「――余計な真似しやがって」
「まぁまぁ、事実でも、っぷは。あります、っあはは!からぁ……!」
「……ラギー、いい加減口を慎まないとこれからお前を砂にする」
「っ、はいはいっと。はー……で?あの子にはまだ言ってないんすか?売られた、ってこと」
穏やかな空気から一転して、VIPルーム内の空気が静まり返る。話題の中心は先ほど場を狂わせたお転婆娘の話だ。彼女がイグニハイドの元ボスであるシュラウド氏に売られたことは、この業界ではかなり有名の話である。なんせ、それはそれは大切に鳥籠の中で育てていた天使様を空に解き放ったのだから。蝶よ花よと育てられていた彼女の姿を見た物はごく一部。あの忌まわしき闇のオークションが開催されるまで大衆の目に晒されることはなかった。それをなんと、このオクタヴィネルが買い取って身を置かせているというのだから驚きだ。誰か天使に興味でもあったのだろうか、とラギーがジェイドに視線を向けた辺りで彼がにこりと笑い返した。
「えぇ、まぁ。彼女はここから出て行くことがありませんし、わざわざ知らせる事でもないでしょう」
「真実を隠して甘い蜜だけ吸わせるなんて随分可愛がってるんだな」
「……」
ジャックの言葉に笑みを深くしたジェイドを一瞥してからアズールがパンパン、と手を鳴らす。切り替えるようにひとつ咳払いをして、それから商談の話へと移った。何も楽しいお茶会をしたいが為に呼び寄せたのではない。今日は同盟を組む組織として仕事の話をする為に呼び出したのだ。
「それじゃあ、話を始めますよ」
スン、とメイが鼻を鳴らす。VIPルームの窓越しに、雨を知らせるような暗雲が立ち込めていた。
雨の匂いを感じつつ、ヒヨは空を飛びながらイグニハイドへ向かっていた。正直な話、ヒヨは世間に疎く、地理なんてものにもめっぽう弱い。最近はメイと二人で情報屋を営んでいるポムフィオーレのアンジュや、医学の師範であるルークの元へと向かうことが多いのでそこまでの道くらいは覚えているが――他のことになると、どうにも。しかし、これがヒヨの特徴でもあるのだが、迷ったら進めが格言である。否、今決めたのだけれど。まぁ、取り敢えず、空の道を進み、青いガラス張りの高層ビルがあったらそれがイグニハイドだ。そして迷いながらも彼女はなんとかイグニハイドの天辺を目に入れていた。空を飛んでほんの数十分。地上を走っていたらこんなに早く着かなかっただろうが、生憎空には信号や障害物がない。ほっと息をつきながら汗ばむ両手をハンカチで拭いながら翼を動かす。
「(……やっと、会えるんだなぁ)」
サバナクローが船に来る度に「私も会いたい」といった気持ちがどんどん膨らんでいた。何度かジェイドへ会いに行っても良いかと進言してみたが「貴方がどこに捕らわれているかお忘れで?」と頑固たる意志で拒否し続けられていたし、セダムの一件でディアソムニアへ赴いた際に同伴してくれたメイでさえも「それは、……ごめん。できないの」と首を横に振られていたので諦めていたのだ。いいや、諦めようとした、のだけれど。
諦められないから自分は此処にいる。自由の翼があれば迷惑を掛けずここに来ることだってできる。喜びと不安と、それらに押し潰されそうになりながらもヒヨがなんとかイグニハイドの敷地内に侵入した。空といえど、きっとイデアは気付いているだろう。ヒヨが来たことを。喜んでくれるだろうか?それとも怒られるだろうか?オルトは元気にしているのか。一番最初に会ったら何を言おう?お父様にはまず謝罪を入れなければいけないかもしれない。
地上に降り立って、イグニハイドの侵入経路を辿る。入り口まではハーツラビュルのように複雑でもなければ、オクタヴィネルのように厳重な警備体制があるわけでもない。しかし、至るところに監視カメラが設定されており警備は一級品。堂々と真ん中を歩いても警報が鳴らないのはヒヨが以前“イグニハイド”に居たからに違いなかった。
そこで、ヒヨは考える。もしお父様が突然消えた娘の帰りを喜んでまたイグニハイドで生活できることになったとしたら。――そしたら、私は。ふとジェイドの姿が思い浮かんだ。いつも意地悪で私のことを跳ね除けるけれど彼が悪い人かと言われれば首を縦に振ることはできない。重圧を一人で背負っているようで放っておけない。以前、転んで怪我をした時にすっ飛んできてくれた顔を見て同一人物かと疑ったことがあるけれど。でも、自分を心配してくれた彼は確かにジェイド・リーチに違いなかった。一緒にご飯を食べる時に「それだけで足りるんですか?」とこっそりデザートを持って来てくれる彼も、起床が遅いと心配して覗きに来てくれる彼も、手当てを拒む癖に着替えてから腕を差しに来る彼も、全部――ジェイド、なのだ。そんな彼とは未だ仲良くなった、とは言い難い。仲良くなる必要はないのかもしれないけど、近付きたいと思っている。――この気持ちがなんなのかヒヨには薄っすら認識していて、けれどやっぱり認めることができなかった。人魚姫は泡になって消えてしまう。あの麗しき彼女と同じ感情だと認めるにはどうしても何かが足りない気がしたのだ。
「――ヒ、ヨ?」
そうして足を止めている間に、入り口に黒塗りの車が泊まった。そこから出て来たのは半年振りに会うお父様だ。名を呼ばれて振り返ると彼が目をまん丸にして自分を凝視しているのに気が付く。全く予想していなかった――!そもそも、心の準備ができていない。慌てて佇まいを済ませて言い訳を連ねてみる。
「ご、ごめんなさいお父様!あの、わたし、庭で遊んでいたら知らない人たちに連れ去られて……で、でもね?いい人に買って貰えて……そう、わたし、医学も学び出したんです!だ、から……あの、えっと、」
言い淀んでいる間に、父が扉を閉めて近付いて来た。それはもう、駆け寄るような勢いで。大股で寄って来た父の顔が見れずに居たヒヨが顔を上げる。
「お父様――」
「大馬鹿者!!」
パンッ、と、大きく、乾いた音が響く。反響する建物なんかイグニハイドが占拠するビルしか存在しないのに。じんじんと痛む頬をそっと指でなぞると頭で理解する前に父が私の肩を揺さぶった。それはもう、暴力とも捉えられるほどに。目は充血し、瞳孔が開いている。激情している証拠だった。
「どうして戻って来た!?」
「……おとうさま、に、あいたくて、」
「お父様だと!?俺はお前を売る為に必死で育てて来た、いわば飼い主に違いない!あのオクタヴィネルに買われたと噂があったが、ックソ、――まさかそこから逃げ出して来たわけじゃないな!?」
「…………そう、です」
「っふざけるなよ!!オクタヴィネルから逃げ出しただなんて、アーシェングロットにバレたら……あぁぁ、お前!今すぐ戻れ!いいな、イグニハイドに来たことはくれぐれも内密にしろ。……バレたらどうなるかわかっているな?」
突き飛ばされるように肩を押された私の脚ががくん、と折れたのがわかる。お父様がイグニハイドの入り口を通り、イデアくんの名を叫んでいる。付き人の使用人たちは同情を隠しきれない表情で横を通り過ぎた。……その中には一緒に紙遊びに付き合ってくれた人も居る。
ポツ、ポツ、と暗雲から雨が降り注ぐ。辺りは一瞬で水に支配された。震える指を持ち上げて恐る恐る頬を撫でると父に殴られた痕が痛みとして残っているのがわかる。彼にされたこと、言われたこと、理解できないようでいて、私は直ぐに理解してしまった。やっぱりそうだったんだ、という感情の方が胸を占めているのはあのオークション会場に売られた時に察していたのもあるのだろう。それにも関わらず私は馬鹿だから彼らのことを家族だから、と、裏切られたわけではないのだからと必死に言いくるめていた。
「……ヒヨ!」
遠くで再び名を呼ばれる。車を乗り捨てるようにして降りて来た彼は、私が初めて見ると思えるほどに動揺している。
「……帰りましょう」
ジェイドさんが雨に濡れることなんて構わないと言ったように膝をついて頬に指を当てているそれを覆った。それから痛々しい表情を浮かべて、私を抱き上げようとした――のを、いつも彼がしているように払いのける。
「ッ、……ヒヨ?」
「……かえりません」
「……、は?」
「……かえりません。わたし、まだ、お父様に言ってない、」
言いたいことがある。わたし、お父様にどうしても言いたいことが。
「……いいえ、帰ります。貴方の家はイグニハイドではない。オクタヴィネルの船上にあるんです」
「ジェイドさん、知ってたんですか?父が、わたしを売ったこと」
「……」
「知ってないわけ、ないですよね。……それなのに、わたしのことを余所者って、言ってたんですか?わたし、その度に、本当の家族はイグニハイドにあるから、って、思い込めるように……ッふ、ぅ。ひっく、だから、わたしが、悪くて、だから、」
「……帰りましょう」
「――帰りません!!」
ジェイドさんの腕を払いのけた私は自然と翼が膨張するのを悟った。それが私の“ユニーク魔法”を使う合図だ。
「ッ――!何をしているんですか!そんな膨大な力を使ったら……!」
「触らないで!わたしに、一歩も、近寄らないで……!」
伸ばされた手から逃れるように脚を奮い立たせて立ち上がった。ジェイドさんは未だに私が座り込んでいたところに焦点を当てている。そう。確かに彼には私が見えているのだ。
「……もう一度、父に、イデアくんに、オルトくんに……家族に、会わせてください」
駆け出したと同時に、雨の水滴が足元を濡らした。そのまま入り口へと滑り込んで“私を処罰しない”イグニハイドの機械たちの間を抜けながらエレベーターのボタンを押す。暗証番号は変わっていなかった。私の、誕生日だ。