愛の告白が言えない



「ほんっとうにごめん!謝って済む事じゃないけど、ごめん!」

 目の前で、カリム・アルアジームが額を床に擦り付けた。ラウンジのど真ん中、仕事を終えたばかりで給仕服を纏ったジェイド・リーチの目の前で起こしたその行動に店内の清掃をしていたバイトたちと、後を追って来たジャミル、それから腕を引かれたヒヨが口をぽかんと開けたまま身動きも出来ずにその光景を眺めている。

「オレが食うはずだった飯を代わりに食った所為でヒヨが喋れなくなった」
「…………」
「本当に、ごめん。ジェイド」
「ま、まっ!待って!ちが、あの、喋れますから!わたし!」

 誤解を招くようなカリムの言い方に、ヒヨがぴょんと飛び出して彼の横に膝を付いた。「ほら、喋れる!ね?ね?」と慌てたように声を出すヒヨは確かに言葉を喋れているし、普段通り鈴を鳴らしたような声を上げる。肩をぐいぐいと押し上げてなんとか床と額を離してやろうと四苦八苦するヒヨを見下ろしながら、ジェイドの鋭い瞳が視線を持ち上げて、扉の前で頭を抱えるジャミルの方へ向けられた。

「……毒物に術が混ぜ込んであった。喋れなくなったのは『き』と『は』だ。……この二つの文字を、理解はできるが喋ることは出来ない。ミューズ、喋ってみろ」
「えっ、」
「ヒヨ」
「……」
「言って」
「…………、い」

 未だ、床と対面しているカリムをチラチラと気にしながら、圧に負けて返事をしたヒヨから「は」の言葉が聞こえない。少ない説明で全てを察したジェイドがヒヨの腕を引いた。
 カリムがのろのろと顔を上げながら「責任は取る。スカラビアの寮長として、それからアルアジーム家の長男として原因の究明と術の解除を直ぐに見付ける……!」と力強い瞳をジェイドに向けた彼には確かな光が宿っている。確かに、事の発端はスカラビアに呼ばれて食事を取っていた事だったが、自分がこうならなければ代わりにカリムが同じことになっていたわけだ。毒の鑑定が得意なカリムが無理やりヒヨに食べさせたわけでもない。厨房の様子を見てくるから先に食っててくれ、と言われて食べた中に紛れ込んでいたもの。だから、元はと言えばそれを仕込んだ人が悪いわけなのだ。とてもカリムが謝るようなことではない。そもそもこれが日常茶飯事のように行われていると身を持って知る事ができて良かった、とすら思えたくらいだ。どんなに怖いだろう。そりゃあジャミル先輩の作る料理しか食べられなくなるわけだな……などと、ヒヨは楽観的に捉えている。なんせ自分のユニーク魔法のデメリットが声の消失なので二文字が消えたところで然程の不便も感じていないのである。随分と警戒心の薄いことだった。

「……そうですか。有難う御座います」
「っ、じゃあ、オレたちは術の解き方を調べて来、」
「――ですが、責任は取って頂かなくて構いません。此方でなんとかします。ヒヨ、行きますよ」
「えっ」
「え!?まっ、ジェイド!待ってくれ!」
「……カリム、行くぞ」
「そんなこと言ったってジャミル!」

 ヒヨの肩を抱いて、薄らと浮かべた外面の笑みを消した彼は近場のバイトに「今日は先に上がらせて頂きます。店内の確認はVIPルームに居るアズールにお願いしてください」と一言告げて、そのまま鏡の間の方へと向かう。

「じぇ、いど、さん……」
「…………」

 ごめんなさい、と言うべきか、怒ってますか、と聞くべきか。ヒヨは考えあぐねていた。どちらの言葉も「き」と「は」は入っていないから伝えられるのに、結局、何を言うべきか分からずに口をきゅっと結ぶことしかできない。
 居心地の悪いままヒヨの自室まで来ると優しくベッドに座らされて、ぎゅうと強く抱き締められる。窓から反射する海の光。波の動きに沿って床も揺れているような錯覚を覚える。トク、トク、と普段より少しだけ早いような鼓動の音は自分のものではなくて目の前の大きな少年から聞こえる音だった。耳を済ませてみる。やっぱり心臓の音が早い。

「驚かせちゃって、ごめんなさい」
「…………許しません」
「でも、ジャミル先輩が命に別状 なさそうだって……、あ」
「……本当に喋れないんですね」

 全ての言葉が喋れないわけではない。たった二文字が喋れないだけでかなりの違和感だった。無意識に自分の喉を触って、うーん、と唸って見せる。

「なんでこの二文字だったんでしょうか。あんまり使わない言葉だから良かったぁ」
「何も良くありませんけどね」
「でも、ほら……『じぇ』が喋れなくなっちゃったらジェイドさんの名前が言えなくなっちゃうし」
「……本当、貴方って、」

 楽観的ですよね。そう言いながら、ジェイドが肩に顔を埋めた。子供が母に縋るような行為は、普段の彼を思い出すと随分と珍しい。命に別状がないだなんて彼の言葉を鵜呑みにして。そこまで不便がないからと全てを許そうとする。頭ではカリムが悪いわけではないと分かっていながら、彼女を危険に遭わせたあの男たちにかなりの怒りを覚えたというのに当の本人は怒りという感情こそ抜け落ちているような素振りだった。自分だけがこんなに心配をして、なんだか空回りしているような気分になる。

「明日から、術の解き方を調べないと……」
「そうですね。解けるまでこの部屋で調べ物を続ける日々が続きますよ」
「……授業は?」

 何があるか分からないのに行かせる訳がないだろ、といった表情でにこりと笑った彼はヒヨから離れてスマートホンを片手で操作した。アズールへ手助けを一つ。それから、既に閉館されているであろう図書館の鍵を持っている少女への連絡を一つ送ってヨレた服装を整えた。これから鍵を取って深夜の図書館に行かねばならない。その間、仮にあの「ジャミル・バイパー」から命の別状はないと告げられた彼女を一人で置いて行けるわけもない。止むを得ずもう一人、信頼の置いている女性に連絡をしてから残された彼女を見下ろしつつ「セダムを監視役として派遣しましたから大人しく部屋で待っていてください」と告げる。

「でも、」
「返事は“はい”か“イエス”の二択……と言いたいところですが、どちらも言えないんでしたね」
「……わかりました」
「ふふ、賢い人は好きですよ」
「私も き……、あ」

 そうか。好きの言葉だって言えないんだ。普段は恥ずかしがってあまり言えないけれど、言えないとなると物寂しくなる。ジェイドが自分を見つめる目にも曇りの色が深くなったのは決して勘違いではないだろう。弱々しく彼の袖口を握ったヒヨが「……わ、たしは、あいしてる……」と頬を染めながら伝えると、ジェイドは吐くはずだった息を僅かに止めたあと、困ったように微笑を浮かべた。

「……僕も愛しています。ですから、大人しくできますね?」
「…… みません。……ごめんなさい」
「良いです。貴方に振り回されるのは慣れていますから」
「……? 振り回されているの 、私の方じゃないで か?」
「寝言は寝てから言ってください。それとも術式の所為でしょうか……毒の回りが早そうですね」

 表情で怒ったぞ、と感情を顕にして来るヒヨに心臓を燻られながら腰を屈めて、後頭部に手を当てながら口付けを施した。キスをしたら、術が移れば良いのに。そうしたらきっと彼女は慌てて図書館に駆け込み、伝手もないまま書類を漁るんだろう。――自分のことになると如何も楽観的だ。悪い訳ではない。気持ちもわかる。そんな自分が怒れないことも知っている。だからこそもどかしい。

「……愛しています、ヒヨ」
「っ、ぅ、……わたしも、」
「……言って」
「……あい、してる」

 言葉を失った所為で得られる愛情があるのが憎らしい。こんなことなら普段から伝えておけばよかった、と、それこそ口にはしないまでも二人が同じことを考えながら身体を離した。

 夜明けまで術の解析を進めたジェイド・リーチがその三日後、ジャミルに呼ばれてスカラビアを訪れた際は珍しくシフトに穴を開けた。文句も言わず、代打で仕事に入ったフロイドは「これで拒否ったら部屋の壁が一枚消えて四人部屋にでもなりそうだしぃ……」と冗談にも取れない言葉を溢しながらキッチンでひたすら包丁を握っていた。魚の頭を一瞬で落としたフロイドが「……お前も、魚になりたくなかったら怖いものには触れない方がいいよぉ。少なくともラウンジには三つあるかんね」とその辺のバイトに忠告にもならないような脅しを掛ける。そんなことをしなくたって、無碍に命を捨てるような人間はこのオクタヴィネルには居ない――と、思う。などと思いながら、男は真っ白なまな板の上で鮮血を広げる頭のない魚を見下ろした。

「五番テーブルに追加でシーフードピザの注文です!」
「……はい」
「あ〜い」

 数日、学校にも仕事にも顔を出さなかった同級生の彼女は申し訳なさそうな表情で仕事に来れなかったことを謝ったあと、普段通りの姿、表情でホールを駆ける。
 彼女にこそ、触れない方が良い。頭が落ちた魚を思い出しながら背中をぶるりと震わせた男は、その後、珍しくグローブの付けていないジェイド・リーチの登場を知らせるベルの音を聞いて再認識した。触らぬ神に祟りなし、だ。