメニューを運ぶ。ジェイドの言われた通りにテーブルへ。食事はこっそりナプキンの中に隠した。

『お待たせしました』

 ウェイターが会場から一人もいなくなったタイミングでアナウンスが流れる。ジェイドが早々に席を立ち、ヒヨを椅子から引っ張り上げた。その間にもアナウンスの続きが流れる。

『素晴らしいディナーショーの幕開けです!紳士淑女の皆様はこの部屋に居る者の“腕”を差し出して、最高のディナーを召し上がってからご帰宅くださいね。時間は120分。どんな手を使って頂いても構いません。ふふ。……あぁ、騒がないで。ほら、扉が壊れてしまいます。ディナーは急がず、騒がず、ゆっくり味わう為にあるのですよ。野蛮な方はこのように――』

 断末魔。混乱。混沌。ジェイドがヒヨを壁側に押し付けた。一瞬、扉に駆け寄った男の身体が協力な電流を流された時のように大きく痙攣しているのを見た。

「じぇい、どさ」
「静かに。……食人家たちに食べられたくなければ部屋の隅に。……そうです、いい子ですね。姿勢を低く」

 そう言われなくても、豪華絢爛な食事処が一気に血の海になっているともなればヒヨの脚はそう強くないもので、簡単に床に座り込むことができた。ヒヨの視線を自身の身体で遮りながら様子を伺うジェイドが「120分も持ちそうにありませんねぇ」と呟く。引っ切り無しに続く男の叫び声。女の悲鳴。

「にげ、られない、んですか?」
「アナウンスを無視して扉を叩き割ろうとした男性は命を捨てましたし、カーテンで隠れている窓は鉄格子で囲まれているようですから無理でしょう」
「……わたし、あの、天井見てきます。飛んで、逃げられる場所がないか探してきます」

 120分もこの部屋に居たら、まず精神が可笑しくなるだろう。普段から命のやり取りを見ているヒヨでも、流石にこの光景は耐え切れない。先程“食人家”と表現したジェイドの言葉通り、この部屋に居る者の殆どが人間を“食べ物”として扱っている。

「ちょっと!私の食材を汚さないでよ!」
「あぁ悪い。でもほら、これは鮮度が悪そうだ。……この男と交換しないか?」

 口元を抑えるヒヨを見下ろして、それから重い溜息を吐いたジェイドが倒れた机からテーブルクロスを拝借し彼女に被らせた。

「馬鹿ですか?天使の肉が食えるなんて、彼らにとったら人生に二度とないチャンス。集中砲火を浴びて、今日から腕のない生活――どころか、骨の欠片も残りませんよ」
「ひ、……」
「ということで、貴方はそれを被って耳を塞いで居なさい。目は開けて僕の後ろを三歩開けて着いて来るんです。背中は常に壁側。できますね?」

 彼の“できますね?”に拒否権がないことは承知している。返事をする代わりに真っ赤なテーブルクロスを巻き込んで耳を塞いだヒヨを確認してからジェイドが床に落ちたカラトリーの一つを拾い上げて人差し指でくるりと回した。フォーク。先が分かれて櫛状になったそれを器用に回しているジェイドが影に向かってそれを振りかざした。三歩後ろ、目線は常にジェイドの足元を映せと言われた。言われた指示に従うヒヨが音の鈍い世界で呼吸をする。心臓の音がよく聞こえた。

 どちゃ。びちゃ。ぐちゅ。

 塞いだ耳の間からでも擬音が流れ込む。血肉が弄ばれる音。それから、絶命の瞬間。ジェイドの言う通り120分を掛けずに食堂の中は血の海で溢れていた。壁際に立っているヒヨもジェイドの後を着いて行くと、ヒールは真っ赤に染まっている。床には腕のない女性と、目が刳り貫かれた男性の亡骸。激しい戦闘でそうなったのではない。意図的に、その部位を、食べる為に無くした。
 胃酸が喉を通る。

「っ、……く、ぅ」
「ヒヨ」
「……ごめ、なさ。だいじょうぶ、です」
「ヒヨ、顔を上げて」

 数十分もその状態を続けていたらいつの間にかジェイドが目の前に現れて、顎を持ち上げられる。赤いテーブルクロスを引っぺがされ、血塗れのジェイドが「汚れちゃいましたね。オクタヴィネルに戻ったらシャワーを浴びましょう」とグローブを外しながら頬を拭って来た。あぁ、あのテーブルクロスは返り血から守る為。私なんてそれどころじゃなかったのに、と彼の冷静な判断力へ混乱を見せるヒヨに対して「もう一度、耳を塞いで」と指示を出すと、突然の浮遊感が身を支配する。軽々と片手で抱き上げたジェイドが入り口に手を掛けた。最初、同じことをして死んでいった者が居た筈なのにジェイドが同じことをしてもそのようにはならなかった。許された、ということだろうか。

「――おめでとうございます、オクタヴィネルのジェイド・リーチ様。そしてヒヨ・ミューズ様。本日の勝者はお二人のようですね」
「腕を二本、選んで来ました。そうだ、僕たちはビーガンですから食事は結構ですよ」

 ヒヨを抱きかかえていない方の手が赤い塊を床に落とした。目の前に立つ女性の周りには数人の警備員。しかし、拳銃等は一切構えていない。真っ赤なドレスに身を包む女が「それは残念」と、ジェイド・リーチが嘘を吐く時のような表情を浮かべて呟いた。

「48人の新鮮な“肉”が用意できましたのに、勿体無いですわね」
「えぇ、本当に。……あぁでも、宴の前に出てきた野菜のオードブルは美味しく頂きました」
「あら、それは良かった」

 ヒヨからは、目の前の美しく麗しい女性とジェイドが話している内容が途切れ途切れにしか聞こえていない。震える身体をきゅ、と押し付けたヒヨを一瞥してから「それでは、僕たちはこれで」と笑みを浮かべたジェイドが紳士らしく一礼を施す。そして、女性の横を堂々と通り過ぎる。警備員がジェイドを出口に送り出すよう道を開けた。

「……残念。今晩は天使の肉と――人魚の肉を食べれそうでしたのに」

 皿の上に乗っかれば、それは瞬時に料理となる。