濡れた指先



 舗装された道を滑るような心地よさで駆け抜けて行く高級車に揺られて、ヒヨはうつらうつらと船を漕いでは慌てて目蓋を開ける。隣で運転しているジェイドが赤信号の隙に後部座席から取ってくれたブランケットが憎い。このままでは寝てしまう、と何度か頬の内側を緩く噛んでみたり、爪の先を弄んで見たりしたのだけれども、どうにも上手くいかなかった。

「寝て良いですよ。無理させたのは僕ですから」
「……運転手の横で寝るのはマナー違反だって教わりました」
「誰に?」
「シャーロックホームズ……」
「…………」

 昨日、ジェイドが帰って来てから男女の営みをしたこともあって、睡眠は普段の半分程度しか取れていない。そもそも、連日のように読み漁っている推理小説の所為で寝不足が続いていたのもある。目を擦りながら姿勢を正したヒヨが気を紛らわせるように窓の外を覗くと沿岸を走っていたこともあって、綺麗な海辺を覗くことができた。ガラス越しに波の様子を目で追うヒヨが「海の中に潜るジェイドさんの姿を見れたら目が覚めるのに、」と冗談まじりの声で運転席の方を見ようとすると彼が勢い良くギアを変える。そしてそのまま、ハンドルをぐるりと傾けた。

「きゃっ……!ッ、ぇ、あ、え!?」
「眠いんでしょう?眠気覚ましのカーレースと行きましょう。ふふ」
「まっ、!?」

 車の通りも少ない穏やかな道だったはずだ。信号で止まることもない、海と山を繋ぐような道。山の麓でしか売っていない薬草が欲しかっただけなのに――……!
 ヒヨが怯えながらシートベルトを握りしめていると、加速したまま道を外れた車が森の中に突っ込んで行く。木と木の間が詰まっている訳ではないにせよ、デコボコとした砂利道がヒヨの身体を揺らした。到底、車が走るようにはできていない。フロントガラスには木の葉が当たり、視界を遮断させる。突然の訪問に驚いた鳥たちが悲鳴を上げながら宙に飛んで行った。

「ジェイドさん、ジェイドさん、目、覚めました!」
「そうですか。それは良かった」
「元の道に戻ってください……!」
「そうしたいのは山々なんですけどね」

 高級車の、それなりに図体の大きい機械を器用に運転するジェイドの表情は普段通りだ。ヒヨがシートベルトを握ったまま後ろを振り返ると、自分たちの後を追うように黒塗りの車が走っていた。わあ。すごい。今にも事故に遭いそう――などと、半ば現実逃避のような思いを抱えたが、自分たちこそ先導して木々を掻い潜っているのだから余計に危なっかしいのだろう。

「目的は貴方か僕か、何方でしょうね」
「……。……ジェイドさんな気がします」
「おや。それはどうして?」
「私が目的なら女性同士で居る時の方が狙い易いです。逆に、今のジェイドさんはフロイドさんもアズールさんも居ない、ましてや構成員も連れていない狙い時……帰り道になって狙ってきたってことは、その情報を仕入れて直ぐに向かって来たのかな、って……」
「推理小説を読んでいるのも、ただの娯楽じゃなさそうですね」
「えへへ、当たりですか?嬉し、ッわ!」

 車の中でも微かに銃撃音が聞こえる。敵が窓から腕を伸ばして銃を構えているのが見えた。すかさずハンドルを反転させたジェイドが、片手でヒヨの身体を抑える。身を乗り出さないように配慮するだけの余裕を兼ね備えた彼はそのまま森の斜面を走るように、半ば転がるように車を運転する。無事、先ほどまで走っていた道路に着陸する頃には敵の車がごろごろと上下左右に揺られながら落ちて来るところだった。そしてそのまま、ガードレールに突っ込む形で停車する。天井が下に、車輪が上になっていることから中の人たちも無事ではないだろう……サッと顔色を青くしたヒヨがシートベルトを外すとその前にジェイドが車を止めて、愛銃のコルトパイソンを手にしながらツカツカと外に出て行く。その際、凍えるような瞳で「待っていなさい」と強めに諭された。
 肯くのを見ないまま、外に出て行ったジェイドが数回、口を開けたり閉じたりと繰り返した後にしゃがみ込んで、そして数秒後には銃のトリガーを引いた。大きな音が辺りに響き渡り、鴉の叫び声が微かに耳に入る。そろり、と助手席のロックを外して外に出たヒヨが恐る恐るジェイドに近付く。

「じぇ、どさ……」
「車に居なさいと言ったはずでは?」
「そ、それはそうなんですけど、」

 先程、銃の音に驚いて鴉が鳴いた様に聞こえたが、ヒヨには「早く逃げろ」と叫んだ彼の言葉がはっきりと理解できていた。銃声か、車から出る煙か、はたまた山道を進んだ時の騒音か――全ての要因か。誰かが来ていることは確かである。早く行こう、と袖口を引っ張ろうとしたヒヨの手を、ジェイドが否定した。素早く躱された手に目をぱちくりと瞬かせるヒヨが彼を見上げる。ジェイドも困惑したように、けれど罪悪感のある表情で唇を噛んだ。珍しい表情だった。

「す、みません。違うんです……手が、汚れていますので」

 そう言われて見てみると、グローブが微かに血で濡れているように見える。黒いグローブだったから、言われるまで気付かなかった。
 汚れているから、触れられたくなかったのだ。ジェイドは自分が血に触れることも、匂いを嗅ぐことにも過敏に反応する。それはきっと彼が守ってくれているからだと分かっていても尚、境界線を引かれているようで拗ねてしまう。子供だと言われようとも少しの物寂しさを感じて堪らない。

「戻りましょう」

 グローブを抜き取ろうとしながら車の方に足先を向けたジェイドの手をヒヨがぎゅう、と握る。アスファルトにぽた、と血が垂れる。ヒヨの手に、指に、血がべとりと張り付いた。

「グローブ、私がお預かりします」

 ジェイドの見下ろす瞳が冷たい。あぁ、怒っている。そう一眼で分かるほど。彼がこうも露骨に感情を露出させることがないから喜ぶところではないのに、それでも頬が緩んでしまうのは致し方ないだろう。遠くから警察の登場を知らせるサイレンが聞こえる。早くこの場から撤退しなければいけないことは明白だった。
 今度こそ車に戻ろうとしたヒヨの後ろ手を掴んで持ち上げたジェイドが、口元に手を持って行く。目がぱち、と合ったところで、見せ付けるように長い舌が手の平、指先、爪……と張って行く。
 顔をカッと赤く染めたヒヨが「じぇ、どさ、」と掠れた声を出す頃には鮮血の影は何処にもなくなっていて、目の前の彼の唾液がべったりと指先を濡らしているだけだった。

「さて、戻りましょうか。……グローブは僕が処理しますから大丈夫ですよ」

 にこり、と笑ったジェイドが火の魔法を唱える頃には奪われたグローブが散り散りになって宙を舞った。固まるヒヨを助手席に乗せて、シートベルトを付けてやる彼が、ヒヨを見上げるようにしながら言った。

「帰りは寝ないで済みそうですね」

 眠気覚ましになって良かった、と耳元で囁いたジェイドがイヤリングに口付けをしてくるのを感じながら、ヒヨは濡れた指先が赤く染まって行く感覚に怯える。――睡魔に変わる劣情を抱えたまま、平気な振りで家まで帰る術を自分は持っていない。小さく唸った小鳥が手持ち無沙汰になった指を宙に浮かせたまま窓越しに頬を赤く染めた自分を見た。