羽を切る



 ジェイド・リーチという男は、露骨に感情を顕にする者ではない。喜怒哀楽という感情を他人に“見せる”為に使うことはあれど、本来のそれを表情に出すのは相棒のフロイドが兼ね備えているが故に、自分は尚更出さずにいられたのかもしれなかった。――で、あるから。今回も妙に落ち着いている自分が居ることに驚きはしない。彼女が大量の出血で血塗れになっているところを俯瞰的な目で見ながら、ジェイドは少しだけ昂る心臓を抑えるように駆け寄った。自分の胸の中で初めて大粒の涙を見せる彼女を抱き締めていると指先が凍えて行くのが分かる。心の底では熱い何かが零れ落ちている癖に、それと反比例するよな体温の下がり具合だ。
 冷静に車を運転して、そうして船に戻る。アドレナリンで気丈を振る舞っていたヒヨが途中から口数を減らしていることを分かっていたので直ぐに抱き上げて治療室へと運んだ。――医者である彼女が一番の大怪我をしているのは何故だろう。そんなの簡単だ。彼女が何もできないただの少女であるからである。本来負わなくて良かったかもしれない傷だった。

「生きていますか」
「……ころさな、で、ください」

 か細く聞こえるヒヨの声に心底安心しながら、医務室の棚を開けた。上から二段目、右から三個目。彼女の指示通りに拾った魔法薬を、彼女の口元に持って行く。

「にがいの、きらいなんです……」

 と、嫌そうに目をきゅっと窄めた彼女の我儘を受け入れて自分の口の中に流し込む。そうしてそのまま、ヒヨの小さな唇に合わせて全てを押し込んだ。舌で余すことなく移してやると、目を瞑りながら露骨に眉の間に皺を作る彼女が喉を鳴らしながら飲み込む。

「……う、ぁ……まずい、です……」
「治らないより良いでしょう?効果は貴方が一番良く知っているじゃないですか」「師匠直伝の魔法薬、特に苦くて、うぅ……っ改良が必要、ですね……」
「……喋らなくて良いですよ」

 口元に手を当てたヒヨの指が震える。僕がそう言うと、彼女は悪戯がバレた子供のような表情で見上げて来た。無理に言葉を紡がれる方が痛々しいと、彼女は知っている筈なのに、それでもできずに居るらしい。
 小さく吐息を溢したヒヨが僕の胸に潜り込んで来た。

「……、……いた、ぃ、です」
「…………そうだと、思います」
「オクタヴィネルに、買って貰わなかったら――」

 そうしたら、どうなってたのかな。
 分かっている癖にそんなことを言う。床に転がったインカムから敵の話は聞いていた。孕みたくもない男の子どもを産んで、そうして翼を切り取られて自由を無くした後、ボロボロになるまで使われてこっぴどく捨てられるのだ。分かっている筈だ。彼女自身が一番、あの冷えと痛みを感じたのだから。
 肩に回した腕にそっと力を入れて引き寄せる。――それでも彼らに露骨な怒りを見せられなかったのは、正直……そうだ。後半に関してはそうなる“予定”だった。使うだけ使ったあと、彼女を捨てる算段だったのだ。本来は。
 自分だって同じことをしようとした癖に彼らだけを罵るのは道理が通っていないだろう。それでも――それでも、自分以外が彼女にそのようなことをしでかそうとすることが、あぁ、どうしても嫌だったのだ。

「……ヒヨ」

 あの時、彼女を手に入れなかったとしてもきっと取りに行っていた――とは、言えない。もしあのオークションで他の人間がもっと高額な値段を出していたのなら、別の方法でイグニハイドを手駒にして居ただろう。あの時は“イグニハイドのボスにとって特別な存在”である彼女を使うのが最短のルートであり、それから、それなりに安い金額でオクタヴィネルへと還元できると思っての行動だった。何も、彼女に一目惚れをしただとか、そんなロマンチックな理由があったわけじゃないのだ。落札できなかった彼女を思い、助けに行くだとか、無理やり手に入れようと言う気は間違っても起きなかっただろう。そうしたら自分は彼女に出会わずに死んでいた。彼女も然り。

「熱がありそうですね」
「…………ぅ、」
「抗生物質を入れましょう。それから鎮痛剤も一緒に点滴を――」
「じぇ、どさ」
「えぇ。どうしました?」
「……なかないで」

 ジェイドリーチは、感情を表に出すような者じゃない。――だから涙だって、滅多に見せない武器だった。真雪の髪を揺らして、彼女は頬に指を滑らせる。するり、と撫でたその人差し指には、ジェイドの涙なんて一滴も落ちていない。それなのに、ヒヨな何度か、涙を拭うように撫で付けた。

「泣いて、いませんが」
「……ないてる、と思います」
「目をくり抜かれたわけではないですよね?それとも、何か魔法でも?」

 自分でも性格が悪いと思いながら矢継ぎ早に責め立てるようなことを言う。ヒヨは変わらず、小さく笑ったままだけれど。

「……ジェイドさん、やさしいから、泣いてくれてることくらいわかります」

 ――優しい、など。ジェイドとは大幅に離れた言葉だ。外面で行ったことに対しての評価なら未だしも、それをせずにそんなことを言うこの少女は大層頭が可笑しいらしい。どうせ、こんな薄暗いところじゃなくたって上手く生きて行ける筈なのに。なんなら、港の花屋でも営んでいそうな柔らかさを孕んでいるのだから、自分の傍に居なくたって良い癖に。

「……そこは、……好きだから、と、言うところじゃありませんか」
「……ふふ。好きじゃなくても、多分わかります」
「好きじゃないんですか?」
「好きです。ジェイドさんも、オクタヴィネルも」

 知っている。そんなこと、痛いほどに知っている。――だからこそ、五億なんて安い。そんな、はした金で彼女が手に入れられて良いわけがない。

 今度こそ、ジェイドリーチは感情を顕にする。身を屈めてベッドに座るヒヨの唇に、自分のそれを口付けた。

「キスをする時は目を瞑るべきでは?」
「……そんな顔してるジェイドさん、……めったに、みれないから」
「言いますね。治ったら覚えておいてください」
「や、やだぁ……」

 花を咲かせるように笑う、彼女の翼が揺れる。ふわり、と落ちた真っ白な羽。普段手入れされて綺麗な純白は、血に濡れて普段の毛並みを消していた。――この翼を切るのは誰にもさせない。するなら自分が、この手で翼を切り取って、それから自由を奪うのだ。
 五億の足枷が無くなってしまった時の次の算段。それを、誰にだって譲ってやらない。