夢じゃない



 窓の外から、東から昂る太陽の光が部屋の中を照らす――なんてことは、オクタヴィネルにはないが、水面に反射した光が海の中を明るく照らして明暗を感知することができる。珍しくベッドの中で、それも愛おしい人の腕の中で目を覚ましたヒヨはその中でもぞり、と動いてから、恋人であるジェイドの表情を確かめる為にそろっと顔を覗かせて見せた。

「……珍しく早起きですね」

 自分が微妙に身体を動かすと、眠たそうな目蓋を開けた彼が自分を見下ろす。服を着ていない彼の胸板が目に毒だが、とろんと蕩けた蜂蜜の目を見るよりは未だ、逃げ場がある。額を押し付けて「起きちゃっただけです、」と言ってみたものの既に頭はクリアであるし、目もぱっちりと開いている。



 窓の外から、東から昂る太陽の光が部屋の中を照らす――なんてことは、オクタヴィネルにはないが、水面に反射した光が海の中を明るく照らして明暗を感知することはできる。ヒヨはほぼ眠れずに過ごした夜をベッドの中で過ごしてから、軽い睡眠の末に思った。

「……まずい、夢じゃない」

 朝になったら夢になってくれないだろうか、と何度も思いながら軽い睡眠をとっては起きていたヒヨがのろのろと起き上がって、ボサボサの髪のまま洗面所に向かう。自分の首元には小さな赤い痕。十六年しか生きていない分際でこのようなことを言うのは破廉恥であると承知の上ではあるのだけれども、赤い痕が身体中に付いていることは何も珍しい事ではない。じゃあ何が問題なのかって、この痕が彼によって付けられたモノではないことである。鏡の中で絶望した自分と対面している彼女は何度目か分からぬ昨日の情景を思い出していた。

 昨日はラウンジのシフトも入っておらず、久々に軽音部に顔を出そうかな……などと考えていた。鞄の中身を整理しながら放課後を待っているとひとりのクラスメイトが扉の前で「ヒヨ、呼ばれてる〜」と、見知らぬ男の子を見ながら声を掛けて来たので不思議に思いながら鞄を持ち上げて其方に向かった。首を傾げながら近付いたら、声を掛けてくれたクラスメイトが「告白じゃね?」なんて面白いように耳元で揶揄って来るので「……やめてよ〜」と頬を膨らませてしまったのは記憶に新しい。まさか、その揶揄いが現実になるとは、思いもしないだろう。だって知らない人であるし。

「リーチ先輩と付き合ってることは知ってるんだけど、さ」
「えっと……はい、」
「好き、なんだよね」
「…………うん」

 隣のクラスの男の子。人気のない場所まで来る間に合同授業の錬金術で一度だけペアになった時の話をされた。正直その時は、エースくんとハルちゃんが二人でペアになって嬉しそうにしていたので其方に気を取られてしまい、隣を歩く彼のこと以前に授業の内容だってまともに覚えてなかったのだけれども。
 ラウンジに何度か来てくれた、とか、歌を聴いて、とか、嬉しいことを言って貰っている間にもなんて断れば穏便に済むだろうか……とぐるぐる考える。好意を抱いてくれているのは嬉しいことであるし、無碍にはしたくない。それがほぼ初対面の人であっても、である。

「……気持ちは、嬉しいんだけど、でもあの。ご存知の通り私はジェイドさんとお付き合いさせて貰ってて、」
「脅されてるんじゃなくて?」
「……脅し?」
「似合わないだろ」

 ガツン、と脳髄を殴られたような感覚に、思わず口をきゅっと閉じてしまった。女子生徒から噂されることはあれど、男子生徒の口からそれを聞いたのは殆ど初めてのことであった。
 ――そんなこと、知っていたはずなのに。自覚、してたのに。それでもショックを受ける自分に「本当は諦めきれてないんじゃん」と悪態を吐いてから「……脅されているわけじゃないよ、」と苦い笑みを浮かべる。

「自分の意思で、お付き合いしてるの。……私がジェイドさんを好き、だか、ら。う、うん。そう。私が好きだから!……だからごめんなさい」

 頭を下げて、直ぐに踵を変えそうと思った。そんな私の腕を引っ張ってあろうことか首筋に唇を重ねたその男子生徒を、私は人生で初めて――殴って、しまったのである。
 襲って来た嫌悪感、恐怖心。頭の中がカッとなって考えるよりも前に手が出ていた。困惑している私と、隣のクラスの彼。じんじんと痛む掌の感覚に人を殴った実感が湧いて来る。慌てて「ごめんなさい!!」と勢いよく謝罪をして、私は半ば逃げ帰るように自室へと戻り、夕食の時間をズラし、極力知人と出会わないように放課後を過ごしたのであった。


 そして、今日。眠れない夜を過ごした理由というのは見知らぬ人を殴ったというショックと、それから衝動的に動いてしまった自分への嫌悪、そして何より――首元に付けられたキスマークの所為だ。まだこれが、恋人の居ない人間であったのなら許されたかもしれない。いや、合意もなくするのは良くないけれど。それよりも何よりも、私は恋人の彼にバレてしまうのが怖かった。
 洗面所の鏡を見ながら魔法を唱える。

「……魔法使いで良かった」

 なんと不純な理由だろう。世界の魔法士たちが聞いて呆れる言葉だ。それから“何事もなかった”身体へと元に戻った私はシャワーを浴びていつも通り制服に腕を通す。ドレッサーの前に座る自分の目の下が、若干暗くなっているけれどコンシーラーを厚めに塗ればバレることもないだろう。普段通り。普段と違うことと言えばいつもより寝ていないことくらい。

「ね?そうでしょう、ヒヨ」

 ドレッサーの鏡は返事をしてくれなかったが、そこに映る自分の笑顔が全てだ。うんうん、大丈夫。今日も元気に学校に行こう。未だ、じんわりと熱を持っているような気もする右の掌を握り締めながら部屋を出ようとしたところで三回ノックの音が聞こえた。

「ジェイドです。入っても?」

 なんでジェイドさん?今このタイミングで?
 さっと顔を青くした自分も、しかしいつも通りであることを装わねばならぬと思い出して返事の代わりに内鍵を開けた。

「珍しいですねジェイドさ――」

 開けた瞬間に、大きな身体が割り入るように部屋に入り込む。それから、何か小さく口を動かしたと思った瞬間に彼の瞳が鋭く変わった。

「なんです?その赤い痕。僕は付けた覚えがありませんが」
「……わぁ」

 ――これ、もう知ってる。
 しかもめちゃくちゃ怒ってる。セダム先輩やフロイド先輩から良く「ジェイド、機嫌悪いね」などという言葉を貰う時はわからないこともあったが、今は目に見えて機嫌が悪い。そしてそれを隠そうともしていない。先ほど身体を近付けて口を動かしたのは彼が私の魔法を打ち負かす為の詠唱だろう。魔法学校で学び始めたばかりである一年の私が、彼の魔法に勝てる訳もない。今、私の首筋には彼が付けた訳ではない赤い痕がくっきりと浮かび上がっているはずだ。

「チガウンデス」
「何がです」
「……違くないけど、違うんです、」
「何が」

 悪いことをした――のかも、わからない。だって許可もなかったし、翻すこともできなかった。でも自分が迂闊だったのも、理解している。ジェイドさんの爪先を見るように視線を動かすと、彼の手袋に包まれた長くて綺麗な指が私の顎を持ち上げた。目が合うと、それは怒りに満ち溢れていたのに、それは直ぐに揺れた。

「……、す、みません」
「……? なん、で、ジェイドさんが謝るんですか」
「言いすぎました」

 そう言って人差し指を私の目尻に持って来たジェイドさんがまるで涙を拭うような仕草をするので目を細めると、頬に水滴が流れる。

「あ、」
「……泣かないで」
「ご、ごめんなさい。え? あ、わたし、本当にそんなつもり、なくって」

 今の一番の被害者はジェイドさんの筈なのに、優しい声色が余計に私を苦しめる。慌てて目を拭おうと一歩後ろに下がったその行動を咎めるようにして彼が優しく抱き締めた。

「嫉妬をしました」
「……、」
「あと、こんなことがあったのに如何して僕に何も言わないんだと」
「……嫌な気分に、させちゃいます」
「どっちみち分かることです」

 トントン、と何度か背中を叩くジャイドさんに暫く宥められていると不意に出て来た涙も落ち着いて、私は彼の大きな背中にそろそろと腕を回す。本当はこの人と似合わないと言われたことが一番ショックだったのかもしれない。そんな、他人の評価なんて如何でもいいと言われてしまいそうだけれども、私からしたら大事なことだった。
 泣き止んだのを見て、ジェイドさんが脚の裏に腕を回す。簡単に、ひょいと抱き上げてベッドの上に座らせた彼はそのまま短いキスを施す。

「嫌ですか?」
「もっ、と、」
「……今日の授業はお休みですね」

 元よりそのつもりでしたけれど。と言いながら、ジェイドさんがベッドの上に優しく押し倒して来る。シルクの柔らかなシーツの上に散らばる私の髪を愛おしそうに撫でながら、彼は赤が散らばった肌を撫でて、それから上書きするように唇を重ねる。痛いくらいに吸われる肌の感覚に目を細めるも、身体は既に彼を求めていた。
 首の裏から手を入れられて、後頭部を支えられながら熱い口付けを交わす。ひんやりと冷たい彼の体温からは考えられないほどの熱が舌から伝わった。熱に魘されて、本当に夢になっているかも。などと馬鹿みたいな夢物語を期待しながら、私は目蓋を閉じた。

「……大丈夫、明日の朝には夢になっていますよ」