地獄への招待状



 今日は雲ひとつない晴天だった。朝にはフロイドさんお手製のふわふわのパンケーキを食べて、スマホを見たらアンちゃんとハルちゃんからお出掛けの日程を知らせる嬉しいお知らせも入っている。身に纏う洋服はジェイドさんが用意してくれた愛らしいワンピースで、アズールさんが褒めてくれた靴と、セダムさんとメイちゃんがプレゼントしてくれたアクセサリーが耳を飾る。これ以上ないくらい幸せで恵まれた朝だった。

「……ヒ、ヨ?」

 清々しいほど、綺麗な朝である。私の周りに広がる鮮血を照らす太陽の光は、目の前の彼の前では大層不釣り合いだった。なんとなく――何となくだけれど、私が死んでしまうのならそれは月の綺麗な夜だと思っていたので不思議な感覚だ。ジェイドさん、と彼の名前を呼びたいのに、私の喉はもう、彼の名前すら紡ぐことができない。

「……ぃ、……ぁ」
「……ヒヨ?…………あ、ぁ、もう、怪我、を、また」
「……ひゅ、ッ……っ、ぅ」

 あぁ、死ぬんだ。
 それはきっと、私が医学を学んで来なくたって悟っていただろう死だった。脳の中がスッと溶けるみたいに冷たい。指先が動かない。痛みもなければ、息苦しさも然程ない。だと言うのに、胸に溢れ出る思いを吐き出そうとすると床に赤い液体が広がった。人間の身体にどれだけの血液があるのかを知識では知っていたはずなのに、いざ自分の血液が広がっているのを見ると“こんなに血が出るんだなぁ”と楽観的になる。
 地面に伏せる私を見下ろしていたジェイドさんは、まるで芯が折れたとでも言うように膝を折って床に付いた。そんなもんだから彼の顔がぐんと近くまで寄る。――と、言うのに、視界がぼやけてハッキリと見ることができないのが惜しかった。それでもなんとなく分かるのは、彼が今まで見たこともないほど狼狽した表情を浮かべているのだろうということだ。
 彼も悟っている。伊達に死神の名を得ている訳ではない。人間の死に、多く立ち寄って来た彼だから、賢いこの人のことだから、分かっているのだ。私がもう死んでしまうことを。

「……だ、いじょうぶですよ。えぇ、えぇ、貴方が他の人にするように、治療をしましょう。なにから、なにをすれば良いですか?止血、そうですね、止血、止血をしてから、そうして」
「……ぇ、……ん」
「――ッ喋らないで!……っす、いません。つい、僕らしくないですね。ふふ……そう、喋らなくて、良いんです。大丈夫ですからね」

 止血も意味がないくらい、腹に大きな穴が空いているということを、この人は知っている筈だ。普段より冷えた手が私の身体を覆う。しかしそれも、然程の感覚もない。声にならない代わりに視線で訴えてみた。
 伝わらない。
 何故って、ジェイドさんが私を見てくれないからだ。明らかに動揺した様子を見せて、はく、はく、と息が浅く聞こえる。

「誰かを治す貴方がこんなに大怪我を負ってどうするんです。……困ります」

 そうだ。魔力が切れて、隠さなきゃいけない筈の翼は元の大きさまで広がっていた。ボロボロに折れた羽は赤い血を吸って元の色を無くしている。折角この人が綺麗だと褒めてくれたのに。あぁ、どうせなら綺麗なままの姿を見せていたかった。綺麗な姿を思い出して貰えるようになりたかった。――でもそうしたら地獄には行けないような気もするのでこれはこれで良いのかもしれない。

「……、か、ひゅ、っ……ぅ、」
「何をしようとしているんです」
「……ど、……?」
「やめてください」
「…………」
「やめなさい!」

 私が身に付けたユニーク魔法は、何処までも我儘なものだった。他人に、いいや、自分に幻想を見させられるとっても素敵な魔法。しかし、それは決して真実になり得ることはない。何故なら、真実とは現実で起こったことが全てであるからだ。私の魔法は所詮、白昼夢でしかない。それでも良い。本来の私は綺麗じゃないかもしれないけれど、彼の記憶だけでも綺麗でありたいと願うのは、私がこの人に心底惚れているからだ。思い出して貰う姿は、惚れて貰った姿のままが良い。手入れの施された白い翼に、ブローをして貰ったふわふわの髪。彼の買ってくれたお洋服。

 そうして、太陽の光。

 最期を迎えるなら、これほど恵まれた日はないだろう。――そう思うのに、私はこんな時にでも“まだ死にたくなかったなぁ”と思ってしまうのだ。晴天の空、最高の日、そして、愛する人の腕の中。あぁ、なんて恵まれた最期。でも、それでも私は、人生に悔いなど殆どないのだけれど、この人を置いて行きたくなかったと思ってしまうのだ。
 最後に使うユニーク魔法が彼で良かった。もう無いと思っていた魔力や体力を全て使い切るつもりで彼に魔法を掛ける。「やめ、て」と途切れるような声が聞こえた。咎めるようなそれではない。懇願するような声色だった。

「ひ、よ、お願いします、置いていかないで」

 地獄で、のんびり待ってますね――という言葉は伝わることがない。私の喉はキュウ、と鳴るばかりで息の漏れる、ガス欠のような音だけが小さく響くだけだ。言葉が伝わらないのってどうしてこんなにもどかしいんだろう。
 私の頭を抱き寄せるジェイドさんの瞳からぼろぼろと宝石のような涙が落ちて行った。私の頬を伝って赤色の海に混じる。やっぱりこの人は、青く澄んだ海が似合うなぁ。
 私の大好きなオクタヴィネル。大好きな家族。最後のお別れもできなかった出来損ないの礼儀知らずでごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。地獄で待っているけれど、決して来て欲しい訳ではない。もし貴方たちが数百年と生きてくれようものなら、我慢できない私はいつかの夏の亡霊のように化けて出て行くだろうから長く長く生きて欲しい。そんなことを言ったら勝手だと泣いて怒ってくれそうな、姉のような二人と、当たり前でしょうと顔を歪めて発してくれそうなボスの姿が思い浮かぶ。フロイドさんはなんて言うんだろう。あぁでも、多分「うみどりちゃん、死んだの」と訳が分かってない顔で聞きそうだと思った。全て妄言なのだけれど、なるほど、これが走馬灯というものらしい。ちょっとだけ幸せな気持ちになれた。

「ヒヨ、だめ」

 最期にはこれ以上ないくらい相応しい日だった。――だからこそ、死ぬには勿体ない日でもある。


小鳥の夢見ドリーミング バード

 どうか、息が途切れても貴方が好きになってくれた“天使”のような私を思い出してくれますように。




 憎たらしいほど清々しい日だった。太陽は平等に辺りを照らし、影を作る。木の葉を鳴らす風は穏やかだった。
 その瞬間、ジェイドリーチの腕の中にあった生命がパタリと抜け落ちた“音”がする。正確には音など一音だってしていないのだけれども、ジェイドはソレが蝋のようになって行くのを、腕の中で感じて行く。羽のように軽いと思っていた少女がこんなにも重い。どうしてだろう。死後硬直の所為だ。早く床に平らに寝かせてやらないと、ジェイドの腕の中に収まったままの体勢から動けなくさせてしまう。頭ではわかっている癖に、ジェイドは全く理解できなかった。いいや、したくなかったと言うのが正しいのかもしれない。

「ジェイド、それなに」

 どれくらいの時間をそうしていたのだろう。いつの間にか片割れが傍に来て、ジェイドの腕にすっぽりと抱かれている少女を見下ろす。“ソレ”と形容されて思い当たるものがひとつしかない。

「なにそれ」
「…………」
「蝋人形みてぇ。…ねぇジェイド、本物のヒヨ、何処に居るの?迎えに行かねーの?」
「…………」

 あまりにもジェイドが反応しないからだろうか。返事をしないジェイドの肩を揺すると、その腕から彼女がするりと抜け落ちて行く。床に落ちた彼女は、もう赤い海にだって溺れてくれない。
 ジェイドは“ソレ”を見下ろしながら、初めて博物館というものに行った時のことを思い出す。よもや、人間とはなんと不気味で奇妙なものを飾って愛でるのだろうと思っていた。目の前にいる鳥の剥製と、実際に空を飛ぶ鳥は同一には見えないというのに元は同じものなのだと言う。命だけがすっぽりと抜けてしまった“モノ”というのは、こんなにも味気ないものなのだろうか――と、ジェイドの心を揺さぶった記憶がある。
 はくり、久方ぶりに声を吐き出そうとしたジェイドリーチに耳を傾けたフロイドが首を傾げる。

「なに、ジェイド」
「………て」
「聞こえねぇってば」
「……フロイド」
「なぁに」
「……四人にしていいですか」
「誰と誰と誰と誰のこと」

 ジェイドの瞳が見えない。フロイドはそこでやっとこさジェイドが抱き抱えていたものがヒヨ・ミューズであったことを理解する。

「は、……ヒヨって死ぬの」
「ふろいど」
「……え?……ジェイドも死ぬの?」
「はい」
「…………コレと一緒になんの?」
「はい」
「やだ」

 ジェイドが死ぬことより、生命がすっぽり抜け落ちて蝋人形のように固まった存在をまざまざと見せられたフロイドは、大事な片割れが同じく物のようになってしまうことが嫌だった。今まで誰が死んだって然程の興味を示さなかったフロイドは、ヒヨの死体を突いて表情を抜け落とした。

「やだ」
「ごめん」
「……って言っても、ジェイド聞かねぇの知ってるよ」
「はい」
「オレは殺さないかんね。――自分で死ね」
「勿論」
「四人にされるんだ、オレたち」
「任せますね」
「じゃあ、……うみどりちゃんは任せるよ。地獄で待ってて、ジェイド」

 それに答えないジェイドが、この日、初めてにこりと笑って、愛用していたコルトパイソンを自分で頭に突きつけた。

「再会するにはこれ以上ない日ですよ、ヒヨ」