嗚呼、まずい。なんだこれ。まずい、まずい。黙れ、心臓。
見るな。誘うな。全ての視線を無視して僕に向けて歌うな。――駄目だ、駄目だ。こんなの、小鳥のさえずりなんて可愛いモノじゃない。天へ魂を返すよう遣わされた、神の悪戯だ。
――……墜ちる。
翡翠と小鳥の歌
賑わうホールの声を微かに耳に入れながら扉を閉めた。暫くこの中に篭って何をしていたかと言われたら――そういうことだ。男は性にだらしがないと言うけれど、本当にそうらしい。僕は、少なくともフロイドよりコントロールができると思っていたのに。通路で佇みながらなんとなく上を見上げる。素知らぬ顔で戻るのは簡単だが、アズールとフロイドにバレた時が一番面倒なんですよね。
「っ、リーチ先輩……!」
そんなことを思っていたのに、駆け寄って来たのは先程までステージに立っていた女だ。上気した頬をピンク色に染め、ドレスアップした髪を纏め上げている。
あの腕を引き寄せて、噛み付くように頸へキスをして、胸が開いたドレスの上から僕の手を滑らせる。頂きを摘んだら、あのピンク色の唇でさえずるように声を出すのだろうか。
「どうしました?」
「あ、いや……そ、その。ライブが終わってから見掛けなかったので……打ち上げ、先輩が居ないと……」
要するに、僕が長い時間ホールを不在にしていたのが気になったらしい。胸の前で手を組み、居心地が悪そうに視線を右往左往動かしている彼女を見降ろしながらこの学園で過ごすには向いていないだろうに、と何度目か分からない考えを吐き捨てた。
「大勢に囲まれるのは初めてですか?」
「……そ、う、ですね。歌を歌って、こんなに褒めて貰うのは……三人目、です」
「三人目が数十人――いえ、数百人になってしまいましたが」
「……、……正直、ちょっとだけ困ります」
本当に困っている、とでも言うように彼女は眉を下げた。僕の心臓に手を入れてぐちゃぐちゃに掻き回した癖に、自分はさも被害者だと言うような面をする。口の中でギリ、と歯を噛んで感情を押さえ込んだ。
「あの、……リーチ、先輩は」
「…………」
「私の歌――どう、思いましたか?」
――そんなの決まっている。不快だった、と言えば良い。聞くに耐えないレベルだったと。ステージに立つのなら、もっと練習して来い。……と、思ってもいない言葉を吐き出すのは得意だろう。得意、でしょう。僕。
見上げるような瞳が憎い。蜂蜜色の瞳がとろりと溶けたようにも見える。不安と畏怖の感情が奥の底で揺らめいていた。
「…………、初めてにしては、……良かったんじゃないですか。最後まで聞けましたしね」
「っ……! ほ、本当ですか! 良かったぁ」
そんな、妥協点ですら喜ぶこの女が嫌いだった。あぁ、もっと皮肉を込めて最高の歌だったと言えれば良かったのに。そうしたら此奴は萎縮して「思ってませんよね? ……もっと勉強します」と悲しげに唇を縮めただろうに。分かっているのに、言えない。
心臓の辺りをぎゅっと掴んで、それから彼女の華奢な肩に手を掛けてホールへ促す。
「ほら、主役が席を空けてはいけません。戻りましょう」
「はい……!」
この触った手で僕が何をしていたかも知らずに笑っているこの女が、僕は心底嫌いだ。苛々する。あぁ、本当に、本当に。
ホールへの扉を開くと横にいた彼女は直ぐに囲まれた。恥ずかしそうに笑う彼女が中心に向かうのを見送りながら、僕は壁際に背を付ける。
ノンアルコールカクテルを片手に近寄って来た相棒が、肩を組んで、顔を覗き込んでから不快そうに顔を顰めるので視線を逸らす。
「ジェーイド、遅かったじゃ……、……その顔、初めて見る」
「どんな顔ですか。鏡がないので分かりません」
「オレ、あんまり好きじゃなぁい」
「奇遇ですね。僕もですよ」
「見てないのに?」
「見てなくても分かります」
「さっき分かんないって言ってたじゃん。……あ!ちょ、飲むなら自分の取って来てくんね?」
アルコールなんて入ってない筈なのに、今は余韻だけで酔える気がした。フロイドの肩に頭を預けると何かを察したのかフロイドが僕の髪をさらりと撫で付けてくれる。
「ジェイド、これから変わっちゃうんだ」
彼の言葉が、今にも後にも耳に残って離れなかった。そんな、身を焦がす夜の話だ。
◇◇◇◇
あの夜から数年と数ヶ月。学園を卒業して二回目の夏が訪れようとしている――と、言うのに、相変わらず彼女は隣を歩いていた。――正確に言えば、フラフラ歩き回る彼女の後を追っているのは自分かもしれないけれど。次の仕事内容に目を通していた彼女が小さく「えっ、」と声を上げて、手で口を抑える。あの頃の子供っぽさを残しつつ、美しさを兼ね備えた彼女の姿が電波に乗っていると思うとやっぱり少し、……いいや、大分気に食わない。
「なんです?」
「……オリジナル曲……私が……作詞作曲……」
「語彙力が無くなるほど驚くことじゃないでしょう」
「私、自分で曲を作るのは苦手というか……」
「知っています。学生時代アズール に言われて作った結果、ボロボロでやっぱり良いと却下されていましたもんね」
「な!?な、ななな、何で知っているんですか!?」
「ふふ。アズールが溜めた要らない書類をシュレッダーに掛けていたのは僕ですよ」
ぽぽぽ、と頬を真っ赤に染めたヒヨが「知られてたなんて初耳です〜!墓場まで持って行くつもりだったのに……!」と僕の腕をぽかぽかと殴る。全く痛くない。
「墓場まで持って行ったとて、同じ墓に入るんですからその後知ることになるじゃないですか」
「そうですけど――!……そうですけど?」
「なんで疑問形なんですか? ほら、もう寝ますよ。明日も朝から仕事なんですから。二人で遅刻なんて許されないでしょう」
「……大事な話だと思います」
「なんの話をしてましたっけ?忘れちゃいました」
「嘘吐き」
「今更知ったんですか? 僕は昔から嘘吐きですよ」
ベッドに寝転がって、ヒヨの腕を引っ張る。手に持っていた書類をはらはらと宙に舞い上がらせながら、僕の隣にぽすっと埋もれて来た彼女が「……墓場の話、」と珍しく食い下がるのでキスでもして黙らせてやろうと思ったのに手で塞がれる。だからそのまま手の平に口付けてやった。強請るように見上げたら、彼女が「う、」と唸り声を上げて僕の胸の中に蹲る。
「……そのかおによわいのしってるからだ」
「ふふ、その通りです」
「……、……ジェイドさん、心臓うるさい」
「……嘘吐きなので、鼓動の速さも変えられるんです。知らなかったんですか?」
「嘘吐きだから、その言葉も嘘ですよね」
「……おやおや、言うようになりました」
胸の中に顔を埋めるヒヨの肩まで布団を引っ張り上げながら小さな背中をトントン、と叩く。純白の翼をブラッシングするように撫で付けた。時計の秒針が進んでいく音だけが耳に入る。
「歌を作るなんて無理です」
「僕も一緒に考えます」
「……ジェイドさんが?」
きょとん、と目を丸くしたヒヨが胸から顔を浮かべて見上げて来た。
「作詞作曲の欄にお互いの名前が横に並ぶの、素敵だと思いませんか?」
「えぇ、あのジェイドさんがロマンチックなことを言う……」
「失礼ですね。僕って一応、ロマンチストなんですよ」
「嘘吐き……」
「ふふ」
意図が理解できない、と困惑した表情のまま彼女は僕の横に寝転がった。ふぁ、と小さく欠伸を溢している姿を横目に入れながら寝室の照明を落とす。サイドテーブルにある間接照明のお陰でヒヨの長い睫毛が影を描いていた。
「……ヒヨ」
「なんですか?」
「ユニーク魔法、使ってくれませんか」
「え?」
眠たそうにふわふわと浮いていた思考を引き戻された、とでも言うように、ヒヨが目蓋を開けて僕を見上げた。
「……どうして?」
「良いから」
「……歌のお仕事がある前の日は絶対に使うなっていつも言うじゃないですか」
「…………」
「何が理由なんですか?今日のジェイドさん、ちょっと可笑しいです」
僕の髪を払って頬を撫でる彼女が、甘い声で問い掛ける。母が子供を甘やかすような優しい声だった。
そのまま彼女の頭を掻き抱いて胸の中に押し込める。
「ユニーク魔法を沢山使えば、声が出なくなるでしょう」
「……?」
「……僕の為だけに歌ってくれない貴方に、嫉妬をしました。――明日、歌わなくて良い。だから僕の為だけに歌って」
仕事を放棄させて、声まで独り占めしようとする。大衆の前にいる彼女がいつ僕の隣を歩かなくなるかなんて分からない。帰る場所が同じ、というだけで、ヒヨと僕の関係に絶対などないのだ。
「……ジェイドさん、覚えてますか?私が初めてラウンジのステージに立った時のこと」
「……どうでしたっけ」
「歌う前……緊張してたら“緊張しすぎると声が出ないですよ。好きに歌って来てください”って言ってくれたんです」
「……」
「それまで大勢の前で歌うことなんてしたことがなくて戸惑ってたんですけど。……それを聞いて――この人のために届けるつもりで歌おう、って思ったんです」
そうしたらあんまり緊張せずに歌えた、と小さく笑った彼女の姿を見ながら、本当はエスパーなんじゃないかと勘繰ってしまった。あの時の自分の気持ち、それから、今の自分の感情。どちらも救うこの人の言葉が胸をぎゅっと締め付ける。
「プロとして仕事をしているんだから、そんな気持ちで歌うのは良くないって分かってるんです。でも、……今でも私はあの時から変わっていないから、同じ気持ちで歌ってます。……伝わっていませんか?」
僕の背中を優しく撫でるヒヨに、僕のユニーク魔法を使うまでもない。ぎゅ、と一層強く抱き締めたら「く、苦しっ……!」とくぐもった声が聞こえた。
「歌、作るの辞めましょう」
「どうして?」
「……ヒヨを引き立てる曲を、他の人間に聞かせるには未だ早いだろうと思ったので」
「……ふふふ。それ、もうジェイドさんが作った方が良いですよ」
あぁやっぱり、これは神様の悪戯だ。こんなに幸せな夜があるだなんて知らなきゃ良かった。
どうかこの天使が、空に帰りませんように。大人しく見送ることなんてきっともうできない。さり気なくヒヨの左手を触って、キスを強請るように薬指を撫でる。瞳を閉じた彼女を見ながら間接照明を落として、触れるだけの口付けを施した。