神様の愛した人殺し



 産んでしまってごめんなさい、と床に額を付けて泣く母の姿を、ヒヨは一度だって忘れたことはなかった。彼女の懺悔の言葉は、決してヒヨに向けられた言葉じゃない。言うなれば、神に向けられた過ちへの償いだ。
 愛すこともできない貴方を産み落としてごめんなさい、と泣く母を目の前にして自分はどう反応するのが正解だったのだろう。今にして思えば「貴方なんて産まなきゃ良かった」と殴られて叩かれて、物を投げ付けられた方がマシだったように思える。いっそ嫌いになることが出来たら、痛いことをするから好きじゃないと言い切れたら良かった。そんな――此方に非はないまでも、どうしたって愛せないと謝る母に、憎悪を向けられるだけの感情を持っていなかったヒヨはただ一言「…いいよ」とぽつり呟いた。

「わたし、へーきだよ」

 そもそも――そんなことを言われなくたって、数年共に暮らしていたのだから気が付いているというものだった。母と過ごすより、幼稚園の先生と一緒に居る時間の方が遥かに長く、そうして、何度も読んだ絵本の読み聞かせだって母にして貰ったことはない。ヒヨが部屋から出て来ないように、目を引くような玩具が部屋の中に溢れていてもどうしたって満たされないものがあった。何せ、ヒヨが一番欲しいものは、世界中のどの玩具を贈られたって存在する筈がなかったからだ。
 彼女の言葉をストン、と胸の中に下ろしたヒヨは笑った。無理やり浮かべた笑みじゃない。自分の子供を通して神に懺悔をする、母ではない女の姿があまりにも可哀想で自然と生まれたものだっただけだ。これ以上苦しまなくても良いのにな、などと、子供ながらに感じたヒヨは女から距離を取る。

「……だいじょうぶだよ」

 壊れかけている母を、純白の翼ごと抱き締めた男が居る。血の繋がりもない、戸籍上は――一応、父となるのだろうか。その男に抱き締められている母を見ながらひとりぼっちではなくて良かったと心底感じる。
 母は一度、選択を間違えただけだ。愛してはいけない男の子供を孕んで、産み落としただけ。結果それを愛せなかっただけで、どうして罪になるのだろう。世間が“子供を愛さなくてはならない”と擦り込むからこうして傷付いただけなのだ。
 対する自分は、今までに何度も間違えた。一番の過ちは、そう。母の元に“生まれてしまったこと”だ。母が許されるのなら、自分も許されるべき選択だったのかもしれない。それでも、母を許すのがヒヨだとしたら、ヒヨを許す人間は誰になるのか。一度も会ったことのない実の父親が“生まれて来ても良い”と認めてくれるんじゃないか――などという希望は望みが薄い。なんたって、字の如く、一度も会ったことがないのだから。
 玩具で囲まれた部屋を出て、ヒヨは一人で嘆きの島を一望できる場所まで登りに行った。三日月が輝く夜空が綺麗だ。その日は少し肌寒くて、けれど、ヒヨの半袖のワンピースでだって震えずにはいられるような気候だった。歩いて登れば、幼いヒヨは直ぐに立ち止まってしまっていたのだろうが母譲りの翼がある。ふわふわと覚束ない飛行で宙を飛んでしまえば圧倒いう間に高台まで来ることができる。すう、と、全身で空気を吸い込んでみた。木に囲まれたこの場所の空気が美味しい。
 どんなことをされても子供は母を嫌いになれない。――親は子供を嫌いになれるのに、なんて残酷なことだろう。彼女が懇願した神という存在がこの世に居るのなら一度お話をしてみたかったとすら思う。もし、天国にしか居ないのであればそれは叶わない願いになるのだと思うが。

「……きれぇ」

 月も、星も、木の葉が揺れる音も。全てが心地よい。そして何より綺麗だと思ったのはヒヨの立っている絶壁の崖の下に波を立てる海の青だった。空とは違う、深い青。嘆きの島というだけあって海を目にすることは多かったけれど、生憎ヒヨは水の中では息ができない。寧ろ、空に羽ばたいて雲を掴む方がまだ可能性があるくらいの生物だ。できないと言われるから憧れるのか、それともこれが海の魅力なのか、子供のヒヨには分からずにいたけれど最期になるなら行けないところに行ってみたいと思った。不思議と、未知のものに対する恐怖はない。
 崖のギリギリに立って上を見上げる。星を見詰めたまま、後ろ向きに“飛べる”ようにしようと、背中の翼を折りたたむ。

 ――そうしてヒヨは飛び立った。

 落ちていく最中に遠ざかっていく半円の月。星。葉が揺れる音はもう聞こえない。聞こえるのは身体が落ちて行くことで聞こえる風の音。内臓が浮くような居心地の悪さを覚えた頃、ヒヨの小さな身体が水に打ち付けられた。
 空から海へ。口を小さく開いたヒヨからこぽこぽと小さなシャボン玉が浮き上がって行く。綺麗だと思って掴もうと手を伸ばしたらパチンと割れた。水の中でもシャボン玉ができることをヒヨはこの日、初めて知る。そうして何度か遊んでいると呼吸が出来ずに苦しくなって、喉を抑える。条件反射で上へ這い出ようともがく身体は自由が効かず、寧ろ深い青に吸い込まれて行くだけだった。苦しくて苦しくて涙が出るのに、海の中ではそれも無意味だ。これもこの日、ヒヨが初めて知った二つ目のこと。

「(おか、さ……)」

 助けて。と、声にならない声は、最後のシャボン玉として浮き上がって、パチンと消える。あぁ、陸じゃなくて良かった。海の中でなら、あの女性もこの声が聞こえたりしないだろう。不意に苦しさから解放されたヒヨは一言、最期だけ、言えなかった言葉を口から吐き出す。

「(だいすき)」

 貴方が嫌いでも、ずっと。嫌いになれなくてごめんなさい。大好きな貴方が、これで赦されますように。そんな願いを込めながら、ヒヨは目蓋を降ろす。その際、シャボン玉を割った指が何かに触れたような気がしたけれど、ヒヨがそれを掴むことは叶わなかった。

 願わくば、次の世界では神様とお話ができますように。