春を待ち地獄に降る



 軽音部の扉をこんなに重いと感じたことはあっただろうか。扉の取っ手に手を掛けながら小さく唸り声を上げて、私はその場から動けないでいた。中に入るのが嫌なのではない、かけるべき言葉を考えあぐねているのだ。扉の前で突っ立っている私を不審がるように他の生徒が廊下を通り過ぎる。何人の生徒を見送っただろう。漸く決心が付いた私は「よし!」と小さく意気込みを入れて扉を勢いよく開く。

 ……あれ、誰も居ない。目をパチパチ、と瞬かせた私の後ろから肩をトンと叩かれた。

「お、ヒヨ!今日は部活来れる日か?」

 きょ、今日に限ってカリム先輩しか居ないってどういうことなの。ケイト先輩は?リリアちゃんは……!?いやいや、ホリデーを開けてから初めて顔を出す(シフトの都合で私だけ出遅れた)部活でカリム先輩と二人きりにするなんてひどい!ばか!先輩なのに!なんて、二人にとって身に覚えのない罵倒を心の中で叫びながら「……こ、こんにちは」と引き攣った笑みで返す。

 カリム先輩にこんなにもぎこちない言葉を送ったのには訳がある。そう、冬のホリデーだ。私はスカラビアの方には行っていなかったが、マジカメからオクタヴィネルの三人とカリム先輩、それからジャミル先輩の様子を見ていた。その当時は肝が冷えたものの、今じゃ大した騒動でもない。――当事者ではない私たちは、の話である。

「……カリム先輩、ターバンの結び目がずれてます」
「今日は自分で結んだからなぁ」
「私が直しても良いですか?」
「助かる!」

 近場の椅子に座ったカリム先輩の横に立って、ターバンを一度、スルスルと解いて行く。彼の近くからは陽だまりのような温かさと、それから少しだけスパイシーな香りがする。その匂いが、私は大好きだった。しかし、今日はその刺激的な香りが薄い。理由は明白だ。

「……カリム先輩」
「ん?」
「……ジェイドさん、が、失礼なこと、しませんでしたか」
「ジェイド?……あはは!なるほどな、気にしてたのか〜」

 にゃはは、と普段通り豪快に笑ったカリム先輩が座ったまま私の方を見るので「前を向いてくれないと結べません……!」と言えば「あ、悪いわるい!」と笑いながら再び前を向いた。

「ジェイドが“僕の目を見て”なんて言うから驚いたぜ!それくらいかな」
「(……ユニーク魔法だ)」
「“裏切られたら語彙の限りに罵ってから海に沈める”ってのも中々面白い冗談だったし、助かったな!」
「(絶対に冗談じゃない……)」

 楽観的なカリム先輩の前で、私は罪悪感を抱えながら彼の頭にターバンを結ぶ。きゅ、と締めると彼は鏡も見ていないのに「ヒヨは器用だな」と言って笑いながら、私の頭を撫でた。
 ギリシャ語で「燃える眼」とも呼ばれるパイロープガーネットのような瞳が向けられる。あぁ、綺麗だ、と思った。小さい頃からずっと一緒に居た親友の本音を、あんな風に吐露されて聞かされたこの人の気持ちはどこにあるんだろう。じわ、と涙が浮かび、「すいません、」と謝って誤魔化すつもりだった。

「優しいな、ヒヨは」

 そんなことを言われたら誤魔化すこともできなくて、私はただ、カリム先輩の真横で顔を覆う。言われなければ、笑って隠してトイレにでも逃げ込んで、気持ちを落ち着かせてから戻れたのに。そうしたらバレなかったかもしれないのに。全て見透かしたようなカリム先輩の瞳は、ジェイドさんに少しだけ似ている。

「……ごめんなさい、ごめんなさい、カリム先輩、」
「何に謝ってるんだ?」
「私が泣いて良いことじゃない。勝手に想像して、勝手に泣いてる、」

 私は、カリム先輩が好きだ。疾しい気持ちではない。一人の人間として、彼が好きなのだ。大きくて、暖かくて、笑顔で皆を包んでくれる優しさがあって。何度そんな彼に救われただろう。ケイト先輩に半ば強引に勧誘された軽音部で、ぴょんと椅子から跳ねて、扉の前に突っ立っている私を出迎えた彼。そうして色んな人を救ってきた彼を救えるのは誰なんだろう。

「わたし、カリム先輩が好きです」
「ん、オレも好きだぜ。ヒヨのこと」
「……だから、ジャミルさんの好きなところも、愚痴も、いっぱい聞かせてください!」

 ぐい、と涙を拭って目の前の彼にそう言えば、近づいた顔が目を丸くしてきょとん、と首を傾げた。それから、彼の瞳が細くなる。

「っ、ははは!っはぁ……ヒヨは面白いなぁ、」

 面白い物を見た、というように、彼は笑いながら目尻に溜まった涙を拭う。

「ジャミル先輩と、私はこの教室でくらいしか関わりないですけど……でも、やっぱりいつ見てもカリム先輩とジャミル先輩は仲がいいな〜ってこっちが笑顔になっちゃいます」

「……今も、か?」

 縋るような声だった。初めて見る、彼のほんの少し脆い部分だ。結んだターバンを避けるようにしてカリム先輩の柔らかな髪を撫でる。

「今も……そう見えてる?」
「寧ろ今の方が仲が良さそうです。……ジェイドさんとフロイド先輩はアズール先輩と喧嘩をしますけど、直ぐに元に戻ります。……彼らも多分、友達じゃない。でも、主従関係でもない」
「そうだなぁ、……仲良いもんな、あいつら」
「あの人たち、自分たちの関係に名前なんて必要ないと思ってるんです、きっと。あ、いや……これは私の勝手な想像ですけど。……だから、一緒にいる関係に名前なんて必要ないんじゃないかなって」

 カリム先輩が、立っている私のお腹の辺りに、こてんと頭を寄せて来た。なんだか子供のようで、私は小さく笑みを浮かべながらそれを享受する。柔らかな髪を梳いて、撫で付ける。長男である彼は、今だけナイトイレブンカレッジのいち生徒、カリム・アルアジームに過ぎない。

「……ジャミル先輩がまた、軽音部にドーナツを作ってくれるの楽しみにしてますね」
「言っておく」
「喧嘩になりませんか?」
「喧嘩するほど仲がいい、って良く言うしな」

 お腹に、すり、と一度だけ顔を押し付けて、それからにぱっと笑みを浮かべたまま顔を上げたカリム先輩を見て私も自然と笑顔になる。それと同時に、教室の扉が勢い良く開いた。

「カリム、明日の寮長会議の資料を纏めてないんじゃないのか」
「あ、忘れてた!あー……自分でやるって言ったのになぁ……悪い、ジャミル!今からやる!」

 ……手伝ってくれ、じゃないんだ。ゆるゆる、と頬を緩ませてしまった私は椅子から勢い良く立ち上がったカリム先輩の背中を見詰める。「悪いな、」と顔の前で手を合わせるカリム先輩に首を振って「行ってらっしゃい」と見送った。――と、同時に、ジャミル先輩の鋭い瞳と目が合う。私はジェイドさんじゃないから、それだけで意図を汲み取ることはできない。ただ、「あ、これは嫌われている」となんとなく察して、苦い笑みを浮かべながら頭をぺこりと下げた。……何処からかは分からないけどきっと聞かれてた。の、かもしれない。わからないけど。
 あぁでも、カリム先輩を追いかける彼の足取りがほんの少し軽くなっているのを見て、やっぱり名前のある関係になれる日だって近いんじゃないかな――などと、淡い期待を抱いた。まだ肌寒い、雪の匂いが香る日の出来事だ。