シェイクスピアの初恋



 見ているだけで幸せになれる。自分以外の女性と話していたら胸が苦しくなる。でもその日一度、目が合っただけで嫌なことを全て忘れられる。そのまた翌日も、勝手に愛おしくなって、勝手に切なくなって勝手に哀しくなって勝手に怒って勝手に喜んで、寝る。

「先輩、」

 キッチンで包丁を握る先輩が食材から目を離さないで「ん?」と聞き返した。ふわり、と揺れる、後ろで束ねた髪を目で追ってしまう。私にはない喉仏が動いた後の低い声が耳を通る度、髪を掛けるのが癖になってしまった。「さ、んばんテーブルに、シーフードパスタの注文、です」それだけを告げて、私は唾を飲み込んだ。食材を切り終わってボウルにそれらを落とし込んだ彼が一瞬、視線を此方に向けた。

「わかった。10分待たせといて」

 口角を上げた彼に、私は何度か頷いて慌ててキッチンを出る。注文を伝えた、だけ、なのに。私の鼓動は心底煩い。
 この感情がなんなのか、ナイトイレブンカレッジの授業では教えてくれない。兄のように育ったイデアくんにそれとなく聞いてみたらテーブルに置いていた炭酸ジュースを零して、それから「……シェイクスピアでも、読んだら、いいんじゃない、の」と言う。私は律儀にロミオとジュリエットを借りて読んでみたけれど、心臓の鼓動がどれくらい早くなっているのかは書かれていなかった。

「……私を、殺して。あなたのキスで」

 毒を飲んだロミオの唇に残っているかもしれないと希望を抱き、ジュリエットが告げるシーン。私は慌てて本を閉じて、唇から指を離した。……例えば、先輩が毒を飲んだとして。彼の後を追うような行動をするだろうか?いいや、そもそも、キス――なんて。とても。
 誰かと唇を合わせることの意味は、なに?
 人間というのは時々よくわからないことで愛情を示そうとする。額や頬にするような挨拶ではない。明確に、愛した人と唇を触れ合わせる行為を想像して、私は布団を被った。読みかけのロミオとジュリエットは机の上に置いたままだ。

「恋、なんて」

 したことがないから、分からない。ジュリエットがロミオを愛おしく思うような感情に似た気持ちを抱いたことがあるとしたらイデアくんやオルトくんに思うようなそれだろう。けれど、私はあんなに情熱的な――火傷をするような気持ちは、未だ、感じたことがない。
 布団の中に入って、それから無理やり眠りに付いた。その日の夢見は悪かったように思える。なんというか、変な夢だったような――気がするけれど、覚えていない。チラチラと映る翡翠が脳に焼き付いて、直ぐに先輩の付けているネックレスの色を思い出した。なんだかイケナイことをしたような気持ちになって、未読の本を今日こそ返すべくシェイクスピアを胸に抱えた。

「おや、ヒヨさん。仕事の前に読書ですか?」
「り、ーち……先輩」

 あまり会いたくない人だ。オクタヴィネルの先輩で、そしてラウンジでの上司でもある。ぺこり、と頭を下げて私は急ぎ足で胸に抱えていた本を返そうと返却口に向かった――つもりだったが。

「ロミオとジュリエット、ですか」
「っ!?か、えしてください……!」
「図書館ではお静かに。ですよ」

 そう言われて、私は唇をきゅっと噛み締める。腕の中からするりと抜かれた本の表題を見てからリーチ先輩は小さく笑った。それから直ぐに本が返される。……意地悪なことでもされると思ったのに思いの外、呆気なく返された本を見つめながら、私はきょとんと目を丸くしてしまった。今考えたら大変失礼な行動であっただろう。

「リーチ先輩も、ロミオとジュリエットを読まれたことが?」
「さて。どうでしょう」
「……じゃあ、」

 恋をしたことは?と聞きそうになって、私は慌てて口元を押さえた。よりによってこの人に聞くなんて如何かしてる。そもそも、リーチ先輩が恋をしていたらどうだというのだ。相談相手になって貰おうって?……いいや、別に私は、あの先輩に恋をしている訳では――ない、と、思うし。
 足元を眺めていた私の上から、リーチ先輩は柔らかい声色で問うてきた。

「貴方は恋をどのようなものだと認識しましたか?」
「……え?」
「ロミオとジュリエットの恋模様を見て、どのように感じたかと聞いているんです」

 二人の恋を、見て?
 ベッドの中で火照った指先でページを捲っていたことを思い出しながら、私はおずおずと口を動かした。

「……優しくて、あったかくて、……でも、ちょっと切なくて、」
「……えぇ」
「ステキ」

 私がそう言葉を漏らすとリーチ先輩は優しく笑って「……そうですか」とだけ、答えた。

「リーチ先輩は、どう思っているんですか?」

 彼はシェイクスピアの本が並べられた本棚を見上げながら言った。彼の瞳が、キラリと輝いた気がして、私は思わず宝石のようだと思ってしまう。
 そういえば彼の髪の色も翡翠だ。……翡翠といえば、その名は。

「恋は誠に影法師、いくら追っても逃げて行く。此方が逃げれば追って来て、此方が追えば逃げて行く」
「……へ?」
「ウィリアム・シェイクスピアが書いた、ウィンザーの陽気な女房たち――喜劇のお話です」

 長い腕を伸ばしてシェイクスピアの本棚から一冊の本を抜き取った。僅かに埃が被ったそれをパンパン、と二回ほど叩いてから、私が持っていたロミオとジュリエットの上にそれを置く。

「……恋とは不思議なもので、此方が積極的になるほど相手は逃げて行きます。心の鬼ごっこを楽しむ姿を影法師と重ねた素敵な作品です。……貴方は悲劇より喜劇の方が似合いますよ」

 リーチ先輩はそれだけを言い残して私の横を通り過ぎた。ふわり、と、嗅いだことのない甘い香りがする。香水を付けているのだろうか?……彼からは今まで一度も感じたことがなかったと思うのだけれど。
 彼の背中が見えなくなるまでその姿を目で追っていると、あの緑が脳内にチラ付いた。

「……ジェイド。カワセミをイメージさせる、美しい魔石の名前」

 口の中で、初めて彼の名前を転がした。甘くて、少しほろ苦くて、上手く声に出来ない発音だった。

 最後まで読んでいない癖に、私は第一章でロミオが告げた台詞を思い出す。読んでいる時は理解できなかったのに。――恋なんて、したこともない癖に。